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日本代表が初めてW杯を戦った――1998年6月14日

川端康生フリーライター
(写真:アフロ)

<極私的スポーツダイアリー>

1998年6月14日、日本代表、初めてのワールドカップ出場

 日本サッカーにとって初めての大舞台だった。

 初挑戦の1954年から約半世紀、「ジョホールバルの歓喜」でついに出場権をつかんだ日本代表が、22年前の今日、初めてワールドカップのピッチに立った。

 14時半にキックオフされた試合は、立ち上がりこそ日本が攻勢に出た。キックオフ直後に山口素弘がファーストシュートを放ち、その後も何度か攻め込んだ。

 しかし相手は優勝候補の一角、アルゼンチン。徐々にゲームを支配され始める。

「日本のやり方を壊さない程度にアルゼンチンの長所を消す」

 岡田武史監督のそんな考え方の下、日本代表は井原正巳を最後尾に、秋田豊と中西永輔の2人のストッパーを置く3バックを採用。ゴール前の守りを固めると同時に、両サイドの相馬直樹、名良橋晃、ボランチの山口、名波浩も連携して、マンツーマンとゾーンを併用しながら「1対1の弱さをカバー」して、相手の攻撃を跳ね返そうとしていた。

「アルゼンチンは明らかに日本より格上。狙いは引き分けか、勝ち」

 指揮官はそう口にしていたが、強豪との初戦で引き分けなら成功。それが本音だったと思う。大方のサッカー通も同じ考えだったはずだ。

 当然、城彰二と2トップを組む中山雅史はいつものように献身的にディフェンスに励み、中田英寿も相手のパスの出所を抑えにかかっていた。

バティストゥータに

 失点は28分だった。

 中途半端になったクリアをオルテガに拾われ、3人がチェックに行くが、横につながれた。パスを出したオルテガはそのまま前進。そこにシメオネから縦パス……に見えた。

 しかし、オルテガはスルー。背後にいた名波の右足に当たったボールがゴール前に弾む。そこにバティストゥータがいた。井原はオルテガに食いついていたから、防げるのはもうGK川口能活しかいなかった。

 守護神が身を挺してブロックに飛び出す。しかし点取り屋は強振しなかった。右足で軽く浮かせたボールはゴール左隅に転がっていった。

 0対1。日本のワールドカップ史上、最初の失点。そして、これが最初の黒星となった。

 1998年6月14日、敗戦からスタートした最初のワールドカップは、その後のクロアチア戦(0対1)、ジャマイカ戦(1対2)も連敗。3戦全敗で幕を閉じることになる。

 それでも、ここから日本代表の新しい時代――世界舞台での戦いが始まったのだ。

あの頃

 初陣の舞台はフランス南西部の中核都市、トゥールーズだった。パリから600キロ離れた航空産業の町は、あの日、青いサポーターで溢れ返っていた。

 スタジアムが、ではない。観戦ツアーに申し込んだのに入場券が届かない「チケット問題」が発生。現地までやってきたものの、スタジアムに入ることができない大勢の日本人がチケットを求めてさまよっていたのだ。

 初めての世界舞台は、選手だけでなく、サポーターにとっても“未経験”の混乱の中で始まったのだった。

 それでも3万3400人収容のスタンドの半分以上は日本人で埋まっていた気がする。

 ただし、両チームのサポーターは入り乱れて座っていた。日本側のゴール裏中央にもアルゼンチンの水色のユニホームの塊があって、「これもチケット問題の影響なのかな」と思った記憶がある。

 そんなスタジアムには安室奈美恵の「CAN YOU CELEBRATE?」が流れていた。ルーズソックスを履いたコギャルたちが、渋谷のみならず、全国津々浦々を闊歩していた頃だ。

 もっとも安室自身はこのとき“産休中”。前年大晦日の紅白歌合戦でトリを務めた後、1年間の休業に入っていた(1998年大晦日の紅白歌合戦で復帰する)。

 ちなみにJリーグ創設(1993年)と同じタイミングで始まった“小室哲哉ブーム”はこの頃には、すでに陰りを見せ始めていた。ヒットチャートを席巻していたのはGLAY、L'Arc〜en〜Ciel、LUNA SEAなどのビジュアル系バンド。

 そして椎名林檎やMISIA、浜崎あゆみ、宇多田ヒカルといった「その後の音楽シーン」(そこに「モーニング娘。」も加えれば、「その後の芸能シーン」ということになる)を牽引する女性アーティストがデビューしたのが、この1998年である。

続く不況、Jリーグも…

 バブル崩壊後の経済は相変わらず出口の見えないトンネルの中にいた。

 前年の山一証券や北海道拓殖銀行に続き、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行など、大手企業や銀行が相次いで倒産。年間自殺者は3万人を超えた。

 そして、そんな不況の波は、当然、サッカー界にも押し寄せた。いや、日本代表はバブル的に盛り上がっていた。

 フランス大会でのテレビ視聴率は、アルゼンチン戦60.5%、クロアチア戦60.9%、すでにグループリーグ敗退が決まっていたジャマイカ戦でさえ52.9%の高視聴率。

 しかし、その一方で、Jリーグの観客数はピーク時(1994年)の半数近くまで激減。そこに親会社やスポンサー企業の不振も相まって、存続の危機に瀕するクラブが相次いでいたのである。

