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ドキュメント「日韓共催決定」<第2回>

川端康生フリーライター
(写真:ロイター/アフロ)

第1回>からつづく

晴れ晴れとした気分

「我々が来てからこちらは天気がよくなって、日出ずる国が素晴らしい太陽を持ってきてくれたと感謝されている。私も今朝はチューリヒ湖を散歩して、晴れ晴れとした気分になった」

 1996年5月30日、正午。日本招致委員会の会見で岡野は笑顔でそう語った。

 この日の会見には韓国の報道陣が大挙して押し寄せていた。前日、鄭夢準が「共同開催」について言及したことで、彼らの質問もその一点に集中した。

 しかし、日本の立場が揺らぐことはなかった。FIFAの規約に「一国開催」と明記されている以上、その可能性を語ること自体が無意味なはずである。

 繰り返し浴びせられる質問にも、岡野は表情一つ変えずに「仮定の話には答えられない」と具体的な回答を避け続けた。

 そして会見後には、この日も情報(というにはあまりに頼りない噂や憶測)がプレスルームを飛び交った。

「昨晩、ヨハンソンUEFA会長とブラッターFIFA事務総長が会ったらしい」

「アベランジェの工作でヨーロッパの8票が割れた」

「モーリシャスのルヒー理事が共同開催をはっきりと否定した」

 さらには「鄭夢準の顔が冴えない」などなど。

 真偽どころか、その意味するところも曖昧な情報ばかりだったが、日本の報道陣の間では「明後日の投票で日本単独開催に決まることが濃厚」という分析が大勢だった。

 しかし、このとき、すでに事態は大きく動き始めていたのだ。

ドーハの悲劇と韓国の立候補

 ここで一旦、時計の針を3年前に戻したい。1993年である。

 この年の秋、韓国が立候補を表明し、日韓による招致合戦の火蓋が切られるのである。

 もう少し具体的に言えば、それは10月28日の深夜だった、と言えばサッカーファンならお気づきだろう。

 そう、あの「ドーハの悲劇」の夜である。

 時計の針が90分を回ったロスタイム、コーナーキックからイラクが放ったヘディングシュートがふわりとゴールラインを越え、手中に収めかけていたワールドカップ出場の夢が日本の掌からするりとこぼれ落ち、選手たちがピッチに倒れ込み、日本中が悲嘆にくれた――その数時間後、韓国は立候補を表明したのだ。

「日本が一度も出場していないワールドカップに、我々は3大会連続4度目の出場を今日果たした。我々こそがアジアで最初のワールドカップを開催するにふさわしい……」

 このときのことを「もし」と小倉純二が振り返ったことがある。

「もし、あの最後のコーナーキックで失点せず、日本がアメリカ・ワールドカップに出場していたら韓国が立候補することはなかったと思うよ。だから、もしあの試合で日本が勝ってワールドカップに出ていたら、たぶん日本の単独開催だった」

 初出場のチャンスを逃したロスタイムの失点は、「ワールドカップ出場」だけでなく、「ワールドカップ招致」にも影を落とすことになったのだ。

鄭夢準

 立候補を宣言したのは、この年韓国サッカー協会会長に就任した鄭夢準だった。現代財閥の創始者、鄭周永の六男である。

 韓国のサッカー協会は伝統的に財閥が交代でスポンサーとなって運営してきた歴史があり、その流れを汲んでの就任だった(現代財閥の前は大宇財閥だった)。

 もちろんスポンサーとなった財閥は社員をサッカー協会の職員として出向させ、金も出す。当時も年間3億円ほどを現代財閥は拠出していた。

 そんな鄭夢準は、ソウル大学を卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学のビジネススクールを卒業。さらにジョーンズ・ホプキンス大学で博士号も取得したエリートでもあった。

 しかも現代重工業の社長も経験し、このときすでに韓国ビジネス界の若きリーダーと目されていた。そればかりか1988年年からは国会議員も務め、未来の大統領候補という呼び声さえあった。

 そんな実力も資金力もあるリーダーの鶴の一声で、韓国はワールドカップ招致に乗り出したのだ。

「ところが、いざ立候補してみれば」と当時を回顧したのは韓国誘致委員会の幹部だ(彼も現代財閥からの出向者だった)。

「いざ立候補してみれば、アベランジェFIFA会長の『2002年のワールドカップはアジアで』という言葉は日本を指していました。アベランジェと日本との間には暗黙の了解があった。そのことを我々は誘致活動を開始してから知りました」

 確かに、この時点で日本には3年半近く先行して招致活動を始めたアドバンテージと、FIFAの最高権力者の後押しという力強いサポートがあった。

「日本=アベランジェ」×「韓国=ヨハンソン」

 日本の招致活動が「アベランジェ路線」だったことは前回述べた。立候補のきっかけから始まり、最後の最後、投票の瀬戸際まで、日本は一貫してアベランジェを信じ、頼って追随することを基本戦略とした。

 その判断は必然でもあった。FIFA会長として10年以上君臨してきた彼には、日本を開催地に導いてくれるだけの剛腕と権力があったからだ。

 そして、そんな日本とアベランジェの関係が、韓国の戦い方を決めさせることになった。

「アベランジェ会長は日本を支持していました。その一方で、ヨーロッパはアベランジェの独裁に反感を持っていた。だから我々はそれを利用しようと考えたのです」

 不可侵な存在として君臨してきたアベランジェに対して、反旗を翻し始めていた欧州サッカー連盟(UEFA)への接近を図ったのだ。

 とりわけターゲットにしたのがアベランジェ批判の急先鋒だったUEFA会長のヨハンソン(FIFA副会長)。鄭夢準は彼との蜜月関係を作ることに腐心した。

 そればかりか鄭夢準自らもアベランジェ批判を繰り広げ、独裁的な運営を非難した。

 こうしてアベランジェの長期政権を崩したいヨーロッパと、日本を倒したい韓国の利害は一致する。

 そして気がつけば「日本=アベランジェ」対「韓国=ヨーロッパ」という構図ができあがっていたのである。

 韓国の戦略は巧みだった。

 小倉は溜息混じりにこう漏らしていた。

「ヨーロッパは『日本がいい、悪い』っていう議論じゃまったくないんだよ。要するに『アベランジェ憎し』の話になってる。『ワールドカップを日本でやりたい』とアベランジェが言っているから、日本開催になってしまうと彼に屈することになる。だから日本を支持しないっていうんだから……」

