文化遺産となった美しい刑務所~設計者の孫・山下洋輔さんに聴く
青い空に煉瓦の赤がくっきりと映える。ピリッと冷えた朝の空気を、熱い思いが籠もったピアノの音が振るわせる――今月いっぱいで閉庁する奈良少年刑務所のお別れイベントとして、ジャズピアニストの山下洋輔さんが11日、構内で野外演奏会を開いた。近隣の住民など約450人が演奏を堪能した。
同刑務所は、旧奈良監獄時代から続いた108年にわたる歴史に幕を閉じるが、建物は国の重要文化財に指定され、観光資源として保存・活用されることになっている。この刑務所を設計したのは、山下さんの祖父山下啓次郎。山下さんは、地元の人らが作った「奈良少年刑務所を宝に思う会」の会長となり、保存運動の先頭に立ってきたが、その念願が叶ってのコンサートだ。
朝10時から聴衆を前にしての演奏は「生まれて初めて」という山下さんだが、祖父の作品である建築物を前に、自作の『ゆずり葉の頃』、奈良をイメージした『やわらぎ』を弾きながら気持ちが大いに高まったらしく、「めったにやらない」というピアノソロでの『ラプソディ・イン・ブルー』を熱演。バラード曲『Only Look at You』をしっとりと弾いた後、山下家の家紋が入った羽織を着て、祖父を偲び『おじいさんの古時計』を演奏、さらにアンコールで『ボレロ』を披露した。
不平等条約解消と監獄の近代化
山下さんの祖父啓次郎は、薩摩藩士山下房親の次男として、現在の鹿児島市で生まれた。東京帝国大学に進み、東京駅舎の設計で知られる辰野金吾のもとで建築学を修める。そして、司法省営繕課長として明治40年代初めに相次いで完成した五大監獄(千葉、長崎、金沢、鹿児島、奈良)の建築に携わった。
明治維新以降、新政府にとっては、幕末に欧米各国と結んだ不平等条約の解消と、様々な面での「文明化」「西洋化」が急務だった。不平等条約のうち、関税自主権の回復と並ぶ最大の懸案だった治外法権の撤廃については、陸奥宗光らによる交渉が実を結び、明治27(1894)年の第一次条約改正によって、5年後に実現する見通しとなった。
そうなると、監獄制度の改善が急いで行うべき大きな課題になった。治外法権が撤廃されれば、罪を犯した外国人は、日本の刑務所で刑に服することになる。政府は、欧米各国に対し、日本にも欧米なみに人権に配慮した法制度と刑務所があることを示す必要に迫られたのだ。
監獄則は明治32年7月の改正条約実施に伴って、外国人収容を前提に改正された。さらに同41年、新刑法と共に、新たに監獄法が交付される(この監獄法は、2006年に「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」ができるまで生きていた)。
施設の方は、まずは明治28(1895)年、東京に煉瓦造りの巣鴨監獄が完成。明治32年には、それまで内務省が管轄していた監獄行政を司法省に移管し、各府県の負担とされていた監獄の運営・建築費も国庫負担とすることが決まった。これにより、5つの監獄を近代的な施設に改築することが決定。山下啓次郎はその設計にあたることになった。
なぜか奈良県から海外視察に
ところが啓次郎は、明治34年7月にいったん法務省を休職している。奈良県から監獄建築工事事務嘱託に任じられ、同年8月から翌35年4月までの8ヶ月間、欧米各国を歴訪。8ヵ国で約30個所の刑務所を視察した。そこで学んだ技術や意匠が、五大刑務所に取り入れられるのだが、それにしても、なぜ国費での海外出張ではなく、奈良県からの派遣だったのか?
