首相秘書官差別発言の”オフレコ破り”報道は「個人の内心をだまし討ちで暴露した」のか
首相秘書官が同性婚を巡る性的少数者への差別発言で、更迭された問題。発端は、オフレコ前提の取材でなされた発言を、毎日新聞がWebメディアで報じたことだった。ネット上では、それへの賛否が飛び交っている。筆者(江川)のツイッターにも、毎日新聞はけしからん、それを擁護するオマエもけしからん、という怒りのツイートが怒濤のように押し寄せた。同紙を支持する声もあるが、私に届く発信の数や発言の熱量は、非難の声が圧倒していた。
その多くは、荒井発言は「個人的な見解」であるのに、毎日新聞は「個人の内心」を「だまし討ちで暴露した」というものだ。このような評価については、①発言があった時の「状況」と②その発言の「内容」「問題性」という観点から検討を加える必要がある。
取材対応は官邸の広報活動の一環
問題の発言があったのは、2月3日夜。同月5日付毎日新聞によれば、荒井勝喜・首相秘書官(当時)によるオフレコ前提の取材は、平日はほぼ定例化しており、3日は報道各社の記者約10人が参加していた。場所は、首相官邸。岸田首相が同月1日の衆院予算委員会で同性婚法制化について「社会が変わっていく問題だ」などと答弁したことについて、記者から質問があり、荒井氏が首相答弁の意図などを解説する中で、問題の発言はなされた。
つまり、荒井氏の取材対応は、首相官邸の広報活動の一環だったのである。記者が荒井氏と個人的に飲食を共にしながら、「誰にも言わないのであなた個人の気持ちを聞かせてほしい」と水を向けて聞き出した「個人的な」話とは、訳が違う。
報じるに値する公共性・公益性
次にその内容と問題性だ。
共同通信の報道によれば、記者たちと荒井氏の間で交わされたやりとりは、次のようものだった。
「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」という発言は、明らかに性的少数カップルに対する差別であり、憎悪を放つヘイト発言とも言える。荒井氏は、首相の国会での演説や答弁などの作成に携わるスピーチライターも務めている、とのことだ。そうした人が、これだけ人権意識に欠落した発言をした事実は、報じるに値する公共性・公益性があると言えよう。
荒井氏1人の問題か
問題が表面化し、荒井氏は発言を「プライベートな意見」「個人的な意見」と述べ、松野博一官房長官は「(発言は)政府の方針とはまったく相いれない。言語道断であり、遺憾だ」と批判。岸田首相も「発言は全く政府の方針と反しており」として謝罪した。
しかし前述のように、発言はプライベートな場で吐露されたものではなく、「プライベート」という言葉はまったく馴染まない。また、やりとりは岸田首相の「社会が変わっていく」発言を、荒井氏が繰り返し、さらに補強する形で行われている。この首相発言は、法務省が作成した答弁案にはなく、岸田首相本人が加えたものだということが、その後分かった。
荒井発言は、政府と「相いれない」どころか、むしろ政府方針に沿ったものであり、その方針を強調する中で勇み足的に出てきたと受け止めた方が自然だ。
そうなると、荒井氏1人を更迭すればよい話ではなく、今問われるべきは、岸田首相本人の人権感覚だろう。こうした事後に明らかになった事実を考えてみても、毎日新聞の判断は公益にかなうものだった、と思う。
首相にもたらされる情報は…
荒井氏は、「秘書官室は全員反対」「(同性婚が導入されたら)国を捨てる人、この国にはいたくないと言って反対する人は結構いる」などとも述べていた。こうした発言からは、首相周辺が、同性婚法制化に否定的な人たち、あるいは世の中は同性婚反対の人たちが多いと認識している人たちで、固められているのではないか、との疑問も浮かぶ。
朝日新聞が2021年に行った世論調査では、同性婚を法律で「認めるべきだ」が65%、「認めるべきではない」が22%だった。「認めるべき」は20代が86%、30代が80%と若い世代ほど多かったが、50代でも71%に上った。その数字を70代以上(37%)が押し下げた格好だ。同じ年にNHKが行った世論調査でも、同性婚法制化に「賛成」が57%と、「反対」の37%を上回っている。
