死体遺棄罪に問われたベトナム人技能実習生、双子の死産から1年、控訴審の争点
あの日から一年
ベトナム人技能実習生のレー・ティ・トゥイ・リンさんが実習先の寮の部屋で双子を死産したのは昨年11月15日の午前のことだった。熊本県南部のみかん農園で働いていた当時21歳のリンさんは、強制帰国を恐れて妊娠のことを誰にも相談できず、孤立出産へと追い込まれていった。
リンさんは多量の出血を含む肉体的な傷と我が子を喪った精神的な痛みの中にいた。だが、彼女は双子の遺体を血まみれの布団の上に裸で放置することなどできず、それらを丁寧にタオルにくるんで箱に収め、双子の名前と弔いの言葉などを記した手紙を添えて、すぐそばの小さな棚の上に安置した。
しかし、まさにこの一連の行為がのちに死体遺棄罪に問われることになる。翌日に受診した病院から警察へと通報がなされ、数日の入院ののちに逮捕され、起訴をされ、メディアには報道をされ、SNSなどでは中傷にも晒され、そして「私は子どもの遺体を捨てても隠してもいない」と無罪主張をしたものの、7月20日、熊本地裁から有罪判決を言い渡されてしまう。懲役8月、執行猶予3年だった。
そんな逆境の中にあってもなお、リンさんが無罪を求める意思は変わらなかった。この記事では、今週福岡高裁で開かれる予定の控訴審を目前に、先日行われた一周忌の集い、それから弁護団が福岡高裁に提出した控訴趣意書などについてお伝えする。なお、リンさんの来日から地裁判決までの経緯については以下の記事などで記した。
●「国民の一般的な宗教的感情」を害したので有罪。孤立出産で死産したベトナム人技能実習生、地裁判決の中身(Yahoo個人、21年7月28日)
●「これで有罪になれば大変なことになる」孤立出産で死産した技能実習生の起訴に対して医師が示した危機感(Yahoo個人、21年6月29日)
●彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(ニッポン複雑紀行、21年6月16日)
一周忌の集いでリンさんが話したこと
リンさんが双子を死産したあの日からベトナムの太陰暦で1年(およそ354日)が経ち、先週末の11月7日に双子のマン・コイ君とマン・クオン君の一周忌の祈りの集いが開かれた。
場所は熊本市西区島崎にあるマリアの宣教者フランシスコ修道院の御堂。支援団体のコムスタカの方々や弁護士、保釈後に新しく受け入れ先となった農家の方々など数十名が集まった。
なお、リンさん自身は仏教徒だが、逮捕されて以降これまでずっと、修道院のシスターからの親身な支援を受け、深い信頼関係が築かれてきた。数日前には故郷のベトナムでも、家族によって一周忌が行なわれたという。
会が始まって少し経ったころ、リンさんがシスターと共にお祈りと追悼の言葉を述べる番になった。二人は椅子からそっと立ち上がり、黒い服を着たリンさんは、何度も言葉に詰まりながら、肩を震わせながら、用意していたベトナム語の文章を必死に読み上げた。その一部を紹介させていただく。
「あなたたちが無事に生まれるまで、あなたを守れなかったことを、許してください。」
「私は、帰国して子どもを産める日を待っていました。しかし、それは起こりませんでした。子どもたちが死産していたのを見たとき、私はとても悲しかったです。私たちは、この世で一緒にいることはできませんでしたが、将来、天国で再び会うことを願っています。」
「私はあなたたちを決して忘れません。裁判所が『私があなたたちを遺棄した』と判決したとしても、あなたたちは、母である私があなたたちを遺棄することを考えたことは一度もないことを知っています。私はいつもあなたたちのために最高に愛し、祈っています。」
「いつくしみ深い神様、私の名前はレー・ティ・トゥイ・リンです。(中略)私、私の家族、そして私を助けてくれたすべての恩人に常に健康で平和で幸せになれるように守ってください。また、この日本での生活の中で困難や課題に直面している技能実習生たちが、常に安全で力強く、あらゆる困難を乗り越えられるように祈っています。私の祈りを聞き入れてください。」
会場からはすすり泣くような声も聞こえた。リンさんとシスターが座ったあと、参列者の一人ひとりが列を成し、順番にゆっくりと花を手向けていった。
