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「クラシックの死」を招かないために~指揮者・大野和士氏の警告

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
大野和士氏
大野和士氏

「現代のベートーベン」とまでもてはやされていた自称作曲家の佐村河内守氏の楽曲は、音楽家の新垣隆氏が18年にわたって書いていたことについて拙文をアップした翌日、私は次のようなメールを受け取った。指揮者の大野和士氏からだった。

〈情報を、まことしやかなものするために、お墨つきを与えた、音楽関係者の罪は、重いと思います。

クラシックのメガヒットと言われているそうですが、クラシックは、何百年も前から、時を超え、国を超え、人々に広がったからこそ、古典と呼ばれるているのだと思います。じわり、じわりと、歴史の中に浸透しているからこそ、人々が自らの存在の意義を振り返る礎として、愛され続けてきたのだと思います。

何万枚の売り上げといった今日的な文句も、その歴史を前にすると、あまりにも表層的なものに思えます。いにしえの人々の魂にじっと耳を傾けながら、今に生き、未来を展望するのが、音楽家の役目だとすると、今回の出来事は、その根元に水がいかなくなったような状態といえばいいのでしょうか。自ら招いたクラシックの死ですね。〉

大野氏は、フランス国立リヨン歌劇場首席指揮者を務め、来年からはバルセロナ交響楽団の音楽監督に就任するなど、ヨーロッパで活躍する日本を代表する指揮者。帰国するのは年に数回だが、日本に関するニュースは常にチェックしている。日本の音楽界を揺るがす、今回の出来事についても、新垣氏の記者会見の内容も詳細に把握していた。メールのやりとりをした後、バルセロナの演奏会からブリュッセルの自宅に戻った大野氏に電話でインタビューを行った。

お墨付きを与えた専門家はお粗末

大野氏も、過去に知人から「一聴に値する」と勧められ、佐村河内氏のインタビュー記事と共にオーケストラ曲の録音を受け取ったことがある。が、佐村河内氏が人生の苦悩を語るのを見て、あまりの自己愛ぶりに「これはまずいのでは…」と感じた。録音も少し聴いてみたが、「いかにも劇伴(映画や劇の伴奏音楽)」で、それ以上聴く気持ちになれなかった、という。

事実を告白し、謝罪する会見を開いた新垣隆氏
事実を告白し、謝罪する会見を開いた新垣隆氏

「あのくらいのオーケストレーションは、新垣さんが語っているように、まじめに作曲を勉強した人なら、誰でも書ける。ちょっと音をキラキラさせて、感傷的な部分を入れて…。これは、新垣さんが本当に書きたい音楽、彼自身の語法とはまったく別物でしょう。それに、多くの人がついていってしまった」

大野氏は、実は演歌や歌謡曲が大好き。自らピアノを弾きながら、楽曲の解説をするレクチャーコンサートで、オペラのアリアと日本の演歌に通じる心情や表現を語らせると止まらないほどだ。映画音楽についても、たとえば『スターウォーズ』は「ハリウッドの最高傑作」と評価する。

「しかし、(聴いた録音は)そんな域には全然達していない。スコア(総譜)を読める音楽の専門家ならば、譜面を見た時に、おかしい、と気づくはずです。あのような作品に、まことしやかにお墨付きを与えた(クラシック)音楽の専門家は、あまりにお粗末を言わざるをえません」

作曲家が初演リハに立ち会わないはずがない

大野さんは、佐村河内氏が初演のリハーサルに立ち会わないという点で、音楽関係者が問題に気がつかないはずない、と指摘する。大野さん自身、細川俊夫、カイア・サーリアホなど、いくつもの現代作曲家の作品の初演を行った経験から、こう語る。

「リハーサルは、それまで作曲者の心の中、頭の中、(五線紙という)紙の上にあった音楽が、実際の音になって出て行く、つまり音楽が生まれ出る課程です。いわば、作品という子供を産む場です。そこには当然、産みの苦しみがあります。(リハーサルで)実際に演奏してみると、改訂しなければならないところが必ず出てきます。マーラーは、自分の曲を自分で指揮して初演をしましたが、練習が終わると毎日、すべてのパート譜を持って帰り、これまでの音符を消しては書き直し、次の練習に望んでいました。(マーラーほどの作曲家でも)そういうことを繰り返して、今の素晴らしいシンフォニーを作ったのです。

こういう(リハーサルで譜面を改訂していく)ことは、初演をする時に、毎日のようにある風景です。譜面を渡して、それで演奏すればいいというものではありません。(初演のためのリハーサルは)作曲家と指揮者の創造に向けての発想がスパークする場です。そういう経緯があるからこそ、初演は本当にすがすがしいものなのです」

ベートーヴェン
ベートーヴェン

それを、佐村河内氏は避けていた。彼の場合は、聴力を失っていた(ということになっていた)ので、リハーサルに立ち会っても何もできないから、不自然ではない、という見方がある。それに対して大野氏は、ベートーヴェンのこんな逸話を挙げる。

ベートーヴェンは、交響曲第9番の初演時には、完全に聴力を失っていた。リハーサルは弟子に指揮をさせていたが、ベートーヴェンは立ち上がり、腕組みをし、にらみつけるように、その様子を見ていたのだという。

