テレワーク時代の必須能力「言葉にする力」は、日本人の創造性をもしかすると殺してしまうかもしれない
■「言葉にしない」が美徳な日本
「はじめに言葉ありき」など、とかく明確に言語化することが重要な他国とは違い、日本では俳句や短歌など、最小限の言葉を使って物事や気持ちを婉曲的に表現し、そこで生まれる多義性、曖昧さに良さを感じる文化を育んできました。
「あうんの呼吸」「以心伝心」「空気を読む」「慮る」「一を聞いて十を知る」「言わずもがな」などの慣用句をみても、日本人が「あえて言葉にしないこと」を美徳としてきたことがわかります。
■実際は「非言語コミュニケーション」を行なっていた
では日本人は、言葉にしなくてもコミュニケーションが取れたのかというと、もちろんそういうことではありません。人間ですから、なんらかの情報が五感のどこかから入らなければ、それを認識することも理解することも、共感することもできません。
実際には、立居振る舞いなどのボディランゲージや声色、床の間にかかる画、服装のテイストといった、ある意味では狭義の言語より複雑な文法の「非言語コミュニケーション」を用いて意思疎通を図っていたわけです。
非言語コミュニケーションには「あそび」(ゆとり、幅)があり、その時の環境や文脈、お互いの関係性、共通の知識などによって解釈に多様性が出てきます。場合によっては正反対の意味を指すことさえあります。
上司から「いい感じでやっておいて」と言われたときも、表情などを見て、本当に自由にやってよいのか、上司がやって欲しいことを言われずともやっておくべきなのかを判断する必要がありました。
その判断を可能にするためにも、相手の背景を含めた理解が必要となり、仕事外でも飲みニケーションを行なったりして情報を仕入れていたわけです。
■「あそび」があるから自由にできていたのに
これだけ聞くと「なんと面倒くさいことを」と思うでしょうし、コミュニケーションミスを生むこともあります。それでもこの曖昧なスタイルが是正されずにいたのは、明確な言葉で「このように行え」と言われたときよりも解釈の余地がある分、そこに自分の考えや趣向を入れることができるメリットがあったからです。
それが日本人の「自発性」や「創造性」の源になっていたのではないかと思います。殿様が「良きに計らえ」と曖昧に命令することで、家来がある程度自由に行動することができるという、いにしえより、トップダウンではなくミドルが実質活躍する日本の権力構造にも合致していました。
そこに急激な変化をもたらしたのが、コロナ禍です。以前から働き方改革で、個々人が多様な働き方をしながらチームワークをすることは必要になっていましたが、半ば強制的にテレワークが一気に進むことで、時間的・空間的に同期しない状態でメンバーとチームワークを行う必要がでてきました。
使えるコミュニケーションチャネルは、オンライン会議システムやテキストチャット、メールなどに限られます。オンライン会議システムはまだ顔や手くらいは見えますが、全体的に非言語コミュニケーションが劇的にやりづらくなったのは否めません。
■非言語から「新しい言葉遣い」の言語化へ
そこで突然、「言葉にすること」を良しとしていなかった我々日本人は、「言葉にしなければ何もわからない」状況に追い込まれてしまったのです。とりあえず仕事を継続していくためには、とにかく何でも言語化しなければならなくなりました。
しかし、高度な非言語コミュニケーションを使って意思疎通をしていた人は、逆に言葉にすることが苦手だったりします。実際、部長が言っている言葉をそのままテキストにすると、論理的にはちんぷんかんぷんだったりします。
そこを部下が行間を読んでうまくやっていたわけですが、それが通用しなくなりました。明確にして欲しいことを、具体的に行動レベルで、言葉で指示をする必要が出てきたのです。
短期的には、つたなくとも言語化をしていくことで、なんとか仕事は回っていくことでしょう。しかし心配なのは、非言語コミュニケーションを多用することによって生まれていた「創造性」の余白がなくなることです。
明確に指示されてしまっては、きちんとそれをするしかありません。今後の日本人(少なくとも日本のビジネスマン)は、明確な言葉を用いてコミュニケーションを交わしながらも、これまでとは別の方法で、個々人の創造性を引き出す方法を探究しなければならないでしょう。
真面目な日本人は、明確に言われたら自分の頭を使わずその通りにしてしまいがちです。今度はこれまでの非言語ではなく、言語においての「新しい言葉遣いのリテラシー」が求められているのです。
※キャリコネニュースにて人と組織についての連載をしています。こちらも是非ご覧ください。