この経緯は長く謎だったが、今回のコンサートの前日、山下さんは荒井正吾・奈良県知事と面談して、ようやく得心がいった、という。
「当時のお役人の海外留学は、長い順番待ちの状態だったらしいんです。でも、啓次郎は五大監獄建築の前に、何としても欧米を視察したい。そういう時に、奈良県知事が薩摩出身だったんですよ」
奈良監獄の改築も控えており、薩摩出身者の強いつながりから、知事の判断で、奈良県で啓次郎の海外視察を支えることになったのだろう、と山下さんは納得した。
帰国後、啓次郎は明治36年に司法省に復職。この経緯からも、啓次郎にとって奈良監獄には格別の思い入れがあったことだろう。五大監獄のうち最後に完成した施設でもあり、啓次郎が自らの経験と知識をあますところなく注ぎ込んだ作品と言えるのではないか。
機能性と美しさを兼ね備えた最先端の刑務所
奈良監獄は明治41(1908)に完成した。監視台を要に扇形に舎房を並べるハビランドシステムと呼ばれる建物の配置。中央の監視台に立つと、5つの居室棟がすべて見渡せる実に機能的な構造だ。
廊下の天井には明かり取りがいくつも作られて、外の光が差し込む。なかでも医務棟の窓はとりわけ大きく、明るい造りになっている。1人用の風呂も備えられている。衛生や人権などへの配慮は、啓次郎が欧米で学んできた結果であり、当時としては画期的だったろう。
そして、これが刑務所か、と思うほどの美しい赤煉瓦の外観は、啓次郎の美意識の発露であると同時に、懸命に西洋化近代化を果たそうと務め、精一杯背伸びして文明化した姿を見せようとする、当時の日本の姿をも彷彿とさせる。
工事の多くに、受刑者たちの労働力が活用された。これも、啓次郎の主張による、という。
敷地内には、江戸時代に使われていた奈良奉行所の牢舎も移築保存されている。木造の檻で、雨風が吹き込む、見るからに劣悪な環境。キリギリスなどを入れる虫かごに似ていることからギス監と呼ばれる。それと対比することで、奈良監獄の近代性を印象づけようとしたのだろうか。
監獄から少年刑務所へ
奈良監獄は、その後奈良刑務所と改称された。そして、戦後の少年犯罪の増加に対応するため、昭和21年から少年刑務所となり、26歳未満の受刑者を収容し更生教育を重視する矯正施設として機能してきた。性犯罪の再犯指導など教育プログラムに力を入れ、高校の通信課程の受講も行った。理容師養成所などの職業訓練コースが用意され、庁舎前に開設された若草理容室は地域住民の常連客も多かった。
作家の寮美千子さんは、ここで「社会性涵養プログラム」として、受刑者に詩を書く指導を行い、作品を詩集『空が青いから白をえらんだのです』(新潮文庫)にまとめた。詩を通して心を通わせた若い受刑者たちとこの刑務所について、寮さんはこう語る。
「ほとんどの子が、犯罪を犯す前に何らかの被害を受けていた。どの子も犯罪者として生まれたわけではなく、適切な福祉や教育が受けられなかったために、ここに来ることになったんです。前は、刑務所の塀は受刑者を閉じ込めておくためのものだったと思っていたけれど、実は彼らに生きていく力がつくまで、社会から守る防波堤だったんですよ」
すべては鹿児島から始まった
山下洋輔さんが、祖父が刑務所建築に携わったことを知ったのは、今から30年余り前。鹿児島での演奏会の前に、鹿児島刑務所が祖父の設計によるものであると母親から聞かされた。
「最初は、『なんで監獄なんだよ』と思いましてね。東京駅や迎賓館ならいいのに……と(笑)」
この時、鹿児島刑務所は移転が決まっており、啓次郎設計の建物は取り壊されることになっていた。地元では建築の専門家などが保存を求め、運動体もできていた。山下さんもそれに加わったが、すでに土地は国から鹿児島市に引き渡され、市は解体を決めていた。反対署名なども集まったが、時すでに遅しだった。
せめて一矢報いようと、山下さんと保存運動の人たちが刑務所前でコンサートを企画した。しかし、これも拒まれたため、主催者は一計を案じた。
「門の前で集会をやらせろと言っても、ダメと言うに決まっている。そこで、建築家の孫が、作曲するにあたって曲想を練るためにここを散策したいと言っている。ついては、小さな鍵盤楽器――ピアニカですね――を持って行き、音を出すかもしれないが、お許し下さい、という手紙を市長に出したんですね。それで当日行ってみると、トラックからグランドピアノを下ろしているところでした(笑)」(山下さん)
市への手紙には「演奏会ではありませんから観客は動員しません」とあったが、少なからぬ聴衆が集まり、多くのマスメディアが取材に押しかけた。
「そこに、鹿児島大学のジャズクラブが、『たまたま』楽器を持って通りかかる。なぜかドラムまで持って通りかかる(笑)」
それでセッションが始まった。すべては、地元でたまり場にしていたジャズ喫茶で打ち合わせした通りの展開。こうして、行政を出し抜く形でコンサートは実現したが、刑務所の建物は正門を除いて取り壊されてしまった。
