【京都上京区】京都の「先の戦」応仁の乱の勃発の地
室町時代、11年にわたる激しい戦乱が続いた「応仁の乱」は、京の町を焼け野原にするほどの被害をもたらしました。京都の人々が「先の戦」と言うと、太平洋戦争ではなく応仁の乱を指すという話はよく聞かれます。「いくらなんでもそれはないだろう」と思いますが、これは京都の歴史と人々の感覚をユーモラスに表現したもの。京都が過去に多くの戦乱を経験してきた中で、特に応仁の乱(1467年~1477年)が大きな影響を与えたことを示しています。この応仁の乱が勃発した地とされるのが、京都市上京区の上御霊神社です。
戦国時代の遠因となった大乱
応仁の乱は1467年に始まり、11年間も続いた内乱です。この戦いは幕府の実力者である細川勝元と山名持豊(宗全)との対立、将軍足利義政の後継者問題、斯波氏と畠山氏の両管領家の相続争いが絡み合い、諸国の守護大名が細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦いました。この戦いにより京都は焼け落ち、戦乱は地方にも拡大。幕府の権威は低下し、戦国時代への移行を招いたとされます。
「御霊会」のルーツとなった王城守護の神社
桓武天皇が平安京に遷都する際、弟である早良親王を守り神として祀ったことが上御霊神社の始まりとです。
正式名は「御靈神社」といい、「上御霊神社」の社名は中京区の下御霊神社に対応しています。
上御霊神社には、早良親王(さわらしんのう)をはじめ、吉備真備(きびのまきび)、橘逸勢(たちばなのはやなり)など、13柱の神霊が祀られています。
早良親王は光仁天皇の皇子であり、藤原種継の暗殺に関与した罪で廃され、絶食して亡くなった人物です。
桓武天皇の時代には疫病や災害が頻発し、これらは早良親王の怨念によるものと恐れられました。その御霊を鎮め、神として祀ることで災いを除去しようと行われたのが「御霊会」の始まりです。
現在も京都では夏に御霊会が開催されており、この行事は御靈神社の祭礼が発祥とされています。
松尾芭蕉の句碑。「半日は神を友にや年忘れ」とあります。
応仁の乱勃発の地
応仁の乱は、上御霊神社の境内にある御霊の森での合戦から始まりました。
守護大名である畠山家の家督を従兄弟の畠山義就(はたけやまよしなり)と争っていた畠山政長は、御霊の森に布陣します。
これに義就が攻撃を仕掛けたことで激しい戦闘が勃発し、この戦いが11年にも及ぶ大乱の発端となりました。
現在、上御霊神社には「応仁の乱勃発地」と刻まれた石碑が建てられています。
境内にある「応仁の乱 発端 御霊合戦旧跡 碑」には、応仁の乱のもとになった御霊合戦があった、と記されています。
この石碑の表文字は、細川護熙元首相によるものです。
上御霊神社の境内は広くはありませんが、木々が生い茂り、四季折々の自然が心を癒してくれます。静寂と厳かさが漂い、歴史に思いを馳せながら、心穏やかに自分と向き合うことができる神社です。
上御霊神社
住所/京都市上京区上御霊竪町495番地
電話/075-441-2260
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