【守口市】語り部ガイドマイスターと「東海道五十七次 守口宿」宿場町出入口 見附から歩く
今回守口宿を知り尽くした語り部ガイドマイスターが、楽しく分かりやすく宿場町の京街道「文禄堤」(ぶんろくつつみ)を案内してくださいました。
「守口」の地名は、室町時代の書に森口、杜口、守口と出てきます。様々な諸説があるようです。
本町1丁目の坂から上っていきます。
ここが門があった西の見附(宿場町の出入り口)です。
「京街道」と書かれています。
京都から「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」、そして「守口宿」を経由して京橋、大阪城に到る京街道。
この57次を通じて、町おこしを始め、その歴史をとどめようと活動されており、今回ガイドマイスターをしてくださったのが「守口門真歴史街道推進協議会」の皆さんです。
まずは、義天寺の案内がありました。
本門佛立宗の日扇聖人が御入滅なされた場所に建っています。
このお題目の石碑は野江の刑場にあったものをこちらへ持ってこられました。
詳しく説明して下さっています。ご年配の方々も地元の歴史を熱心に聞かれ、質問したりされています。
守口市民でも守口の歴史をなかなか聞くことが出来ないので良い機会です。
新しい建物と古い建物が混在する文禄堤の通りですが、やはり風情はありますね。
守口から土居に通じる守居橋です。
文禄堤は、文禄時代に豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ最短距離の道として、大坂への道路を整備するため、淀川の両岸沿いに文禄3年、淀屋や毛利三家に命じて修復させ、現在は720mほどが現存している重要な文化財で守口の誇りなのです。
こちらは本町橋です。
この本町橋が拡張工事でどうなるのかまだ分からないとの事ですが、下の1号線に続く道路は全て空き地になってきています。
文禄堤は、河内平野に淀川が氾濫するのを防止するために役に立つ淀川左岸の堤防道と大阪と京都を結ぶ最短道路だったのです。
左側の建物の前が道路になります。
こちらにあったお店などは拡張工事のため全て移転や閉店となっています。
橋から見る拡張道路の「都市計画道路事業の豊秀松月線」です。下の画像が拡張工事前。
ジャンカラや他の店舗、木々などもありました。
守口から土居に通じる守居橋です。
豊臣秀吉がつくった江戸から京都までの京街道は「東海道53次」でしたが、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利した翌年、「伏見・淀・枚方・守口」の4宿を東海道に加え、東海道を57次としました。
昔の建物などが無くなると寂しいですが、新たな街に変わりつつ、文禄時代の古き良き歴史や貴重な建造物なども後世に残していきたいですね。
語り部ガイドマイスターさんがいるおかげで上記の歴史も知ることができました。
ボランティアでされておられ貴重な存在ですね!
他にも案内してもらいましたので、また続きを掲載します。
※撮影許可をいただきありがとうございます。
【文禄堤】
大阪府守口市本町2丁目1