 そしてフランス・ワールドカップの4ヶ月後には横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が発表される。

 実はこの年は、松坂大輔擁する横浜高校が甲子園で春夏連覇を成し遂げ、プロ野球でも横浜ベイスターズが38年ぶりにセ・リーグ優勝を飾るなど、スポーツにおいては“横浜イヤー”だった。

 その同じ年に、それも日本代表のワールドカップ初出場に沸いた直後に、Jリーグでは横浜から一つのチームが消滅したのである。

 1998年は、サッカー界にとって、そんな光と陰が交錯したシーズンでもあった。

海外組ゼロ

「海外でプレーしている選手がいないのは日本とサウジだけ」

 敗退が決まった後の会見で、岡田監督がそう口にした通り、フランス大会の日本代表は全員がJリーガーだった(横浜マリノス4人、鹿島アントラーズ3人、ベルマーレ平塚3人、ジュビロ磐田3人、清水エスパルス2人、横浜フリューゲルス2人、浦和レッズ2人、ジェフ市原1人、セレッソ大阪1人、名古屋グランパスエイト1人)。

 つまり海外組「0人」。このときの日本サッカーはまだそんな時代だった。

 海外組がいなかっただけではない。

 主将の井原をはじめ、中心選手の大部分が「フランス・ワールドカップが初めての世界大会」だった。

 なぜなら、日本サッカーがアジア予選を突破したのは、この2年前、1996年にアトランタ五輪に出場したのが28年ぶり。

 つまり「アトランタ五輪代表」より上の世代にとっては、フランス・ワールドカップが初めてのアジア予選突破で、当然初めての世界大会だったのである。

 ちなみにアトランタの一つ前(4年前)、アジア予選で敗退し、本大会に出場できなかったバルセロナ五輪代表は、フランス・ワールドカップのメンバーで言えば、名波(順天堂大)、相馬(早稲田大)、名良橋(フジタ)、小村(順天堂大)たちである(カッコ内は五輪代表当時の所属)。

 より年長の井原や中山も含めて、そんな“世界未経験”の選手たちを中心に構成されていたチーム、それがこのときの日本代表だった。

 さらに言えば、アトランタ五輪に出場して世界大会を経験していた川口や城、中田らの間にも経験値に差はあった。

 川口や城がアトランタ五輪に次ぐ2度目の世界大会だったのに対して、中田は1995年にワールドユース(U20ワールドカップ)も経験していた。それどころか1993年に東京で開催されたU-17世界選手権(ワールドカップ)にも出場しているから、彼にとってフランス・ワールドカップは4度目の世界大会だったのだ。

 要するに、年齢が低いほど世界経験が豊富。それがフランス・ワールドカップの日本代表だったのである(最年少だった小野伸二もU17世界選手権に出場済みだった)。

 こんな現象が起きたのは、言うまでもなく、Jリーグ誕生によって日本サッカーが急激にレベルアップしたから、である。

 その意味で、フランス・ワールドカップは日本サッカーの<それまで>と<それから>の狭間を象徴する大会であり、その日本代表は過渡期のチームだったと言えるかもしれない。

あれから22年

 あれから22年が経った。

 フランス・ワールドカップで最年少メンバーだった小野は、翌1999年ワールドユースに出場し、決勝にまで進出。準優勝を飾った。

 さらに2000年にはシドニー五輪でもベスト8。そして、そんな小野の世代が、中田の世代とともに2002年日韓ワールドカップの中心となり、「決勝トーナメント進出」を果たすのである。「3戦全敗」からわずか4年後のことだった。

 この間に起きた変化は、選手の顔ぶれで簡単に説明できる。

 松田直樹、宮本恒靖、戸田和幸らは中田とともに、稲本潤一、高原直泰、遠藤保仁らは小野とともに、世界大会に出場し続けた選手たちだった。

 つまり<アジア予選を突破できず、世界大会へ進んだことがない世代>から<アジアで負けたことがなく、ティーンエイジの頃から世界と戦ってきた選手たち>へ。

 彼らにとって、ワールドカップは臆する舞台ではなく、世界の強豪も怖れる相手ではなかった。フル代表となり、ワールドカップで対戦する相手は、かつてアンダー代表時代にも対戦したことがある相手だからだ。

 そうして初出場のフランス大会以降、すべての大会に出場し続けた日本代表からは、海外へと羽ばたく選手も次々と現れた。

 フランス・ワールドカップでは「0人」だった海外組は、4年後の日韓大会では「4人」、8年後のドイツ大会では「6人」……直近のロシア大会では実に「15人」を数えるまでになった。

 そして、そんな選手たちで構成された代表チームは、2002年日韓大会の後、2010年南アフリカ大会、2018年ロシア大会でもグループリーグを突破。「ベスト8」という新たな目標を掲げて前進しようとしている。

 そんなすべての出発点、それが22年前のあの黒星だった。

 あのときアジアから世界へと戦いの舞台を変えた日本サッカーの、さらにその次の挑戦――それがいまである。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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