絶望のどん底から日本一の箏奏者へ。震災の先に見つけた新しい夢
「自分のことが好きになれない」「どうせ僕なんか…」「私には無理」そんな風に自分に自信が持てず、悩んでしまうことは、誰もが一度は経験したことがあるのではないだろうか。
周りが羨むほどの端正な顔立ちと愛されるキャラクターで、邦楽界のアイドル的な存在である大川義秋さん(23)は、「中学3年までは暗くて人と話すのも苦手で、自分の全部が嫌いだった」と語る。
煌びやかに見えるアーティストとしての姿の裏側に秘められていたのは、地元福島県の双葉町で15歳の時に経験した震災の記憶と、大切な人を失った喪失感だった。絶望の淵で出会った箏によって類稀なる才能を開花させた彼は、優しい音色で傷ついた人たちを癒しながら、新しい夢を追いかけ始めた。彼の音楽に込められた思いが一人でも多くの人に届いて欲しいと思い、取材した。
■箏奏者から『箏男 kotomen』へ
大川さんは、箏を始めてわずか5年目の21歳の時に、『第23回くまもと全国邦楽コンクール』で、最優秀賞・文部科学大臣賞をW受賞した。今では東京オリンピック関連のレセプションや海外に日本文化の魅力を伝えるクールジャパンなどにも呼ばれて演奏する、日本を代表する箏奏者の一人だ。2018年からは、邦楽(日本の伝統楽器)の若手演奏者10人によるアイドルグループ、『桜men』(サクラメン)としても活動しており、老若男女問わず多くのファンの心を掴んでいる。
大川さんの出身である双葉町は、2011年の東日本大震災で大きな被害に遭い、原発事故によって「帰還困難区域」になってしまった場所だ。当時15歳だった大川さんとその家族も、例に漏れず避難指示を受けて、今は埼玉に住んでいる。そして今でも、被災者が集まる場所を訪れたり、全国各地で震災の経験を伝えたりしながら、一人の時は『箏男 kotomen』(コトメン)と名前を変えて活動し続けている。
いつどこで演奏する時も「お箏を弾く前は、必ず震災のことを思い出す」と大川さんは語る。彼の演奏に込められているのは、震災当時に痛いほど感じた辛い気持ちと真っ暗な闇からなかなか抜け出せない心の葛藤。そして、かつて自分が箏の音色救われたように、「今度は自分が誰かの“目に見えない傷”を癒したい」という心からの願いだった。
■知らされなかった原発事故
2011年3月11日は、大川さんが通っていた中学校の卒業式だった。家族で昼ご飯を食べた後、家でゆっくりしていた時に大地震が起こった。全身が飛び上がるほど大きく揺れ、棚も机もひっくり返り、バリバリと音を立てて窓ガラスが割れる光景を見て、彼は死を覚悟したという。台所ではお母さんとお姉さんが食器棚の下敷きになりかけていたが、なんとか助け出して車で避難した。避難先は彼がついさっき卒業したばかりの中学校だった。
「校舎の中は人だらけで、ひとつの教室に50〜60人くらい寝てるような状況だったので、僕たちは車で寝泊まりすることにしました。当時はスマホもなかったのでまったく情報がなくて、津波が起こったことを知ったのも3、4日後だったと思います。雪の中を避難していた時に、海側の空に真っ黒い雲がかかってるのを見てたら、ゴゴゴゴってすごい地鳴りの音が聞こえて。でもそれが津波だとはまったく想像してませんでした」
翌朝トイレに起きた彼は、白い防護服を着た人たちを見た。その10分後に避難警報が鳴り、「とにかく山の方へ逃げてください」と言われた。その時にはもう原発が危なくなっていたことも、放射能が漏れていることも、何も知らされずに。どこに逃げたらいいのかもわからず、ただひたすらに山に向かって逃げた。
■津波に奪われた夢の続き