修道院のすぐそばにはリンさんの支援にも関わってきた慈恵病院が隣接している。産婦人科医の蓮田健院長は、熊本地裁に対して、「この行為が罪に問われるとなれば、孤立出産に伴う死産ケースのほとんどが犯罪と見なされてしまいかねない」とする意見書を提出していた。
死産後わずか1日あまり、丁寧に双子の遺体を安置し、その場を離れることもなく共に時間を過ごした。そのことのみをもって母親を重い罪に問うたこの裁判で有罪判決が出されてしまえば、技能実習生であるリンさんだけでなく、これから日本で孤立出産に直面する女性たちすべてを過剰なリスクへと晒すことになってしまいかねない。本当にそんな判決を下してしまって良いのか。
だが、熊本地裁はその後蓮田医師が危惧した通りの判決を示すことになる。
弁護団の控訴趣意書
今週始まる控訴審に向けて、リンさんの弁護団が事前に福岡高裁に提出した控訴趣意書が手元にある。熊本地裁での有罪判決(原判決)を不服とする理由が述べられたものだ。
これに加えて、弁護団は、死体遺棄罪の当てはめなどに関する刑法学者2名からの意見書、ベトナムでの習慣や文化、法律などに関する専門家ら3名からの意見書、そしてリンさんの支援団体であり技能実習生など外国人の支援に長く携わるコムスタカの中島代表からの意見書なども合わせて提出している。
熊本地裁の杉原崇夫裁判官は、①被告人の行為が刑法190条の遺棄にあたるか、②被告人に死体遺棄の故意はあったか、③被告人に葬祭義務を果たす期待可能性はあったか、という3つの争点を示し、そのすべてを認めることで、リンさんを有罪と判決した(3つのうち1つでも否定されれば無罪だった)。
控訴趣意書では、杉原裁判官が読み上げた(極めて短い)判決文を構成する様々な要素の一つひとつに関する問題が複数(控訴趣意第1〜第8)指摘され、詳細な反論が展開されている。中でも重要だと思われるのが、控訴趣意第1に挙げられている「刑法190条の遺棄概念に関する法令適用の誤り」だ。熊本地裁がリンさんのしたことを死体遺棄罪の「遺棄」にあたると認定したことについて、そこにある様々な問題を指摘している。
控訴趣意書は表紙と目次を除いて全体で44ページあるのだが、8つある控訴趣意のうちこの1つの部分だけで17ページを占めている。地裁で示された3つの争点のうち①に関わるところであり、リンさん自身による「私は子どもの遺体を捨てたり隠したりしていません」という無罪の訴えの根幹をなすポイントだと言える。
これ以降の話の前提として、地裁判決の該当箇所(争点①に直接関わる部分)をそのまま引用しておく。
1 被告人の行為が刑法190条の遺棄にあたるか。
刑法190条は、国民の一般的な宗教的感情を社会秩序として保護する。したがって、同条の遺棄とは、一般的な宗教的感情を害するような態様で、死体を隠したり、放置したりすることをいう。
被告人は、死産を隠すために、えい児を段ボール箱に二重に入れ、外から分からないようにした。そして、回復したら誰にも伝えず自分で埋葬しようなどと考え、1日以上にわたり、それを自室に置きつづけた。これらの行為は、被告人に埋葬の意思があっても、死産をまわりに隠したまま、私的に埋葬するための準備であり、正常な埋葬のための準備ではないから、国民の一般的な宗教的感情を害することが明らかである。したがって、被告人がえい児を段ボール箱に入れて保管し、自室に置きつづけた行為は、刑法190条の遺棄にあたる。
加えて、刑法190条の条文も記しておく。「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。」
上記判決文にある通り、地裁判決はリンさんが「えい児を段ボール箱に入れて保管し、自室に置きつづけた行為」が「私的に埋葬するための準備」であるから刑法190条の「遺棄」にあたるという論理を展開している。
これに対して控訴趣意書では、刑法190条・死体遺棄罪の保護法益は「死者に対する追悼・敬虔の感情」であり、これを害する態様で行われた死体等の放棄・隠匿が遺棄であるという前提を確認しつつ、地裁判決の問題点を複数指摘している。
(なお控訴趣意書は、死体遺棄罪の保護法益について、日本社会の構成員である在留外国人の存在や多文化共生が目指されている現状に照らして、「国民の」という限定を付すべきではないとしている。)
