勝ち組の固定化をもくろむ「脱成長」
「脱成長」は「現状維持」で「勝ち組固定化」
都知事選における某候補者による主張をきっかけに、「脱成長」という言葉に潜む意味の解説を先日行ったところ(年寄りに「お前らに未来はない」と言われる若者達)、「現状維持大いに結構」「精神的な充足感を得れば良い」などの意見も寄せられた。そこで少し補足を行うことにする。
成長を止めることは未来への道筋を閉ざし、生物の本質に反することは先日触れた通り。しかしこの「脱成長」状態を「現状維持」とし、それを良しとする考えがあることは否定しない。しかし「現状維持」とは今の状態を維持し続けること、つまり、さまざまな格差もそのままの状態なのを意味することを忘れてはならない。言い換えよう、「脱成長」は「勝ち組の固定化」である。
この言葉が「勝ち組」である人達の口から、相対的に「負け組」に位置する若者などに向けて放たれている。諸手を挙げて賛同する人が、どれだけいるのだろう。ネットスラングを使うとすれば「お前が言うな」と突っ込まれるのが関の山だろう。
実は「現状維持」にも「成長」は必要
勘違いしている感があるが、実は「現状維持」にも成長は欠かせない。周辺環境、社会情勢は日々移り変わり成長を続け(それが命の本質だからだ)、対応すべき手立ても変化していく。「脱成長」をうたい生活環境をそのまま現状維持するにも、変化する状況や環境に対応するだけのリソースや知恵が必要となる。そしてそれらは成長なくしては得られない。
この「勘違い」はインフラ周りでよく見聞きする話ではある。インフラはフリーメンテナンスで未来永劫同じ性能を発揮し(それどころか自律的に性能アップをすることもある)、我々の生活を、現状を支えてくれる……それが叶うのはゲームの世界だけの話。実際には多くの人が管理運営をし、機材更新を行い、周辺環境の(成長による)変化に対応しうる冗長性を持つように改良されていく。これら影の人達の進化成長が、「現状」を支え、「維持」されていることを忘れてはならない。
「衣食足りて礼節を知る」
「精神的な充足感」という話。要は、皆はもう日常生活の上ではそれなりに満足しているはずなのだから、あとは欲張らずに精神的な満足感を得るように、価値観を切り替えようとするもの。これはことわざの「衣食足りて礼節を知る」にもつながる。衣食住(元の言葉には「住」は無いが、生活の根本の上で欠かせないことに違いはない)が満ち足りてはじめて、心にゆとりが出来、礼儀も知ることができるというものだ。
それでは今時分、衣食住が現時点、そして将来においても満たされていると断じることができるだろうか。前記事にもある通り、人は今現在だけでなく、将来を見据えて生きている、いや生き続けることができる。その問いに「イエス」と答えられる人は、成長を止め、精神的な満足感を得ることに切り替えても構わないだろう。いわゆる「楽隠居」というものだ。
しかしその条件を満たせる人は多くない。ざっくばらんに表現すれば、上記で触れたごく一部の「勝ち組」でしかない。多くの人は「イエス」と答えられるような環境を手に入れようと、成長を求めることになる。
自らの環境を元に方向性を定め、それを他の人にまで強要するのは、まさにエゴでしかない。そのエゴは多くの人にとって、「これから」を閉ざされ、踏みにじられ、未来を踏みにじられかねない。だからこそ「脱成長」に反発を覚える人が多い。
人の本質的歩み、営みを考慮すれば、「脱成長」は「脱生存」とすら表現できる。それを是とする人がどれだけいるのだろうか。
……もっとも「今件」に限れば、「将来のための種もみを俺たち高齢者のまかないに回せ」と奪い取る行為に見えるのも一因なのだが。そのような状況ならばなおさら、食料を増やすべく種もみを植えて育て、「成長」に励まねばならないのにも関わらず。それこそが、皆の先頭に立ち、導く指導者たる者として、最低限必要な条件であるにも関わらず。
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