日銀の異次元緩和は神の領域を侵したものなのか
日銀の原田泰審議委員は石川県での金融経済懇談会における挨拶で、金融政策に対する批判への若干の反論として次のように説明を行っていた。
「その中で、QQEはインパール作戦のようなもので、一刻も早く撤退すべきだという方もいます。インパール作戦とは、1944年3月から7月初旬まで展開された、ビルマから進軍してインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。これは莫大な犠牲を出して惨憺たる失敗に終わり、無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用されています。途中食糧はなく、餓死者を続出し、敵戦闘機に襲撃され、マラリアに罹病し、参加人員10万人のうち戦死者3万人、戦傷および戦病のため後送されたもの2万、残存兵力5万のうち半分以上も病人という状況に陥り、日本軍は壊滅的打撃を受けました。しかし、QQEはほとんどの経済指標を改善させているのです。QQEを日本軍のインパール作戦と比べるのは比喩のつかい方として誤りだと思います。」
若干の反論としているが、インパール作戦の説明が若干ではない。それはさておき、QQEはほとんどの経済指標を改善させているのです、との説明が具体的にほしいところ。QQEがどのような経路を通じて日本の景気に良い影響を与えているのか。肝心の物価目標が達成されていないのに、そこを経由せずに景気に好影響を与えたのは何故なのか。日銀が行うべきは物価を安定させて景気拡大に寄与することであれば、物価は2%という数字に固執せずにインパール作戦とまで比喩された非常時の異次元緩和は、景気の回復を確認すれば、修正しても良いということになるのではないのか。
そして、QQEに対する認知的不協和については次のように原田委員は述べていた。
「QQEで経済は良くならないという自分の強い認識に対し、現実に経済が改善しているという事実を突き付けられたとき、その事実を否定、または、今は良くても将来必ず悪化すると主張して、不快感を軽減しようとするわけです。」
以前も指摘したが、これはむしろ次のように言い換えられるのではなかろうか。
「QQEで物価が上がるという自分の強い認識に対し、現実に物価が低迷しているという事実を突き付けられたとき、その事実を否定、または、今は低迷していても将来必ず上がると主張して、不快感を軽減しようとするわけです。」
さらに原田委員は次のようにも述べていた。
「金融緩和政策の手段そのものを否定しようという心理もあるように思います。大胆な金融緩和は危険であり、そのような手段を取るべきではないというのです。人間は、太古からこのような感情をいだいていたのかもしれません。神話は、神に挑戦した人間たちの悲劇を繰り返し描いています。バベルの塔、太陽に近づいたイカロス、土で作られ、命を与えられたゴーレムが破滅を導いた神話です。QQEに反対する人々は、QQEも神の領域を侵すものだと言いたいのかもしれません。」
日銀が2013年4月以降に行っている政策は、これまでの緩和策が慎重すぎるため、禁じ手とされた実質的な財政ファイナンスを行うことによって物価を上昇させようとするものともいえる。財政法で禁じられたものを行うにあたっては、日銀が禁忌を犯したとの見方はできる。しかし、それを例えるのにバベルの塔、イカロス、ゴーレムを持ち出すというのもなかなか大胆である。
「また、歌舞伎の雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)には、朝廷が、邪悪な心を持った早雲(はやくも)王子を皇位から遠ざけるため、鳴神(なるかみ)上人に寺院建立を約束に、本来は女子として生まれるはずの子を超人的な力―変成男子(へんじょうなんし)の行法―により世継ぎの皇子として誕生させたという話があります。ところが、朝廷は、上人は自然の摂理を侵したとして、寺院建立の約束を反故にしてしまいます。しかし、QQEは自然の摂理を侵すような方策でしょうか。」
QQEは自然の摂理を侵すような方策かどうかはさておき、財政ファイナンスやマネタイゼーションを何故、各国は禁じているのかは過去の歴史をみれば明らかとなる。ただし、神話の時代に遡るほどのものではない。
「ローマに税金を払うべきか否かを問われたイエスは、銀貨に皇帝の肖像が彫られていることを人々に確認させた後に、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と言われました。貨幣に関わる金融政策は、神のものではなく人間のものです。人間のものであれば、理論と事実に基づく議論を避けるべきではありません。」
貨幣に関わる金融政策は、神のものではなく人間のものであることには異論はない。人間のものであれば、理論と事実に基づく議論を避けるべきではないことも全くもって同意である。そうであれば、神の領域を侵すとまで比喩された異次元緩和を行うことで、理論的には物価は上がると主張されていた方々に対しては、なぜ物価は上がらないという事実が起きているのかを改めて問うてみたい。