ドキュメント「日韓共催決定」<第3回>
<第2回からつづく>
元首相到着
5月30日、午後6時。グローデン国際空港は騒然としていた。
招致議連会長の宮沢喜一がチューリヒ入りしたのだ。宮沢は6月1日にFIFA理事会で行われる最後のプレゼンテーションに出席することになっていた。
元総理大臣の来訪に空港はものものしい警備体制が敷かれていたが、メディアの数はそれを大きく上回っていた。
いかつい体格のSPと報道陣の間では小競り合いが起きる。大混乱の到着ロビーでもみくちゃになりながら、小柄な宮沢の姿を辛うじて確認した。
チューリヒに到着した宮沢は、日本招致委員会が本部を置くヴィダーホテルに直行する。
そこには長沼、岡野、川淵、小倉、釜本邦茂といった日本の幹部たちが顔を揃えていた。室内の空気は重苦しく沈んでいた。
早速、経緯が説明される。
数時間前、突然ブラッター事務総長から電話があったこと。それが共同開催を打診するかのような内容であったこと。韓国はすでに共催受け入れに意向をFIFAに伝えているらしいこと……。
とにかく日本は早急に態度を決めなければならなかった。ブラッターからの提案を受け入れるのか、それともあくまでも単独開催にこだわるのか。その場合には……。
到着したばかりの宮沢を交えて、鳩首会談が始まった。
共催受け入れか、徹底抗戦か
「最後までとことん勝負すべきだ」
そう強く主張したのは川淵だ。この時点での票読みでは、投票に持ち込めば勝てると確信できるまでには至っていない。
南米は「日本支持」で固まっている。「共同開催」の立場を表明しているヨーロッパにしても8人の理事すべてが一致するとは限らない。アフリカとアジアはどう動くか。アフリカはやはりヨーロッパに同調するのか……。
それでも川淵は「勝負」を主張し、小倉もそれに同調した。
長沼は迷っていた。
「どんなにカウントしても11票以上確実にとれるというわけではなかったし、ブラッターがあんなことを言ってきたということは断るとやばいんじゃないか」
ブラッターが共催を打診してきた背景を考えれば、もしもはっきりと拒否してしまうと、共同開催どころかワールドカップそのものが日本から遠ざかってしまうのではないかという懸念である。
事実、「FIFAの提案にNOと言った方には投票をしない」という申し合わせがあったという話を長沼は後になって耳にするのだが、もちろんこの時はまだ知らない。
文書に残しておいた方がいい
何が正しい選択かを決めかねた長沼は、到着したばかりの宮沢にも意見を求めた。
そのときの答えは意外なものだったという。
「これはサッカーの話ですから。決めるのはサッカーのみなさんです。僕のような素人が判断することではない。みなさんが決めたことに私は一切文句は言いません。みなさんを全面的にバックアップします」
この発言には会議に参加していた全員が感服した。政治家の立場からすれば、韓国との関係良化が期待できる共同開催がいいに決まっている。しかし元首相はこの場ではそんな政治的な発言を封印した。
その代わり、こうアドバイスしてくれた。
「ブラッターがそういうことを言ってきたなら、文書にしてもらうべきです。こういうときには文書を残しておいた方がいい」
早速、岡野がブラッターに電話をかける。そして「電話ではなく、正式な文書をもらいたい。日本としてはそれから検討する」と伝えた。
ブラッターのサインが入ったFIFAからのレターはほどなく届いた。
<親愛なる長沼会長
私はFIFA会長の名のもと、この手紙を送ります。
5月15日、FIFA宛の韓国サッカー協会の手紙では、共同開催について、もしFIFA理事会が要求するのであれば考慮します、と述べられています。
そこでFIFAワールドカップ2002の共同開催について、貴協会の考えをFIFAに伝達されることを望みます。
FIFA事務総長 ブラッター>
半分でも日本の子供たちに
