Yahoo!ニュース

中田英寿、セリエA鮮烈デビュー――1998年9月13日

川端康生フリーライター
(写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ)

<極私的スポーツダイアリー>

1998年9月13日、中田英寿、セリエAデビュー

 レナトクーリは雨だった。

 1998-1999セリエA開幕戦。セリエAに昇格したばかりのペルージャは、ユベントスをホームスタジアムに迎えて、シーズン初戦に臨んだ。

 オープニングゴールは23分。FKからダービッツが蹴り込んだ。さらに32分、44分とユベントスが加点。

 デルピエロ、ジダン、デシャン、インザーギ……と各国のスター選手が居並び、3連覇を狙う王者がアウトサイダー相手に3対0の大量リード。

 ここまでは大方の予想通りの展開だったと言っていい。

 ところが、ハーフタイムの時点で勝敗は決したかに見えたこのゲームが、後半思いがけず白熱することになるのだ。2ヶ月前、極東のサッカー小国からやってきた日本人選手の右足によって。

 52分、右サイドをドリブルで駆け上がったペトラッキが前方のスペースへ送ったボールだった。追いついた背番号「7」の前と横にはDFがついていた。

 しかし強振。右足から放たれたシュートはGKペルッツィのニアサイドをこじ開け、マウスに転がり込んだ。1対3。

 さらに7分後、今度はクロスのこぼれ球だった。GKがディフレクトしたボールを、身体を倒しながらボレー。

 叩き付けられたボールがゴールネットを揺らした瞬間……レナトクーリが赤く燃え上がった。

 イタリアのサッカーはリアリスティックなゲームだ。ウンブリア州の中小都市の、それもAリーグに上がったばかりのチームが、トリノのビッグクラブを、それもスクデットを戴くスター軍団を倒せることなど、めったにない。

 でも2対3。1点差に迫ったのだ。

 スタンドで狂喜乱舞するサポーターたち、発煙筒の赤い火花と立ち昇る白煙。降りしきる小雨の下、興奮の坩堝と化していくレナト・クーリ――1998年9月13日、「世界最高峰」のイタリア・セリエAの開幕戦、ペルージャのホームスタジアムの光景である。

 試合は結局、ユベントスが4対3で勝った。格の違いは、やっぱりそう簡単にはひっくり返らない。

 だが、このゲームの最後の得点、終了間際にペルージャがPKを得たとき、スタンドで自然発生的に湧き上がり、やがてスタジアム中に響き渡っていったのは<NAKATA、NAKATA、NAKATA……>のコールだった。

 こうして背番号「7」をつけた中田英寿は、いまから22年前の今日、カルチョの国のジョカトーレとなり、そればかりか世界が認めるNAKATAになった。

あの頃

 セリエAを「世界最高峰」と表することにピンと来ない世代もいるかもしれない。しかし1990年代のサッカーシーンにおいて頂点は紛れもなくセリエAだった。

 たとえばチャンピオンズリーグ決勝はほぼ毎年<セリエA(ミランやユベントス)対スペインかドイツかオランダのチーム>だったし、多くのスーパースター(マラドーナやプラティニ、フリット、ファン・バステンなど)もイタリアでプレーしていた。

 つまり最強にして最大(経済的にも豊かだった)。まさしく最高峰だったのだ。

 そんな最高峰リーグの開幕戦、しかも相手はユベントスだったから、当然、この一戦は注目度が高かった。

 そんなゲームでデビューし、そればかりか2ゴールを決めたNAKATAのインパクトも言うまでもなく大きかった。

 日本サッカーもまた、世界デビューを果たした直後だった。

 この3ヶ月前、初めてワールドカップに出場(についてはこちらで書いた)

 しかし3戦全敗。残念ながらインパクトどころか爪痕も残すことができなかった。

 その意味では、当時メディアを賑わし、国民的関心事となっていた「中田の移籍」は日本国内に限った話題だったと言わざるを得ない。

 確かに中田は日本代表では中心選手だったし、日本サッカー界ではスーパースターだったが、その日本代表も日本サッカーも世界的にはまだ評価されていなかったからだ。

 NAKATAが認知される機会そのものがほとんどなかった。

 実際、イタリアでは「EU圏外選手枠(3人)」を”日本人なんか”に使うことに批判的な論調もあったし、中田の実力についても懐疑的な声が少なくなかった。

 そういえば地元メディアのサッカー記者は「中田が来るから日本サッカーについて勉強したんだ。フランス・ワールドカップの試合も見たよ」と胸を張っていたが、「日本は何回ワールドカップに出たことがあるか知ってる?」と問うてみると、返ってきた答えは「たぶん、2回か3回だと思う」だった。

 ついでに思い出話をすれば「こっちでも通用する日本人GKはいないのか?」と尋ねられたので、「通用するかどうかはわからないが、日本のトップキーパーはカワグチとナラザキだよ」と教えたら、翌日の朝刊に「ペルージャ、カワグチ獲得か!」と出ていて、ひっくり返りそうになった。