 いつの間にかワールドカップ開催地を巡る日韓の招致合戦は、FIFAの内部争いの“代理戦争”の様相を呈し始めていたのである。

 しかも、ヨーロッパは21票中8票をもつ最大の票田である。それを韓国が押さえれば……。

 先行して招致活動をスタートした日本ではあったが、猛烈な韓国の追い上げによって状況は切迫してきていた。

 そこに<第3の案>、共同開催が急浮上してくるのだ。

共同開催案

 実は共催案はそれまでにも何度か人々の口の端にのぼってきた。

 1994年には当時外務大臣だった河野洋平が韓国外相との会談の中で、「どちらかにしこりが残るような事態は避けたい」と政治的な発言をし、これに呼応するように翌年には李洪九首相が韓国国会の答弁で「韓日関係にひびが入らない方向で解決されるのが望ましい」と日韓共催に肯定的な見解を示した。

 政界のみならず、経済界からもそうした声が上がることがあった。

 しかし、そのたびに日本招致委員会は「共同開催はありえない」というコメントを発表して、明確に打ち消してきた。

 長沼も「政界にとっての国益は日韓友好でしょうし、財界もこれを機に何か日韓の間で経済活動が広がればいいと考えるわけですから、そういう案が出てくるのは当然です。でもFIFAの規約に『一国開催』とあるんだから、我々としては『ありえない』と言うしかないでしょう」と話していた。

 ところが開催地決定を目前に控えた96年4月末、ヨーロッパを訪れた川淵は驚かされることになる。

「ドイツとイングランドを回ったんだけど、みんな何だかはっきりしない顔をしていてね。ドイツではクラマーに会って話したんだけど、『大丈夫』というような積極的な日本支持を口にしないんだ。ドイツの会長も『日本も韓国も素晴らしい国だ』とは言うけど、『日本に1票入れる』とは言わなかった。その後、イングランドの会長に会ったら『日本が単独でやるのがいいとは思わない』なんて言い出した。『あれっ』と思ったね。ヨーロッパで共同開催という話が出ているという情報は知っていたけど、それほど気にしてなかった。でも、このときもしかしたら、と思った」

 ヨーロッパでそんな感触を得た川淵は、帰国後、新聞記者を前に「共同開催だってあるかもしれないよ」と口にする。

 万が一のときにパニックに陥らないための布石を打っておくべきと考えたのである。少なくとも共同開催という動きがあることは、日本の人々に伝えておく必要があると思った。

 それでも川淵にしてもこの時点で共同開催を本気にしていたわけではない。

「ひょっとしたら……という程度のものだよ。10のうち2つか、3つ……3つまでは行かないくらいの感じかな。だから日本の姿勢は100%単独開催で揺るがなかった」

 長沼もこう振り返った。

「欧州を中心としたアンチ・アベランジェ勢から話が出ていると聞いていたが、それでもアベランジェとブラッターが『絶対共催はない』とえらい力を入れて言うわけですから。それも、こちらが尋ねもしないのに、何度も何度も強調してね。そうなると『やっぱりないだろう』ということになるわけで」

 ブラッターとはこのときFIFA事務総長で、後にアベランジェの後継者となる人物である。

いわば会長、事務総長というFIFAの頂点に立つ2人が揃って共同開催を正面から否定していたのである。

 まして日本はそのアベランジェを拠りどころに招致を進めてきた。「そんなことにはならないだろう」と考えるのが当然だった。

 しかし――。

午後2時、電話の主は……

 再び1996年5月30日のチューリヒ。

 実はこの日の朝、日本に衝撃の情報がもたらされていた。

 村田忠男がロシアサッカー協会のコロスコフ副会長から「共催」と直接耳打ちされたのだ。

 村田は日本でのワールドカップ開催を最初に言い出した人物だ。三菱重工でロンドンに駐在していたこともあり、サッカー協会では国際委員として活動していた。ヨーロッパにも知己が多い。

「ホテルの朝食で顔を合わせたら、コロスコフが『共催になる』と言ってきたんだ。日本が悪いのではなく政治的解決だ、と。アベランジェに辞めてもらい、FIFAを民主的な組織に戻すためにも共催が一番いいと……」

 正午の会見で「日出ずる国が素晴らしい太陽を……」と岡野は何食わぬ顔で語ったが、内心は「晴れ晴れとした気分」どころではなかったのだ。

 そして、その日の午後、決定的な連絡が日本招致委員会の本部ヴィダーホテルに入る。

 時刻は2時すぎ。電話の主はFIFA事務総長だった。岡野が受けた。

 ブラッターが告げた。

「実は韓国からすでに共同開催でもいいというレターをもらっている。日本はこれまで単独ということだったけれども、もしも共同開催という決定が下った場合にはどうするか。そのあたりの日本の考えを聞かせてほしい」

 長沼は絶句した。

 ブラッターはアベランジェとともに「共同開催はない」と断言してきた張本人である。その変わり身は信じられないものだった。

 開催地を決めるFIFA理事会まであと2日。シナリオが書き換えられようとしていた。<第3回へ続く>

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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