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日本の「報道の自由」を考える~本当の問題はどこにあるのか

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
「国境なき記者団」が発表した「報道の自由」ランキング

パリに本部を置くNGO「国境なき記者団」が発表した「報道の自由ランキング」で、日本が180ヵ国中、72位とされたと伝えるテレビ朝日の報道ステーションで、ジャーナリストの後藤謙次さんが、「実感がない」とコメントしたことが、一部ではかなり批判をされていた。

だが、「実感がない」というのは、かなり控えめな言い方ではないか。

ピンとこないランキング

このランキングで47位のポーランドでは、昨年暮れに憲法裁判所の権限を大幅に制限する法律を作り、さらには今年1月、公共放送や通信社を国有化し、幹部人事を掌握するなど、報道機関の独立性を制限する法案が成立。政府は直後に公共放送のトップを交代させた。これについて、EU欧州委員会が予備調査を始めると報じられている。

67位のハンガリーの現政権も、一足先に裁判官の退職年齢を早めたりメディア規制の法律を次々に行ってきた。70位の香港では、中国共産党に批判的な書籍の出版や販売を行っていた書店の関係者5人が失踪し、中国当局が強制的に連行した可能性が指摘されている。71位の韓国では、産経新聞の記者が朴槿恵大統領の名誉を毀損したとして刑事裁判にかけられ、最終的には無罪となったものの、長期にわたって日本に帰国できず、検察は1年6月を求刑した。

そうした国々よりも、日本は「報道の自由」が低いと言われても、私もピンとこないのが本当のところである。「国境なき……」によれば、ランキングのためのデータとして、メディア関係者や弁護士、学者などに87の質問に答えてもらっているというが、主観の入る問いが多いわりに、どういう人たちが選ばれ、どのように評価対象を割り振っているのかもよく分からない。評価のために一定のものさしが各国に当てられているかどうかも不明だ。

海外との比較は、具体的な制度のあり方について、各国と比べて日本の状況を評価したり、外国のよい所を取り入れて日本の制度改善に役立てるためには大いにやるべきだと思うが、漠然とした「報道の自由」を比べた「国境なき…」のランキングからは、私自身は学ぶところがあまり感じられない。一海外NGOの評価として参考にするのはいいにしても、ランクの低さに衝撃を受ける必要もないのではないか。

安倍政権が萎縮の主要因なのか

ただし、だからといって、日本のメディア状況がよいと思っているわけではない。逆に、以前に比べて、非常に窮屈な感じがしているし、現場が萎縮しているというのも、その通りだと思う。メディアの質、表現の自由のありよう、将来への展望も含めて、私は今、非常に危機感を深めている。

また、自民党がテレビ局幹部を呼びつけた事情聴取、1つの番組だけでもテレビ局に電波停止を命じる可能性に言及した高市総務大臣の発言など、現政権は報道の自由という観点から見て、問題のあるふるまいが多い、と思う。高市総務相は、日本における「表現の自由」を調べるため来日していた国連特別報告者のデービッド・ケイ氏(米カリフォルニア大アーバイン校教授)の面会要請を拒んだことも、残念だ。何かにつけ「国際社会と連携して」と語る安倍政権の閣僚としては、面会して説明を果たすべきだったろう。首相の記者会見も、民主党政権時代には私のようなフリーランスにも質問の機会があったが、安倍政権になってからまったく無視されていて、質問者は記者クラブから数名と外国プレスから1人というのが今や定番だ。

ただ、果たして安倍政権が、今のメディアの萎縮を招いている主要因なのだろうか。あるいは、現政権が退陣すれば、状況は一挙に好転するのだろうか――。それを考えてみると、どうもそうではないような気がしてならない。

放送されなかった番組に「記者会賞」

テレビに対する政治の「圧力」は、最近になって始まったことではない。メディア総合研究所編のブックレット『放送中止事件50年』(花伝社)には、1953年から2005年までの間に、様々な圧力によってなくなったり一部カットをよぎなくされた168本の番組が紹介されている。