こうした世論について問われた荒井氏は、若い世代は「何も影響が分かっていない」と分析。発言が報じられた後のオンレコ取材では、「反対の方が多いのではないか」とも述べている。このような認識で集めた、否定的な情報ばかりが首相にもたらされ、首相の理解を歪めていることはないのだろうか。
多様性を認める国際的な潮流から遅れ
日本は今年5月に行われる先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の議長国だが、G7で同性婚を全く認めていないのは日本だけ。性的少数者の差別禁止や差別解消の法制度もなく、選択的夫婦別姓も認められないのも日本のみ、という。超党派の国会議員がまとめた、罰則なしの理念法「LGBT理解増進法案」も、自民党が了承せず、国会提出が見送られたのも記憶に新しい。日本は多様性を認め合う国際的潮流から著しく遅れていると言わざるをえない。
今回の件を機に、首相に対しても多様な情報がもたらされ、議論を進めるよう望みたい。同性婚は「有害」と考える人たちもこの機会に、その具体的な弊害について世論に訴えればよいのではないか。
そのうえで、よい方向に「社会が変わっていく」ことを期待する。
もし報じていなければ…
仮に、毎日新聞が先陣を切ることなく、各社ともこの発言を報じずにいたらどうなったろうか。
これだけの差別発言である。現場にいた記者から上司や同僚、さらに本社にも報告され、共有する人が増えていく中で、情報は漏れるに違いない。いずれ、それを週刊文春などがキャッチして報じることとなろう。その時、このような発言を聞きながら、まったく報じなかった新聞に対して、人々は落胆し、信頼を失うのではないか。
そのようなプロセスをたどらず、新聞による報道で事実が明らかになったことは、報道への信頼を保つうえでもよかったと思う。
負の影響とは
もちろん、オフレコ破りは重い決断である。今回の判断が軽々しく行われたとは思えない。様々なリスクを勘案したうえでのものだろう。
それでも、今後の取材への影響を懸念する声はある。確かに、秘書官らは情報発信に慎重になり、しばらくは本音レベルの話をしなくなることが容易に予想される。政策決定のプロセスや政府の判断の背景、首相官邸の内部の空気感など、外からは分かりにくい情報を、オフレコ取材によって得てきた政治記者たちにとって、マイナスの影響は避けられまい。
オフレコ多用の問題も考えたい
ただ、オフレコ取材で得た情報が、これまで公共空間の情報流通にどれほど貢献していたのかは、はなはだ分かりにくい。私は、オフレコ取材を全否定する極論には与しないが、情報収集が記者たちの独りよがりになってはならないし、オフレコを多用することがもたらす負の側面も常に考えておいた方がよいとは思う。
書かないことを前提のやりとりが日常化すれば、馴れ合いが生じるのは避けられないのではないか。荒井氏も、テレビカメラが回っている場面で、こうした発言はしないはずだ。いくら喋っても「書かない記者」は、彼にとって御用聞きのような存在か、あるいは半ば身内化して「何を言っても平気な連中」という感覚だったのではないか。荒井氏としては良識にとらわれない過激な表現が受けると考え、記者にサービスしたつもりだったのかもしれない。政治家の失言も、しばしば聴衆への”リップサービス”のつもりで起きるではないか。
それを考えると、荒井氏の問題発言があった時、記者たちがどのような反応を示したのか気になるところだ。
メディアの選別に注意
もう一つ気に留めておきたいのは、これを機に、政府が情報発信のルートをこれまで以上に選別するようになりはしないか、という点だ。今までも、政府の新たな方針などは、特定のメディアが発表前にいち早く報じる傾向はあった。このように、政府にとって”身内”意識を持てるメディアが優遇されるだけでなく、そうでないメディアには十分な情報提供がなされないなどの不利益がもたらされることはないか。今回の報道に対する報復的な対応がなされることはないか。
万が一にも、そうした事態が起きないよう、なお一層注意して日々の報道を見ていきたいと思う。