完全な形で残ったのは奈良
この鹿児島の一件から、山下さんのルーツをたどる旅が始まった。お墓で碑文を写し、五大監獄を見て回り、様々な資料を漁り、欧米に演奏旅行に行く時には、祖父が訪れた刑務所を訪問。
「その結果、バンドマンの先祖がお巡りだったという、あってはならぬ事実を発見してしまった(笑)」
啓次郎の父(つまり山下さんの曾祖父)房親は、西郷隆盛の指示で、川路利良らと共にポリス制度の発足に関わったほか、西南戦争に政府軍の一員として参加して片足を失い、その後は鍛冶橋監獄(後の市ヶ谷刑務所)の典獄(所長)となっていたのだ(詳細は、山下さんの小説『ドバラダ門』に詳しい)。
それで、啓次郎が監獄建築を手がけた経緯も理解できた。
ほぼ同じ時期にできた五大監獄だが、その顔は1つひとつ異なる。
「(五大監獄は)すべての門は、その土地も合わせて違うデザインなんです。鹿児島には堅牢な塔があり、銃眼がついている。長崎は、なんとなく中国風の飾りがある。奈良の塔は、僕にはどうしてもアラブっぽく見える。いろんな文化がシルクロードを通って奈良に来たって言うじゃないですか。それをイメージしていたんじゃないかな」
五大監獄のうち、鹿児島刑務所は解体され、跡地は総合競技施設、鹿児島アリーナになった。長崎刑務所も正門を除いて取り壊され、跡地は商業施設に。金沢刑務所も移転し、正門と中央看守所、舎房の一部は愛知県にある野外博物館・明治村で保存されている。千葉刑務所は、正門と本館のみが今も使われている。
刑務所として、啓次郎が建てたものがほぼ完全な形で残っているのは奈良少年刑務所だけだった。
地元から上がった「壊すのは惜しい」の声
「奈良もいずれは……と思っていたら、所長さんから『そろそろ…』という言葉が出たんですね。それを、作家の寮美千子さんが聞きつけた。寮さんは、刑務所の中で教育活動をやっていたので、話が伝わりやすかったんですね。それで、『これは惜しい』ということで、『奈良少年刑務所を宝に思う会』を立ち上げ、僕に『あなたが大将になりなさい』。それで『よろこんで』と」
ただ、この建物を今後も刑務所として使い続けるには、耐震化などの改修工事を行う必要があり、それに要する多額な費用が障害となっていた。
「だから、いずれは壊されてしまうんではないかなと思っていたんですが、寮さんの意気込みがただ事ではない」
地元の人たちから、とかく迷惑施設扱いされがちな刑務所だが、奈良少年刑務所の場合は、愛着を持っている人々がたくさんいた。
「その意気込みが伝わってきて、私も生まれて初めてツテを頼って、政治家に近寄った(笑)」
高校時代の同級生の人脈を頼りに、谷垣禎一元法相に会った。
谷垣氏は「取り壊すと決まってはいない。私としては保存の方向を模索したい」と言った。
山下さんは、その言葉に希望を抱いた。建築の専門家たちなどからも、建物全体を保存すべきという声が当局に寄せられた。
重要文化財に決定
そして昨年10月、文化庁文化審議会が「明治政府による監獄の近代化を示す煉瓦建築群(旧奈良監獄)」を重要文化財として指定する答申が文科相に提出され、今年2月に正式決定された。
文化庁で建造物文化財を担当する西岡聡・文化財調査官は、月刊誌『刑政』2月号に、旧奈良監獄の文化財としての価値を次のように書いている。
〈1つの評価点は、旧奈良監獄の建造物が(中略)わが国の煉瓦造建造物の中でも最も質の高いものの1つであり、意匠的に優秀であることである。
もう1つの評価点は、旧奈良監獄が監獄の国際標準化を目指して明治政府が計画したいわゆる五大監獄のうち、最後に建設された最も完成度の高い監獄であり、しかもそれが明治期の監獄でほぼ完全な姿で残る唯一の遺構として、高い歴史的価値がみとめられることである〉
重文指定について、山下さんは「改めて、じいさんはすごいことをやったんだなあという気がしますね」とうれしそうだ。
「公共の建物は、譲り渡し先と予算が決まれば、もう後戻りは起きえない。今回は、それが決まる前の早い段階で(保存を訴える運動が)始まったのが大きかった」
鹿児島では、当局の目を欺いての「監獄前コンサート」だったが、奈良少年刑務所では受刑者が作った製品などを売る矯正展に招かれ、演奏を行ったこともある。今回も、堂々と門の中に入っての演奏。
収容されていた受刑者の多くは、すでに他の刑務所に移されており、この日のコンサートの後は、希望する地域住民らを対象に内部の見学会も行われた。
今後、この建物はPFI事業により、民間業者が保存と活用を行うことになる。すでに建物の活用を希望する複数の事業者がプランを応募している。その中から、5月には事業が決定し、旧奈良監獄は第二の”人生”を歩み始めることになる。
「ホテルにしたらいいのでは、という声もありますが、それが実現したら、ぜひ泊まってみたいですね」
(故人の敬称は略しました)