指摘されているのは、(1)「不作為」をもって遺棄とみなすことに関する問題、(2)「私的埋葬」イコール遺棄とみなすことに関する問題、(3)未だなされていない私的埋葬の「準備」を遺棄とみなすことに関する問題などだ。それぞれ私が理解した限りでの要点として紹介したい。
(*)ここでの(1)〜(3)の番号は控訴趣意書内のそれとは関係がなく本記事限りのもの。
(1)「不作為」をもって遺棄とみなすことに関する問題
リンさんのしたことは、死体をどこか山中に埋めるといったことではなく、その意味で「作為(何かをしたこと)」として理解される典型的な遺棄とは言えない。そこで、地裁判決では遺体を入れた箱を「置きつづけたこと」という形で、「不作為(何かをしなかったこと)」をもって遺棄とみなしている。
確かに過去の判例には、葬祭義務者による葬祭義務(=作為義務、何かをすべきであるということ)を前提とし、それをしなかったこと(=不作為)をもって遺棄と認定しているものが存在する。だが、それらのほとんどは死体をどこかに放置して立ち去るという「場所的離隔」があった場合であり、双子の遺体と同じ部屋にいたリンさんの場合とは異なる。
ただし、過去には「場所的離隔」の要件なしで死体遺棄が認められた事件もある。だがそれは実母に支給されていた年金等を継続して受給するために、1年8ヶ月にわたって死体をベッドに置いたままの状態で共に生活を続けていたという事案であり、控訴趣意書ではこれを「異質とも呼べる判決」としている(金沢年金詐欺事件)。
リンさんは遺体のそばを離れておらず、葬祭義務の不作為があったとはみなせない。また、罪に問われている期間もわずか1日あまりであり、金沢年金詐欺事件の1年8ヶ月とは大きく異なる。そのため、控訴趣意書は、リンさんが双子の遺体の葬祭義務を果たさなかったという形で死体遺棄罪の成立を認めることはできないとしている。
(2)「私的埋葬」イコール遺棄とみなすことに関する問題
控訴趣意書は、原判決が「私的な埋葬」や「正常でない埋葬」一般が死体遺棄にあたると考えているように取れる点についても疑問を呈している。
そもそも「私的な埋葬」とは何かが判決文で詳しく論じられているわけではないが、墓埋法(墓地、埋葬等に関する法律)4条及び5条は「墓地以外の区域」への埋葬や「市町村長の許可を受けな」い埋葬を禁じているため、そうした埋葬行為は「正常な埋葬」ではないと考えられる。
だが、墓埋法違反による罰則は「千円以下――罰金等臨時措置法により2万円以下――の罰金又は拘留若しくは科料」と定められており、死体遺棄罪の「三年以下の懲役」に比べてはるかに軽く設定されている。
つまり、墓埋法違反の埋葬行為であっても、そのすべてが死体遺棄罪にも同時に該当するわけではなく、それらの中には墓埋法違反単独の場合と、墓埋法違反に加えてさらに死体遺棄罪にも該当する場合とがありうる。そのため、控訴趣意書は、私的埋葬だから遺棄にあたるのだという原判決の背後にある考えには誤りがあるとする。
(3)未だなされていない私的埋葬の「準備」を遺棄とすることに関する問題
(2)では、墓埋法からするところの「正常でない埋葬」のすべてが死体遺棄罪の遺棄となるわけではないことが指摘されていたが、リンさんの埋葬が私的か私的でないか、あるいは正常か正常でないかという話以前に、そもそもリンさんは当時まだ埋葬をしておらず、あくまで部屋の中で安置していただけだということを忘れてはならない。
また、(1)では葬祭義務の不履行という「不作為」が問題になったが(そしてリンさんの場合にはその当てはめができないことが指摘されたが)、もし仮に「死者に対する追悼・敬虔の感情」を害する形で実際に遺体を埋めるということになれば(リンさんの場合にはそんなことは起きておらず、その事実についての争いも存在しないのだが)、それは「作為」としての遺棄にあたることになるだろう。
だが、判決文は未だなされていない私的埋葬の「準備」行為のみをもってリンさんの行為を死体遺棄だとしている。これについて、控訴趣意書は憲法が定める罪刑法定主義に反するものだとして率直に強く批判をしている。
「原判決の被告人の行為が、『私的埋葬の準備行為』として死体遺棄にあたるというロジックはまさに行為としては中立的であっても、その後の行為計画によっては予備罪として処罰される犯罪類型(殺人予備罪等)同様、死体遺棄予備罪として処罰するに等しく、罪刑法定主義(憲法31条)に明らかに反した判断と言わざるを得ない。」
