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二〇一四年、作家の仲村清司さんと沖縄で語り合ったこと 第二回

藤井誠二ノンフィクションライター

今年の沖縄知事選挙は10万票の差をつけて現職の仲井真知事に翁長元那覇市長が圧勝し、続いておこなわれた衆院選は、名護市辺野古への新基地建設に反対を主張した候補が全小選挙区で自民公認候補を破った。選挙結果が普天間問題に影響を与えるのは必至だが、小選挙区で破れた候補は比例区で全員が復活当選した。

「九州ブロックで上位8人中、沖縄県選出議員が4名。当選した8名のうち4人が沖縄の議員という結果になった。これでは小選挙区で激しく争い民意を示したのに、いったい何のための闘いだったのかと落胆をしている人も多いでしょう。今回の選挙の最大の特徴は保革の枠で語れなくなったことに尽きる。それをもって保守分裂といわれているが、保守と称しても、本土の自民党と沖縄の自民党は発祥が異なり、本来別の組織です。合流したのは本土復帰を目前に控えた1970年で、沖縄の保守は中央とは異なる政策課題を常に抱えながら今日にいたっているのです。事実、復帰後に行われた知事選で保守系は7勝していますがが、特徴的なことは、どの県政も基地の整理縮小を求め、稲嶺県政だけをのぞいて新たな基地の建設を認めなかったんです。稲嶺県政も普天間基地の『代替施設の使用期限は15年』という公約を掲げ、事実上は新基地建設を断念させています。このまま工事を強行すれば、沖縄では消費増税よりも新基地建設問題がより争点化するのは確実で、”日本”との関係を問う動きや運動もますます活発になっていく。日本の尻尾=沖縄は胴体を揺さぶるほどの存在になりつつある。”本土”はそのことに気づくべきです」

今年、ぼくは稲嶺元知事に琉球石油本社でインタビューする機会があった。彼は経済界の要請で知事に立ったわけだが、15年間限定使用はぎりぎりの県民を納得させる選択だったと静かに語っておられた。15年後は民間飛行場として北部振興の拠点の一つに考えていたとも。

仲村さんが言うように、知事選挙期間中の翁長氏の言葉は、「日米同盟の重要性を考えると(普天間の)固定化などあり得ない」と日米関係を否定するものではなかった。さらに、辺野古をアメリカが断念することを期待する発言もあり、直にアメリカと交渉する用意があることも県民には伝わったはずだ。

言葉を慎重に選ぶところは沖縄の保守政治家の矜持だろうが、予想されたことだが、はやくも政府は仲井真時代に約束した3000億以上の交付金の削減をにおわせている。またぞろカネで沖縄を転ばせるつもりなのだろう。しかし、仲村さんも指摘するように、沖縄の圧倒的な「存在感」は日本をどのような国のかたちにしていくかの上で無視することはできない。2015年、沖縄と「日本」の関係はどのように変わっていくのだろうか。日本が民主主義国家なのかどうかは、政府が沖縄とどう向き合い、2014年に幾度も示された米軍基地を沖縄に押しつけるのをやめてほしいという民意を尊重するかどうかでわかるはずだ。仲村さんと那覇の路地を歩き回りながら、これからも我々ならでは視点で沖縄とヤマトの関係の将来を語り合っていきたい。

しかし、今年、仲村さんとよく交わした議論の中には少々、眉をひそめたくなる話題もあった。それは沖縄のごく一部ではあるが、知識人や活動家の中から「沖縄人・非沖縄人」という「言い方」が出てくるようになり、それぞれの「立場性」をはっきり分けて反基地運動をするべきだ、あるいは「沖縄人」ではない「非沖縄人」はマジョリティ=沖縄に対しての抑圧者であることを強く自覚するべきだという主張に展開していく。

この主張に同意できる部分はそうとうにある。ぼくは「非沖縄人」だから、「ヤマト」の側にいることになるわけで、沖縄に押しつけてきた「戦後」そのものは、ヤマトからの抑圧であり、アメリカと沖縄の負担を減らすために渡り合ってこなかった政府の無責任の結果であることはまちがいないと、取材をしながら実感することができる。沖縄への長きにわたるヤマトからの米軍基地押しつけに対して、日本から独立するべしという一部の知識人たちから声が上がるなかで出てくるのはとうぜんで、真摯に耳を傾ける意見ではあると思う。ある種の民族=沖縄人の自決権の主張だ。沖縄独立論自体は以前からあったが、ここ数年の独立論は「居酒屋談義的独立論」とも揶揄されつつ、先鋭化もしている。