「ベートーヴェンは、耳は聞こえなかっていた。でも目で聴いていた。全身で聴いていた。目や体で音楽の力動を感じ、演奏を見届けるという気迫があった。作曲家は、必ず(本番までの)どこかの段階では来て、関わるものです。旋律だけを作って、あとは(助手などのアレンジャーにオーケストレーションなどを)任せる人でも、アレンジャーに確認はするでしょう。できる限り努力して、作品に責任を持つ。それが作曲家です。

ところがこの(佐村河内氏の)場合、音楽を世に出すための普通の課程を経ていません。音楽関係者は、もしだまされたのだとしたら、だまされた方が悪いと言わざるをえません。

それに、彼は80分もの交響曲のスコアを自筆で書いたと言うのでしょう?これは、時に40段にもなる五線紙を一つひとつ埋めていく作業です。四分音符などは一つひとつ黒く塗りつぶさなきゃいけない。そういう作業ですから、中指にペンだこができていますよ。そういうことにも、誰も気がつかなかったのでしょうか」

現代音楽を子供たちに

大野さんは私宛のメールに、こうも書いている

〈現代音楽がとっつきにくいというのは、全く言い古された言葉で、いまや、子供たちのコンサートでも、すてきなアニメーション付きで盛んに演奏されるようになった今、なんで、こんなことが起きるのという思いも強いです〉

ヨーロッパでは、聴衆の年齢層が高くなっていることに、クラシック音楽の関係者が危機感を抱き、若い世代の音楽ファンの開拓に真剣に取り組んでいる。その中で、ベートーヴェンの『運命』でもヴィヴァルディの『四季』などといった古典ではなく、子供たちが生きている今の音楽を聴いてもらおうという取り組みがなされ、一定の成果を上げている、という。

「子供たちは、大きな音でバーンとなっている曲が好きですし、そういう曲をお話やアニメを組み合わせてうまく聴かせるんです」

たとえば、リゲティ(1923-2006)という作曲家がいる。前衛音楽の旗手として、私などには、しごく難解に思える音楽を作った。

「彼の『アヴァンチュール』という作品があります。ヴァイオリンの胴体をたたいたり、弦に息を吹きかけたりと、楽器の本来の奏法以外のことばかりやらせる。新聞紙を破いてみたり、歌手もソプラノは絶叫するし、バリトンはライオンのように吠える。要するに、変なことばかりやっているんです。初演の頃のパリでも人々はまじめな顔でそれを聴いていたようですが、そういう聴衆をあざ笑うかのような音楽なんです。その曲を、子供たちの前で演奏したら、『えへへ、えへへ』と誰かが笑い出し、それが伝染して会場全体が笑いに包まれ、大声で叫ぶ子もいたりして、大いに盛り上がりました。

BBCで細川さんの曲をやった時は、ティンパニの上で風鈴を鳴らして響かせるなどの静かな世界の曲でしたが、子供たちは目を丸くして、口をあんぐりあけて聞き入っていました。(フランスの)リヨンでは、学校の先生と組んで、半年かけて音楽とその周辺をひもとき、最後にストラヴィンスキーの『火の鳥』『ペトルーシュカ』を踊りも入れて、演奏しました。演奏者が子供の中に入っていったら、子供たちは大喜び。このリヨンのプログラムは、今度日本でもやることにしています」

先入観にとらわれず、全身でパフォーマンスを受け止める子供たちの方が、現代音楽の楽しみ方を知っているのかもしれない。

「ただ、こういうことは、(準備に)時間がかかるうえ、すぐに何らかの結果が出て、果実がもぎ取れる、というものではありません。音楽家だけでなく、学校の先生の協力も必要。そういうことを繰り返し繰り返しやりながら、次第に芽が出てくる。その芽を育て、細い枝が太い幹に育っていくまで育んでいく。そういう気持ちで支えていく覚悟が必要です」

今回の出来事は、そうした地道な努力とは対照的ではないか、と大野さんは指摘する。

「促成栽培のように、結果をすぐに求める風潮がありはしないでしょうか」

こちら、偽ベートーベン
こちら、偽ベートーベン

耳になじみやすい曲を用意し、被災者や障害のある人を巻き込んで、人々が感動しそうな「物語」を作り、宣伝する。「物語」に心を動かされた人々は、ホールに足を運び、CDを買う。売り上げは上がり、短期的には功を奏したように見えるかもしれない。だがそれは、単に佐村河内ブランドの消費者を一時的に増やしただけで、人々に音楽の魅力を届ける、音楽を愛する人々の裾野を広げる、という点では、逆効果だったのではないか。まして、それが偽ブランドだったということが分かった今、感動に冷水を浴びせかけられた人々の”裏切られた感”は小さくないだろう。フランスのフィガロ紙など、海外でもこの”事件”は報じられている、という。

「このような事態を、音楽の専門家がせき止められなかったことが、とても残念でなりません」

なぜ、「せき止め」られなかったのか。まずは音楽に関わる人たち、とりわけこの偽ブランドに携わってしまった人たち自身に、しっかり考えてもらいたい、と思う。

くれぐれも「クラシックの死」を招かないために…。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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