『朝日ジャーナル』1963年12月9日号に掲載された「ひとりっ子」の一場面
『朝日ジャーナル』1963年12月9日号に掲載された「ひとりっ子」の一場面

たとえば、1962年にRKB毎日放送が制作したドラマ『ひとりっ子』。長男が戦死した家族の中で、防衛大学校への進学を強く強く勧める父親と、長男と同じ道を歩ませたくない母親との間で悩む次男が、葛藤の末に、働きながら大学で学び、エンジニアの夢を目指すというストーリーで、TBS系の『東芝日曜劇場』で放送される予定だった。しかし、防衛産業との関わりが深い東芝からストップがかかった。そのいきさつを紹介した、このブックレットには、政治家の名前も登場する。結局、このドラマはお蔵入りとなった。

しかし、当時はそれに抗う力も強かった。放送中止が決定した後に、同局の労働組合の要求で試写会が開かれ、そこに地元の新聞記者も参加。東京でも試写会が行われて、報道関係者、評論家が視聴した。その評価は高かった。新聞社や通信社の放送担当記者が組織するテレビ・ラジオ記者会は翌年から始めた「テレビ・ラジオ記者会賞」の特別賞をこのドラマに贈った。

1963年2月1日付読売新聞は、その受賞の経緯をこう伝えている。

〈放送されていないという点で賞の対象になるかどうかが討議された。しかし政治問題をわざと避けて通るような傾向の多い最近の放送界で、日本人の戦争観をいろいろと提出し、進学という日常的な問題の中でうまくドラマ化した企画の積極的姿勢と、作品としてのすぐれたできばえが高く評価された〉

その後も、RKB毎日労組を中心に、「放送させよう」との運動が広がり、「ひとりっ子」は舞台化や映画化もされた。関西芸術座の公演は北は札幌から南は鹿児島(当時、沖縄はまだ復帰していない)まで、全国で上演された。

「やめさせるべきは戦争であって、テレビ放送ではない」

また、1965年には日本テレビが制作したドキュメンタリー『ベトナム海兵大隊戦記(第1部)』の再放送が、政府首脳からのクレームによって中止になり、第2部、第3部の放送も取りやめとなる事件があった。

政治の「圧力」で再放送中止、続編も放送できなくなったベトナム戦争報道番組
政治の「圧力」で再放送中止、続編も放送できなくなったベトナム戦争報道番組

第1部では、南ベトナム政府軍の兵士が殺害した少年の首を放り投げる場面も放映し、戦争の残酷さを伝えた。その放送翌日、佐藤栄作内閣の橋本登美三郎官房長官が、同テレビ局の社長に「あんな残酷なものを放送するなんてひどいじゃないか」などと抗議の電話。それを受けて、再放送は中止になっただけでなく、同テレビ局は続編の放送もやめた。

視聴者も、番組の内容には衝撃を受けたようだが、番組への評価は高かった。同年5月14日付読売新聞は、社会面に「”戦争直視こそ良識”再放送望む声も多い」との見出しで、放送後の状況を次のように報じている。

〈このフィルムが放映されると、終わったとたんに、日本テレビの電話が鳴り出した。(中略)どれも画面の残酷さを訴えたうえで、だからこそ戦争はやめなければならないと叫んでいる。再放映を望む声も多い〉 

新聞社にも数多くの投書が寄せられ、同紙は「代表的なもの」5本を掲載。「戦争のあくなき残酷さ、非常さを描いて、出色のできばえであった」「息もつかず、目を見張ったまま見終えた」「人間を、こうまで非常に追いやるのは、戦争の最も恐ろしい一面だ」などの声を紹介している。

橋本官房長官がクレームをつけたのは、果たして「残酷さ」だけのせいだったのかは分からない。ベトナム戦争を進行中のアメリカへの配慮もあったのかもしれない。いずれにしろ、政権の中枢が横やりを入れるという、あからさまな「圧力」が明らかになって、政府に対する批判も起きたのだろう。

同月18日付毎日新聞は「ことしの放送界での最大の事件」として、事の顛末を詳しく報じているが、その中で橋本官房長官が以下のように弁明している。

〈”茶の間にはいるテレビとして、あまりにむごたらしい場面は好ましくない”と思い、日本テレビ社長に”どんなものか”と電話で聞いたのだ。(中略)私は思想を問題にしているのではなく、文書で批判したわけでもない。まったく一個人の意見として、電話でたずねてみただけのことである。私は放送法をつくった人間だ。言論表現の自由を抑圧しようなどという意向はない。続編を中止したというが、それは放送局自身で自粛したものであり、私とは関係のないことである

