元イラン兵、インドネシアの山里で暮らす 人生変えた日本出稼ぎ 【オーバーステイの旅路・1】
バイクを走らせ街を出ると森に入った。震えるほど涼しい空気が体を包む。ここはインドネシア・北スラウェシ州の山岳地帯。一帯の村々は多くの労働者を海外に送り出している。至る所で「日本帰り」の人に出会う。「日系人としての定住」「技能実習」などの在留資格を得て渡航した人々がいる一方で、そうした正規の資格を持たずに日本で働いてきた人たちも相当数に上る。
記事では、後者の「オーバーステイ」(超過滞在、法務省用語で「不法残留」)の人々にスポットを当てる。彼らはどういう「旅路」を歩んできたのか。村々を訪ね、その物語に耳を傾けた。
「友人がたくさん死んだ」
「夜、眠っていたときに私たちの陣地はイラク軍の攻撃を受けた。友人がいた場所にロケット弾が撃ち込まれた。戦闘は朝まで止むことなく続き、捕虜となる者もたくさんいた」
北スラウェシ州の言葉のなまりがあるインドネシア語で話し始めたのは、中東イラン出身のシャヤンさん(仮名、53)。兵士としてイラン・イラク戦争を戦った。1970年生まれ。80年から約8年間に及んだ戦争は自身の10代とほぼ重なる。「友人がたくさん死んだ。イラン人もイラク人も、埋葬しきれないほどだった」
その兵士がなぜインドネシアの山奥に暮らすことになったのか。
戦後失業、ビザ免除の日本へ
「戦争は終わった。しかし3年間の兵役を退いた後、イランには仕事がなかった。友人の間で日本行きの話が持ち上がった」。戦争で経済も破壊されたイランの若者は、アジアで群を抜く先進国だった日本に目を向けた。兵役時代も退役後も「空手の稽古をしていた」というシャヤンさんにとって気になる国だった。「父親は『行きたいと思うなら行きなさい』と言って、渡航の手配をしてくれた」
日本は当時イランとの間でビザ相互免除協定を結んでおり、92年までイラン人はビザがなくても日本に入国し、3カ月間滞在できた。期限が切れてオーバーステイになった後も、働き続ける人が続出した。シャヤンさんはその一人だった。
「私は友人たちと92年に日本に入国し、最初の3カ月は東京で大きな鉄管をクリーニングする仕事をした。私の周辺だけでもイラン人が600人ぐらい集まっていた。3カ月後に帰国した仲間もいたが、私たちは茨城県ひたちなか市へ移り、水産加工会社で働いた。イラン人は、市内の私がいた地区だけでも20人はいた」。ひたちなか市の南隣にある同県大洗町の水産加工場などでも「40人ぐらい働いていた」という。
「実習」制度以前、人手不足補う
既に日本の地方では人口減少や高齢化が顕在化し、地域によっては地場産業が求人難によって存続が危ぶまれる事態に陥っていた。
大洗町の水産加工会社の元社長はふり返る。「若い日本人は水産加工場に居着かない。そのうちにね、イラン人が最初に入ってきた。イラン・イラク戦争で兵隊に行って耳が聞こえなくなったのとか、傷があるのとか」
政府は人手不足を補うため、「日系人定住」「研修」「実習」「特定技能」などの名目で外国人労働者や移民を受け入れる制度を、次々にひねり出している。しかし当時はこれらの制度がまだ存在しないか、始まったばかりだった。制度があっても、日本と送り出し国との間の覚書など、いろいろな条件が整わなければ、正規に日本で働く道は開けない。制度が本格化する以前の空白に落ち込んだ外国人はオーバーステイとなった。
出会い
イラン人コミュニティーの一部には日本の裏社会と接点を持つようになった者もいた。シャヤンさんは「『薬物や変造テレホンカードを売らないか』と持ちかけられたが断った」と明かす。「ああいうイラン人は嫌いだ。恥ずかしい。連中は日本人のヤクザともめて問題も起こしていた」と顔をしかめた。
シャヤンさんはひたすら働き続けた。「疲れを知らなかった。病気もしなかった。日本語の教科書は持っていなかったが、夜はテレビを見て日本語の勉強をしていた」
そんな暮らしの中、ひたちなか市の水産加工場で働くインドネシア人女性と出会った。自分と同様にオーバーステイ。「2002年に結婚した」
入管の急襲
「息子が生まれ、日本の男の名前をつけた」とシャヤンさん。夫婦は大洗町へ移り、水産加工場のほか、茨城県鉾田市の畑などで働き続けた。
懸命に働いても在留資格がないことには変わりはなかった。「2006年に妻は2人目の子ども(娘)を身ごもり、入国管理局に出頭しインドネシアに戻った」
「その年、肥料関係の作業場で働いていたとき、突然車3台がやってきた。入管職員10人ぐらいが私と外国人の同僚3人を捕まえた」。「不法残留者」の摘発だった。東京の入管に3カ月収容されたという。「職員に『帰国するか、それとも長い期間収容されたままいたいか』と問われ、私はイランへの送還を選んだ」。14年間続いたシャヤンさんの日本での暮らしは、終わった。
旅路の果て、安住の地
「私は息子を連れて夫のいるイランへ渡りました。いい所でした」と妻。しかし約3カ月後にインドネシアに戻ったという。「お米があまりない」食生活などになじめなかったのかも知れない。二人は妻の古里の村で一緒に暮らし始めた。
一家は現在、家畜約40頭を飼育している。ステファンさんは「私はプロパンガスボンベを配達する仕事もしている。妻は道路補修などの公共事業で村長を補佐する役職に就いている」と話した。
「娘は高校生。息子は高校を出て警察学校への入学を目指している。地元のサッカーチームに入っていてインドネシア代表になる夢も持っている」。シャヤンさんは長身の息子の方を見やり、目を細めた。2匹の犬がじゃれる。名前は「ハチ公」と「チビ」だ。
「この村が気に入っている。涼しい所だし、何と言ったって、住んでいる人たちがいいんだ。私のようなよそ者にも親切で、助け合って暮らしている。何事もなく、今の暮らしがずっと続けばいいと思う」
命を奪い合う戦争、そして先の見えないオーバーステイ…。長い旅路の果てに、シャヤンさんは安住の地にたどり着いたようだ。
コーヒーをいただきながら話を聞いているうちに夕方になった。「そろそろ家畜に餌をやりに行かなければ」とシャヤンさんが腰を上げた。私に日本語で挨拶をした。「どうもありがとうございました」
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