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万策尽きて、遂に… ドナー隊の悲劇

華盛頓Webライター
credit:pixabay

19世紀、アメリカでは新たなる土地を求めて多くの開拓民が西部へ入植していきました。

しかし中には目的地に辿り着くことができず、命を落とすことになった開拓民も決して少なくなかったのです。

この記事ではカリフォルニアを目指して西部へと進んでいったドナー隊の軌跡について取り上げていきます。

無くなっていく食料

ドナー隊のサバイバルは、トラッキー湖畔での冬の備えから始まりました

ブリーン、グレイブス、リード、マーフィー、キースバーグ、エディの各家族、合わせて60名が湖畔に設営された三つの粗末な小屋で冬を迎えます。

しかし、小屋は土の床に雨漏りする平屋根と、厳しい冬を耐え忍ぶにはあまりに貧弱なものでした。

さらに、小屋には窓や扉もなく、寒さを遮るものは幌布や牛革で補強された屋根だけだったのです。

この中で、男性19名、女性12名、子ども29名(乳幼児6名を含む)が過酷な環境と対峙しました。

一方、ドナー家は21名がアルダー川付近にテント群を急造して宿泊します。

ドナー家には、ウォルフィンガー夫人とその子ども、ドナー家の御者も含まれ、男性6名、女性3名、子ども12名が共にいたのです。

11月4日、再び雪が降り始め、嵐は8日間続きました。

スタントンが持ち帰った食料は尽きかけ、牡牛は次々と倒れ、死骸が凍るままに積み上げられました。

猟の経験豊富なエディが熊を1頭仕留めるものの、それ以降は獲物に恵まれず、絶望感が漂い始めます。

特にリード家とエディ家は、ほとんどの資源を失いました。

マーグレット・リードは食料を確保するため、グレイブス家やブリーン家から牡牛を借りることになり、その代償としてカリフォルニアに到達した際に倍値を支払う約束をしたのです。

飢えと寒さに耐えかねた彼らは、馬車を捨て徒歩で峠を越える計画を立てます

11月12日、嵐が一時的に止んだ機を見計らい、最初の小さな班が出発しました。

しかし、柔らかい粉雪に阻まれ、彼らはその晩戻ってしまったのです

翌週、さらに別の班が出発しましたが、彼らもまた同じ運命を辿ります。

そして11月21日、約22名からなる大規模な班が出発し、1.5マイル(約2.4キロ)西へ下りましたが、結局進行を断念し、11月23日に湖畔に帰着しました

この頃、パトリック・ブリーンは日記をつけ始めます。

彼の日記には、当初は天気や嵐の記録が中心でしたが、次第に神や信仰に関する記述が増え、絶望の中で救いを求める様子が見て取れます。

小屋の中は不潔で狭苦しく、雪に閉ざされて外に出られない日が続く中、人々は次第に牛の革を煮込んだ糊状のゼリーや骨のスープで飢えをしのぎました。

やがて、マーフィー家の子どもたちは暖炉の前で牛革を一切れずつ切り取り、炙って食べるようになります。

飢餓と寒さに耐え切れなくなった人々は、少しでも食料を得るため、ドナー家の様子を見に行くことがありました。

しかしジェイコブ・ドナーと御者3名がすでに亡くなったという報告が入ったのです。

ジョージ・ドナーは手の傷が悪化し、動ける男手は4人に減ってしまいます。

クリスマスにはマーグレット・リードが最後のスープを作り子どもたちに振る舞いましたが、飢えは収まらず、屋根の牛革を食べることすら考え始めます。

マーグレット、子どもたち、そして使用人たちは、もはや居住不能となった小屋を離れ、ブリーン家に合流したのです。

使用人たちは他の家族に分散され、飢えとの戦いが続きます。

万策尽きて、遂に…

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トラッキー湖畔での厳冬が、移民たちにとって過酷な試練となりました。

死者が出始め、状況は絶望的となる中、フランクリン・グレイブスは牛のくびきと革から西洋かんじきを14足作り、17人の男女が決死の峠越えに挑んだのです

その際、4人の父親と3人の母親が自らの子どもを他人に託し、命がけの挑戦を決意しました。

彼らは6日分の食料と最小限の装備を持ち、ベア渓谷を目指して出発したのです。

歴史家チャールズ・マクグラシャンは後にこの一団を「決死隊」と名付けました。

しかし、過酷な雪と厳しい寒さが一行を襲い、進むにつれて彼らは次々と倒れていったのです。

飢餓と凍傷により、決死隊のメンバーは命を落としていき、ついには生き残るために人肉を口にすることを余儀なくされました

パトリック・ドランを皮切りに、他の遺体から肉を取り、保存食とすることで命を繋いだのです

エディとメアリ・グレイブスは狩りを試みたものの、手遅れとなった遺体の解体が進む中、食料は尽き、さらに残されたメンバーも飢えに屈していきます

ついにはルイスとサルバドールを殺して食べることを余儀なくされましたが、その際も意見が分かれたのです。

1月12日、彼らはついにミウォーク族の宿営地にたどり着くものの、その凄惨な姿に住人は驚き、最初は逃げ出したほどでした

ミウォーク族は同情し、食料を分け与え、さらにエディをサクラメント渓谷の端に位置する農場へ導いたのです。

その後、救助隊が派遣され、他の6人も1月17日に救出されました。

この33日間の壮絶な試練は、決死隊の生存者たちに深い傷跡を残し、後世にその悲劇が語り継がれることとなったのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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