電気も水も食料も十分にない……。親戚の家や避難所を転々とした後、埼玉県の大学に進学するお姉さんの寮に、家族4人で住み始めた。福島県で被災した人は避難先に近い高校を選んで進学できるという制度と学校関係者の温かいサポートによって、大川さんはなんとか高校の入学式を迎えることができた。
ようやく前向きな一歩を踏み出せたと思った矢先、再び彼を絶望の淵に突き落とす出来事が起こった。中学校の時に大好きだった憧れの先輩が、津波にのまれて亡くなっていたことがわかったのだ。吹奏楽部で同じ楽器を弾きながら、音楽の楽しさを教えてくれた先輩。彼女と違う高校に行っても吹奏楽を続けて、「いつか先輩を超えたい」という、彼が密かに抱いていた夢は叶わなかった。
「誰とも話したくない(福島弁でなまってるし)」「友達もできないだろう(福島出身だし)」「高校は卒業できればいいや」と、高校生活に期待も希望も抱くことができない。大好きだった音楽も「聴くことすらしたくない」と拒絶し続けていた大川さんだったが、ひょんなきっかけで箏と出会い、再び音楽と向き合うようになった。
■目に見えない傷と心の復興
福島県の双葉町は、震災から8年経った今でも大部分が「帰還困難区域」であり、一部でようやく避難指示解除準備が始まったという状況だ。コンビニもガソリンスタンドも病院も、生活に必要なお店や施設は閉まったまま手付かずで、立入禁止のバリケードが多く目につく。津波で浸水したエリアは、ヘドロや瓦礫の撤去こそ済んで更地になっているが、それは街が元通りになっているわけでも復興したわけでも全くない。
「震災の復興って、目に見えるものは進んでるのかもしれないけど、目に見えない心の傷は全然消えてないなって感じていて。誰かを失った悲しみだったり、移住することですれ違ってしまった家族への思いだったり、みんな色々なものを抱えてると思うんです。そういうところにももっと目を向けてもらって、癒したりケアしたりすることができたらいいなって」
■震災を経験した先に広がる新しい道
大川さんの双葉町の家は、地震で大きく揺れたものの津波は届かず、未だに避難した時のままの姿で残っているという。事前に申請をすれば荷物を取りに一時的に帰ることもでき、家族は何度か訪れているそうだが、「過去を振り返りたくないから帰る必要がないかな」と彼は落ち着いた表情で語る。
被災者はいつまでも被災者のままでいるわけではない。東日本大震災から今年で丸8年。当時15歳だった大川さんにとって、その時間はとても長くて濃厚な月日だったに違いない。震災によって激変してしまった続きの人生を、8年かけて少しずつ紡ぎ直し、もう一度夢を描けるようになるまでの道のりを、彼は必死に歩んできた。
大川さんの中から震災の記憶が消えることはない。でもそれはかつての大きな悲しみではなく、澄んだ優しい箏の音色や、前を向いて夢を追いかけるための原動力になっている。(大切な先輩の話をしている時の挿入歌は、大川くんが彼女を想って作った曲なので、ぜひそこにも注目してほしい)
■もう一度新しい夢を追いかけて
そんな彼がずっと温めてきたひとつの夢が、「福島県飯舘村で叶うかもしれない」といううれしい知らせが届いた。一度は失われてしまった夢が、形を変えて叶う瞬間が訪れること。震災で辛い経験をした先に続く人生を「生きててよかった」と思えること。そして、“幸せ”だと感じて笑えること。そんな色々な“希望”の形を、大川さんはいっぺんに見せてくれた。「お箏の音色を通して、どんなに辛いことがあっても、その先には希望や夢があることを伝えたい」そんな彼の言葉と音楽を通して、少しでも温かい気持ちに触れてもらえたらと思う。
クレジット
ディレクター / 編集 水嶋奈津子
撮影 山元環
音楽 大川義秋、香登みのる