 とにかく、日本についての認識はそんな程度だったのだ。

 だからこそ、デビュー戦での「2ゴール」は大きな意味があった。

 イタリアサッカー界に(同時に世界サッカー界に)NAKATAの存在を知らしめるだけでなく、“助っ人”としてファンやメディアの支持を得ることができたからだ。

 もちろん、本人が「急に(態度が)変わった」と苦笑していたことがあったが、チームメイトからの信頼を勝ちとることにもなった。

 このデビュー戦は、ヨーロッパで「仕事」(当時、中田はサッカーをそう表現することが多かった)を続ける上での足がかりを築いた試合でもあったのだ。

 付け加えれば、このデビューシーズン、中田は10得点を挙げている。これは自身にとってキャリアハイである(二桁得点したのはこのシーズンだけ)。

 もともと自らのゴールに固執するタイプではなく、Jリーグ(ベルマーレ平塚)時代も得点は少なかった。

 にもかかわらず、移籍したこの年は10度もゴールネットを揺らしてみせたのは「必要だったから」に他ならない。

 結果が求められるリアルな競争社会である。結果とは数字であり、アタッカーにとっての数字とはゴールである。

 Jリーグにやって来る外国人ストライカーが見せる得点へのこだわりを(もしかしたら自らの流儀とは違っていたかもしれないが)、このシーズンの中田は発揮したということだ。

 そして、このペルージャを皮切りに、イタリアで7年、イングランドで1年、トータル8シーズン、世界のトップシーンに立ち続けた。

時代との巡り合わせ

 中田についてはこれまで多くの原稿を書いてきた。

 サッカーにおいて彼はいつもフロントランナーだった。U-17世界選手権(現ワールドカップ・以下同じ)、U-20世界選手権、アトランタ五輪、そしてフランス・ワールドカップに出場。

「U-20」は日本サッカー史上初めてアジア予選を突破して出場したFIFA主催の世界大会で、「アトランタ」は28年ぶりの五輪本大会出場。そして「フランス」は史上初の出場と、その経歴はまさに“歴史的快挙”の連続だった。

 しかも「U-20」に出たときには18歳で、「アトランタ(U-23)」は19歳で、「フランス」は21歳だった。

 つまり“最年少にして先頭”。それが中田英寿の凄さ……というような原稿だ。

 なので、ここではサッカーから離れた切り口で、ごく短く記してみたい。

 ペルージャへの移籍が発表されたのは7月22日だった。その日の早朝、2ヶ月前に開設した<nakata.net>内で「今日は重大な発表があります」と自らの言葉で彼は発信したのだ。

 同日昼前から記者会見も行ったが、第一報は自らの個人サイトで行ったのである。

 こんなことは初めてだった。日本のみならず世界でも、スポーツのみならずエンターテイメント界でも、前例がなかったのではないか。

 念のため、「セリエAが世界最高峰だった時代」を知らない読者に説明すれば、スマホやSNSはもちろん、ブログもまだなく、それどころか携帯電話(もちろんガラケー)の普及率が30%台だった頃である。

 企業のホームページには会社概要が載っている程度で、個人のホームページは野鳥や鉄道など趣味のページがほとんどだった頃である。

 このジャンルでも中田はフロントランナーだったのだ。

 言うまでもなく背景には、1990年代後半に起きたインターネット革命がある。

 テクノロジーの進化と、それに伴う社会や価値観の変化が始まった時代。中田がNAKATAへと進んでいくのはちょうどそんなタイミングでもあったのだ。

 その意味で、あの頃新しく始まり、現在につながる時代のアイコンになったのは決して偶然ではない(中田英寿に加えて、宇多田ヒカルの名前も挙げたいところだが、ここはスポーツのページなので詳述しない。でもこの二人の、時代との巡り合わせと斬り結び方は似ていると思う)。

 最後にサッカーに話を戻せば、中田はそこでもやはり時代と巡り合っている。

 そう、Jリーグである。彼が高校2年生のときにJリーグは誕生した。“日本初”のプロサッカーリーグだった。

 もしも彼があと5年早く生まれていたら、彼はプロサッカー選手を職業として選ぶことはなかっただろう。

 そして、もしもあと5年遅く生まれていたら、少なくともフロントランナーではあり得なかったはずだ。

 つまり、もしも<時代との巡り合わせ>が違っていたら……。

 そう考えれば、この幸運な出会いに僕たちは感謝するべきかもしれない。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

誰がパスをつなぐのか

税込330円/月初月無料投稿頻度:隔週1回程度(不定期)

日本サッカーの「過去」を振り返り、「現在」を検証し、そして「未来」を模索します。フォーカスを当てるのは「ピッチの中」から「スタジアムの外」、さらには「経営」や「地域」「文化」まで。「日本サッカー」について共に考え、語り尽くしましょう。

※すでに購入済みの方はログインしてください。

※ご購入や初月無料の適用には条件がございます。購入についての注意事項を必ずお読みいただき、同意の上ご購入ください。欧州経済領域(EEA)およびイギリスから購入や閲覧ができませんのでご注意ください。

川端康生の最近の記事