【教育勅語】「同胞を大事に」「親孝行」でも普遍性がない理由
就任早々の問題発言だった。安倍政権の内閣改造で文部科学大臣に就任した柴山昌彦氏は、その就任会見で、戦前・戦中の教育で使われた教育勅語について、「アレンジした形で、今の道徳などに使える分野があり、普遍性を持っている部分がある」などと述べた。これに対し、野党は「言語同断だ」(立憲民主党・辻元清美衆議院議員)などと反発。ネット上でも「戦前回帰か」と批判が高まっている一方で、「親孝行しましょう、兄弟姉妹仲良くしましょう、夫婦仲良くしましょう、しっかり勉強して世の中のためになることをしよう、ということの何が悪い?」と、柴山文科相の発言を肯定する意見もあった。一見、良いことのようにも読める、教育勅語の何が問題なのか。なぜ、普遍性が認められないのか。憲法の視点から、その理由を解説する。
〇教育勅語を再評価しようとする安倍政権
教育勅語とは、1890年、山縣有朋内閣の時にまとめられ発布された、国家が推奨する道徳的指針。「明治天皇の言葉」とされ、特に戦中、軍国教育の要とされた。そのような経緯から、1948年、衆参両院は排除や失効を決議している。だが、安倍政権において、教育勅語を再評価しようという動きがある。今回の柴山文科相の発言の他にも、当時、防衛大臣であった稲田朋美氏は昨年3月8日の参院予算委員会で、
と発言している。また安倍政権としても、同年3月31日、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」とする答弁書を閣議決定している。
〇主権者である国民に対し、道徳の押し付けはできない
こうした安倍政権の教育勅語を容認する言説・政府答弁は、日本国憲法の理念に反するものだ。というのも、日本国憲法は国民主権をその基本原理としているが、これに対し、教育勅語は、当時の絶対君主であり「現人神」であった天皇が臣民に道徳を押し付けるというものだからだ。日本の教育史学研究者による「教育史学会」は、昨年5月に発表した声明文で以下のように指摘している。
〇「親孝行」等の部分だけの切り離しはできない
また、教育勅語では「親孝行」であろうが、「友達を大切にしよう」であろうが、各々の部分を切り離すことはなく、それらの道徳観は全て「皇運扶翼」、つまり臣民が天皇のため、命をもささげることへ収斂されていくものなのだ。
日本教育学会も、昨年6月に発表した声明の中で、以下のように教育勅語の「普遍性」を否定している。
〇「全員野球内閣」というより「ほぼ全員日本会議内閣」
教育勅語は、柴山文科相が言うような「アレンジした形で、今の道徳などに使える」ものではない。どうしても道徳教育がしたいのなら、日本国憲法の理念に沿う別個のカリキュラムをつくるべきである。教育行政のトップである文科相の発言は、責任重大であり、柴山文科相の資質も今後の国会で問いただされることになるだろう。
だが、問題の本質は、今回の内閣改造が「全員野球内閣」というより、「ほぼ全員日本会議内閣」であるということだ。日本会議は、日本最大級の保守系団体で、安倍晋三首相や麻生太郎財務大臣との関係が深い。今回の第4次安倍改造内閣では、日本会議の活動を支援する議員連盟「日本会議国会議員懇談会」に加盟歴のある閣僚が、19人中14人なのである(関連情報)。日本会議は、その主催イベント等で教育勅語の重要性を訴え、幼児達に教育勅語を唱和させることすらしている(関連情報)。つまり、教育勅語を巡る柴山文科相の発言は、彼個人の問題というよりも、安倍政権全体の問題でもあるのだ。
日本国憲法第15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定されている。安倍政権は日本会議の主張よりも、国会の総意としての、教育勅語の排除・失効衆参決議(1948年)を重んじるべきだろう。
(了)