橋本氏は、時の官房長官であり、逓信族の大物議員でもある。「一個人の意見」で済むはずもなく、国会でも問題になった。毎日の記事は、「やめさせるべきは戦争そのものであって、テレビ放送ではない」という識者のコメントを引用し、次のように指摘している。

〈テレビは茶の間用の娯楽メディアだけでなく、報道という大きな役割のあることを忘れてはならない。それに対して報道管制をかけるような行動は十分慎まねばならない。官房長官の”個人の善意”は信じるが、テレビ局の再免許をひかえ、放送局としては動揺せざるをえない結果になろう。(中略)こんどのことが、これからの報道に自己規制を加えるキッカケとならぬように希望する〉

日本テレビ内部では、放送中止の撤回や報道の自由を守ることに毅然とした態度を取るよう、経営陣を突き上げる動きもあった、という。『GALAC』2015年4月号によれば、取材したフィルムはお蔵入りになったが、民放労連は日本テレビの取材班がベトナムで撮った写真を提供してもらい、番組の中身を紹介するスライド上映運動を開始。結成されたばかりの「ベトナムに平和を!市民文化団体連合(ベ平連)」の反戦集会にも参加して、放送中止への抗議運動が広がった。

”モノ言う視聴者”の存在感

この2例から感じるのは、政治的な力が働いて放送中止に追い込まれるような事態になっても、放送人はそれに屈せず声を挙げ、評論家や新聞記者などのジャーナリストが会社など組織の枠を超えてそれを社会的な問題として知らせ、労働組合や市民団体が呼応して問題を広げ、そして、よい番組は積極的に支持する視聴者がいた。

果たして今はどうだろうか。

かつては、こうした問題で核になって動いた労働組合は弱体化。景気が低迷し、人々が「連帯」するより、個が分断されていく社会の中で、番組制作の現場も昔とは大きく変わっている。番組の多くが制作会社の手によって作られ、経費削減のプレッシャーもあり、その労働環境は過酷だ。加えて、コンプライアンスの要請も高まってきた。

一方、インターネットやスマートフォンの普及は、本当に様々な変化をもたらした。様々な情報に接することになって、目の肥えた読者・視聴者が増えた。以前はもっぱら情報の受信者だった人々は、今や発信者でもあり、メディアの側もそれを意識する。新聞記者やテレビ局の取材の状況なども”可視化”され、かつてのマスメディアに対するある種の”リスペクト”が失われていく。さらに、意に沿わないことには、批判やクレームを入れなくては気が済まない人たちが増え、”モノ言う視聴者”は存在感を増す。

特定の番組を批判する意見広告が新聞に
特定の番組を批判する意見広告が新聞に

彼らは、気に入らない番組は見ない、という消極的対応ではなく、積極的な意思表示を展開する。ネットの活用で、地理的な距離を超えて人々がつながり、主張も広げられる。けしからんと思った時には、一斉にクレームを申し立て、デモなどの抗議行動を行うこともある。そうした抗議行動は、時に民放のスポンサーや新聞の広告主にまで及ぶ。抗議の対象になるのは、報道番組だけではない。2011年、韓流ドラマを放送していたフジテレビに対する抗議行動は、ネットの中継や右翼団体の活動とも連動し、繰り返し行われた。

政治的な背景や要素がまったく感じられない”視聴者様の声”も多い。というか、むしろそちらの方が多いのではないか。

たとえば、週刊誌で不倫が報じられた女性タレントが出演している収録済みの番組を放送したテレビ局には、10分間で1000件もの苦情電話が殺到した、と報じられている。

どのようなジャンルの番組でも、もはやマスメディアは、「お客様の声」を強く意識せざるをえない。それは民放のスポンサー、新聞の広告主となる企業とて同じだろう。そんな中、「声」を意識した過剰反応も生まれる。

クレーム回避のリスク管理

昨年、日本人ジャーナリストが「イスラム国」に殺害された事件の後、登場人物がナイフを振り回す場面が含まれたアニメなど、いくつかの番組の放送が見送られ、音楽番組では「血だらけの自由」「諸刃のナイフ」などの歌詞が書き換えられて歌われたりした。