その間にも情報は刻々と飛び込んでいた。
アフリカの理事からの電話で「アフリカはヨーロッパと一体となって共催を支持することになった」と伝えられる。
南米連盟の専務理事であるアルゼンチンのデルーカには日本のオフィスまで来てもらい、情勢分析を依頼した。彼は情報通だった。
「大勢は共催に傾いているようだ。ヨーロッパの理事は共催で歯止めをかけられている。アフリカもヨーロッパに追随せざるを得ない。(共同開催を)受け入れざるを得ないのではないか」というのが彼の意見だった。
深夜にはモーリシャスのラム・ルヒー理事が電話をかけてきた。彼は泣いていた。日本を支持していた彼が泣いているということは、共同開催という方向性がますます強まったということだった。
だが、それでもまだ彼らは「投票で雌雄を決したい」という思いを捨てきれないでした。会議室は沈黙が包んだ。
長沼の隣に座っていた釜本邦茂が口を開いたのはそんなときだった。
「そりゃこれまで単独開催でやって来たんだから、共催は心外といえば心外だけど、共催になっても半分の16ヶ国は日本に来ます。ついこの前までワールドカップは16ヶ国でやっていたじゃないですか。日本の子供たちにワールドカップを見せてやりましょう」
長沼はこの言葉に胸を打たれる。
「確かに、半分でもやらんよりはええかもしれん」
その一方で、川淵の「負けてもとことん勝負すべきじゃないか」という勇ましい言葉に奮い立つ思いもあった。
日本は態度を決めかねていた。
YESでもNOでもなく「consider」
同じ頃、韓国も懸命に票読みを行っていた。
そこに「ブラッターが日本にレターを送った」という情報がもたらされる。しかし、韓国サイドは、日本が共催案を拒否して投票を主張するのではないかと読んでいた。
韓国側の分析では投票になれば15対6、少なくとも14対7で勝てると踏んでいたという。その数字をもとに「韓国の方から共同開催を拒否して、投票に持ち込むべきだ」という強気な意見も出た。
しかし、韓国はすでに「共催を受け入れる」文書をFIFAに提出済みだった。いまさら拒否すれば、すべてを失う危険性があった。
韓国も身動きがとれない状況に陥っていたのである。
結局、日本がFIFAへの回答書を作成し終えたのは未明のことだった。
<親愛ならドクター・アベランジェ
5月30日の貴殿の手紙を受け取りました。
事務局長ブラッター氏がFIFAワールドカップ2002に言及した件の回答でございますが、もしそれがFIFAの望むところであるならば、我々はジョイントで開催の可能性について検討することをお伝えします。
長沼健 日本サッカー協会会長>
長沼が言っていた。
「『わかりました』ってのは腹が立つし、『検討する』という返事ならいいだろうと。FIFAがルールを変えて、本当に共催ということになったら、『我々は検討することはやぶさかではない』という答になった。YESでもNOでもなく『consider』というふうに答えた」
運命の一日
もっとも強硬に「単独開催で勝負すべき」と主張していた川淵は、それでもまだ一縷の望みを託していた。
「返事をしたからって共同開催に決まるとは限らない。それどころか、この回答書を使ってアベランジェは何かするつもりじゃないか。アベランジェとブラッターには、なにか作戦があって、そのために日本にこんな回答書を出させたのではないか」
そんなシナリオを頭で描いていたのだ。何と言ってもアベランジェとブラッターはそれまで「共催はありえない」と頑なに言い続けてきたのだ。もちろん彼らから日本に共同開催についての話は一切なかった。
川淵がそんな期待を抱いたのも当然だった。
すでに日付は5月31日になっていた。回答書は早朝、岡野がFIFAハウスに直接持参することになった。
予定されていた開催地決定まではあと1日。しかし――。
運命の一日が明けようとしていた。チューリヒの太陽が顔を出そうとしていた。<第4回につづく>