大恐慌以来という言葉が飛び交うが、大恐慌当時の日本は高橋財政の時代。歴史は繰り返されるのか
IMFは新型コロナウイルス感染防止のための大規模ロックダウン(都市封鎖)を受けて約100年で最も深刻なリセッションに陥ると予想した。感染が長引いたり再来したりすれば景気回復は予想を下回る恐れがあるとの認識を示し、今年の世界GDPを3%減と予測し、「大恐慌」以来最大の落ち込みとなる可能性が高いとした。
このように新型コロナウイルス感染拡大とその防止のための経済活動の抑制により、世界経済は1930年台の大恐慌の頃の状況に陥るとの見方が出ている。それでは1930年台の大恐慌と呼ばれる時代に日本では何が起きていたのか。
金解禁を行って為替相場を安定させることを望む声が上がり、1929年7月に金輸出解禁の方針を掲げた民政党の浜口雄幸内閣が成立し、蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用した。緊縮財政への転換と国民への倹約の呼びかけを行い、1930年1月に旧平価により金輸出を解禁した。
旧平価に対し円がとくに弱かった時期に金本位制への復帰が発表されたため、物価と輸出が急速に低下し、大量の金が輸出解禁とともに海外に流出し、米国から始まった世界恐慌の影響も受けて、国際収支も悪化し、日本の景気は急速に悪化する。財政健全化の必要から緊縮財政や強力な金融引き締め策も相まって、デフレに陥った。
1931年9月に満州事変が勃発した。また、英国は金本位制を離脱。同年12月には立憲政友会の犬養毅内閣が成立。蔵相には高橋是清が就任し、直ちに金輸出が再禁止され、ここからいわゆる高橋財政がスタートした。
高橋是清は禁輸出再禁止後から1932年まで円安の流れを放置した。また日銀は公定歩合の引き下げを実施し、公定歩合の水準は日銀創設以来の最低となった。金本位制を離脱したことにより、金の保有量に制約されずに積極的な財政政策を行いやすくなり、大量の国債発行による公共事業や軍事への投資が可能になった。
高橋是清は財政政策の転換と満州事変の戦費調達のため国債の日銀引受を実施した。1931年度まで抑えられていた軍事費は満州事変勃発を契機に膨張をはじめ、1933年3月の国際連盟の脱退などから国際的な孤立を深めたことで、陸・海両軍による軍備拡大要求は急激に強まった。
1935年に入ると日本経済の拡大が顕著となり、インフレの兆候も出てきたことで、財政赤字を削減させる政策に移行する必要が出てきた。高橋蔵相は1936年度予算の編成にあたり、公債漸減方針を強調した。しかし、健全財政を堅持しようとする大蔵省と軍部との対立が頂点に達し、軍事費の膨張を抑制し財政健全化に向けた努力をしようとした高橋是清は1936年2月の二・二六事件により凶弾に倒れたのである。