後から過剰反応だと言われるとしても、とりあえずクレームが殺到するような事態を回避する、という”リスク管理”である。こうした企業としての姿勢は、現場にも「クレーム回避」を強く意識させる。そういう土壌の上に、様々な番組は作られている。報道番組も例外ではない。

加えて、世論調査では現政権が4割以上の支持を得ている。視聴者の傾向も似たり寄ったりだろう。しかも、取材力の問題もあって、限られた人員で効率よく番組を作るためには、与党という大事な情報源との良好な関係は維持したい。与党への気遣いは、何も放送免許の問題だけでなく、現場のそうした事情も大いに影響していると思う。新聞社も程度こそ違え、相通じる問題といえるかもしれない。

そのうえで、今の与党は、マスメディアに対しても強気で、番組に問題があれば放送局の幹部を呼び出し、議員からは平然と「マスコミ懲らしめ」発言なども飛び出す状況だ。

日本の、とりわけテレビ局の「報道の自由」を考えるには、こんな風に幾重にも重なり合った問題を、1つひとつ解きほぐしながら、考えていかなければいけないのではないだろうか。安倍政権のふるまいは、そうした重要な問題の1つであり、有形無形の圧力にはきちんと反応しなければいけないと思う。ただ、それだけを今の「萎縮」の原因として、こうした重層構造を無視していると、問題の真の姿は見えてこないような気がする。

誰か(あるいは何か)1つのところに原因を求め、「こいつが悪い!」という決めつけは、一見分かりやすいが、物事の真相に近づく営みを妨げる。

「日本全体が怒られることを避けている」中で

ついでに言うと、”クレーム回避”が重要課題になっているのは、何もメディアの現場ではない。”もの言う人々”がターゲットにするのは、テレビ局や新聞社ばかりではないからだ。企業はもちろん、役所など公共的な組織でも、”クレーム回避”は深刻だ。

中学校でいじめにより男子生徒が自殺した件が大きく報じられると、当該の中学校や市教育委員会には、学校や市教委の対応に怒った人々からの抗議電話が殺到し、業務に支障が出た、という。

すくすく成長しているシャーロット(右)
すくすく成長しているシャーロット(右)

こうした深刻な問題だけではない。イギリスの皇太子一家に、女の子が生まれ、シャーロットと名付けられた直後、大分県の自然動物園でその年最初に生まれた猿の赤ちゃんに同じ名前をつけたところ、「英王室に失礼」などという電話がじゃんじゃんかかってきた。園側は謝罪会見を開いて反省の弁を述べ、命名の取り消しを検討することになった。その騒ぎがイギリスでも報じられ、「どんな名前をつけるかは動物園の自由」との英皇太子夫妻の意向が報じられて、ようやく一件落着した。

今年2月、プロ野球元選手の清原和博被告が覚醒剤所持容疑で逮捕された直後に、阪神甲子園球場にある甲子園歴史館が、清原元選手が高校時代に甲子園大会歴代最多の13本塁打を打ったバットなどを展示スペースから撤去した。私は報道に驚いて、電話で理由を尋ねたところ、担当者はこう言った。

「展示を続けても、中止しても、きっと何か言われる。それなら、『後手に回った』と言われるより、たとえ過剰と言われても先手を打った方がよい、という判断です」

こうした風潮は、日本中に蔓延している。

かつては10数万のアカウントをフォローしていたNHK広報局だが…
かつては10数万のアカウントをフォローしていたNHK広報局だが…

メディアに話を戻す。NHKが4月末をめどに公式ツイッターでの外部アカウントのフォローを外すと発表した。そのことについて、NHK広報局の初代ツイッター担当者を務めた浅生鴨さんに対する、ニュースサイト「withnews」のインタビューが興味深い。その最後に、浅生さんは次のように語っている。

「NHKに限らず、日本全体が怒られることを避けている。若い国は冒険をしてどんどん踏み外していく人たちがいるのでしょうが、国として年をとっているのだろうという印象があります。

間違わないんだ、ということに固執している。間違うことが許せない、回りも許さない、そういう傾向にある。やり直せる社会にならないと、萎縮しちゃう気がしますよね。僕もあんまり怒られたくはないですけど」

こうした風潮を見つめたうえで、「報道の自由」を考えてみるのもいいのではないか。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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