おわりに
マン・コイ君とマン・クオン君のための一周忌の集いを振り返り、弁護団が福岡高裁に提出した控訴趣意書のごく一部について紹介してきた。
私のような素人目に見ても、熊本地裁による有罪判決にはかなり無理があると思える。リンさんは双子の遺体をどこにも埋めていなければ傷付けてもいない。むしろできるだけ丁寧に扱い、その気持ちを手紙にも残している。
控訴趣意書が指摘する通りであれば、過去の判例から見ても、リンさんの行為に死体遺棄罪を当てはめることは本来的に難しいのではないか。そんな中で検察官から何度も持ち出され、地裁判決にも反映されることになったのが、「リンさんが死産を周りに隠そうとした」ということだった。
孤立出産も、死産であったことも、それらを誰にも伝えなかったこと、安心して伝えられる相手が周りに誰もいなかったことも、それ自体には何の罪もない。にもかかわらず、技能実習生であるリンさんが陥った深い孤立、そして彼女が抱いた双子を大切に思う気持ちは、検察官や裁判官によって、彼女が遺体を遺棄しようとしたしるしや背景として読み替えられていった。
死産をすぐに伝えなかったのは隠そうとしたから。遺体を箱に収めたのも隠そうとしたから。隠すために箱に入れたわけではないと本人が言っているのに、いつの間にかそう解釈されてしまう。そこでは単に行為に対して罪があてはめられているというよりも、むしろリンさんがどんな人間であり、どんな風に行動しようとしていたはずだという一方的な見立てのほうが一人歩きしていく。
控訴趣意書で説明されているが、リンさんが暮らしていた寮には農家の雇い主も立ち入ることができ、それにもかかわらず、彼女の血痕は、布団や自室内だけでなく、部屋の前や廊下、居間や洗面台、トイレなどで拭き取られることもなくそのままになっていた。尋常でない状況は見ればすぐにわかる状態のまま残されていたのだ。
今となっては取り返しのつかないことであるが、1年前に通報を受けて現場検証をした警察も、当然それら複数の血痕には気づいたはずである。遺体がどこかに埋められているわけでもなく、どこか外に放置されているわけでもなく、押し入れの中に見えないように隠されているわけでもなく、部屋にある小さな棚の上に安置されていたことも、わかったはずである。
ならばどうして、何のために、リンさんを逮捕し、起訴し、裁判にかけることにまでなってしまったのだろうか。そして、有罪判決にまで至ってしまったのだろうか。せめてそのどこかのタイミングで立ち止まることができていたら。本当にそう思うし、そう考えればこそ、今週始まる福岡高裁での控訴審判決の重大さを感じずにはいられない。
リンさんの無罪判決を求める署名は現時点ですでに4万筆を超え、今週福岡高裁へと手渡されるそうだ。「私は子どもの遺体を捨てても隠してもいない」。その切実な主張が認められることはあるのだろうか。公判を傍聴し、また報告ができればと思う。
(*)前回の記事で問題の所在を示したリンさんの在留資格の現状についても記しておく。以前の在留資格(技能実習2号)の期限は8月半ば過ぎだったため、7月の熊本地裁判決ののち、支援者と共に入管庁に対して技能実習から特定技能への移行について相談した。
すると、逮捕後に勾留されていた期間などに技能実習が停止していたことにより、特定技能への移行に必要な技能実習の期間が足りないことがわかった。そこで、まずは技能実習を数ヶ月延長して必要な期間を修了する形で申請をし、実際にそのようにして在留資格が付与されているという。
そのため、リンさんは現在も今年1月の保釈後に転籍した先の農家で技能実習生として働くことができている。転籍先の農家の方々は仕事の面でも裁判の面でもリンさんを熱心にサポートされている。
●「国民の一般的な宗教的感情」を害したので有罪。孤立出産で死産したベトナム人技能実習生、地裁判決の中身(Yahoo個人、21年7月28日)
●「これで有罪になれば大変なことになる」孤立出産で死産した技能実習生の起訴に対して医師が示した危機感(Yahoo個人、21年6月29日)
●彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(ニッポン複雑紀行、21年6月16日)