しかし、彼らは自分たちのことを「沖縄人」と呼び、そうでない人を「非沖縄人」と分ける。評論家の佐藤優氏も自分のことを「沖縄人」と自称してるけれど、それは氏の母親が久米島出身者だからで、独立論を唱える人々の中には三代前まで沖縄の「血」が入っていなければならないという、びっくりするような意見が出てきたこともある。そもそも「沖縄人・非沖縄人」とはどういう定義で、意味を持つのかが理解できないのだが、「血」で人間を分けることは、そこに悪意がなくとも排他的に陥りやすい。

このテの議論はさまざまな次元で見られる。高江ヘリパッド建設に反対して座り込みをしていた内地からきた三〇代ぐらいと思われる男性に対して、沖縄の工事業者が「ヤマトンチュは関係ないから帰れ」ということを怒鳴るシーンが、三上智恵監督の『標的の村』には記録されている。

それから辺野古などで基地を誘致する側の議員や経済界などの人々に取材をすると、必ずといっていいほど「(辺野古の浜辺にある)テント村は公有地なのだから建っているのが違法だし、そこに来ているのは内地から来ている活動家だ」という話題がでる。地元の人は賛成しているか無関心が多いのに、内地からやってきた活動家がやっていると決め付ける類のものだ。

この話を基地反対運動を長年続けてきた活動家や議員にふってみると、たしかに九〇年代までは内地から労組などから人が動員されてきた人が目立ったが、今はほとんど来ていないというものだった。私も何度か辺野古のテント村におじゃまをしたことがあるが、中心人物は辺野古のウチナンチュで、あとの方々は名護市から来ていて、結婚等で内地から移住してきた方々だった。わざわざ内地から来ている応援部隊ではない。沖縄の住民であり、県民だ。ただし、ウチナンチュの「血」には関係のない人もいた。ぼくに言わせれば、「血」などどうでもよく、関わりをもちたい人が率先して関わればいい。そうした過程の中で、さきにも取り上げた「沖縄とヤマト」の抑圧関係について思いをめぐらせていけばいいと思う。

すこし話がズレたが、むしろ応援で来ているのはバスで乗り付けてくる内地の労組や反戦ツアー関係の人たちで、キャンプシュワブと浜を隔てる鉄柵に反戦メッセージや名前を書き込んだ旗やリボンをゆわえつけていくことが多い。それをたまに来て外していく内地からやって来る「活動家」や地元の活動家もいる。彼らからみたらそれは「清掃」行為なのだ。

沖縄にはこうした偏見や憶測も含めて、反基地の運動や、あるいはそれとは逆の人々の中にも「沖縄人」とそうでない人々を隔てようとする空気があると、ぼくも感じてきた。沖縄で平和運動や反体制的な活動をする「非沖縄人」は、いつのまにかマイノリティの「沖縄人」側から発信しようとしていることに無自覚になってしまうという厳しい指摘まであるほどだ。

自らの出自が「沖縄」以外である者が沖縄にかかわろうとするとき、抑圧性と被抑圧性の関係の中で自分がどこに立っているのを考えることは無意味ではないと思う。しかし、内地から移住してきて沖縄で生まれた人や、仲村清司さんのような内地で生まれた「沖縄人」の二~三世、あるいは外国人や「非沖縄人」の「血」がはいった沖縄にルーツを持つ人たちはどこにカテゴライズされるのか。

また、沖縄とヤマトの非対称性を考え、「非沖縄人」にマジョリティの自覚をうながすのもけっこうだが、そういった「血」ベースの主張は抜け道のない隘路にはいってしまうか、「沖縄人」の中のたとえば辺野古に新基地をつくろうと懸命になっている人たちのことを覆い隠してしまうことになりかねない。「血」というアイデンティティを持ち出すことは「個人」が話しているのか、「沖縄人」を代表して話しているのか曖昧になってきて、亀裂や分裂を生む可能性が高いと私は思ってしまう。

仲村さんはぼくによくこんな話をする。

「自分で自分のアイデンティティを囲ったり、”沖縄”や”二世”を媒介にして立場性を画定させることはしません。沖縄というアイディンティを持ち出してしまうと、沖縄内部にある問題や矛盾を隠してしまうことになってしまうから。アイディイティティは曖昧で多様だからこそ、両刃の剣になる。ふりかざすものではないと思う」

(この原稿はニュースウェブサイト「THE・PAGE」(2014.12.29)に掲載した拙稿に大幅に加筆をしたものです。)

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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