【岡山市】戦国を駆け抜けた「宇喜多家」のNHK大河ドラマ実現に向け、現在署名活動が行われています。
「戦国宇喜多家」NHK大河ドラマ実現に向け、現在署名活動が行われています。
(2024年10月15日現在)
宇喜多 直家
独力で50万石大名となった智勇兼備の将、直家。
歴史に葬られた英傑
1529年に砥石城(岡山県瀬戸内市)に生まれたとされる。6歳の時に居城を島村氏に攻められ、以後、住まいを転々とする人生を送ったという。その後、浦上宗景に出仕し、乙子城主に抜擢。のち、舅の中山勝政を謀殺(浦上宗景の指示といわれる)。同時に仇敵・島村氏を討ち、祖父の領地を奪回。以後亀山城を居城に勢力拡張に努めた。1568年頃、備前に進出してきた三村氏を撃退。さらに岡山の城を手に入れ、大改修を施して入城。ここに城下町・岡山の歴史が始まった。その後、浦上宗景を追放して備前を統一し、美作南部、播磨西部も領有。中国地方に進攻してきた織田方と対峙するが、羽柴秀吉を通じて帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、1582年(または15 81年)に病没した。
虚像からの解放へ
直家は、斉藤道三、松永久秀と並ぶ戦国三大梟雄の一人といわれてきた。
しかし、そのイメージは、江戸時代になって、当時の儒学的観点から敗者である直家を悪役のように語り伝えたことで始まったとされる。ゼロから独力で50万石大名となり、岡山の礎を築き、織田・毛利の超大国と渡り合った直家こそ真の姿。英傑であるのは間違いない。
実は部下思いで先見的!
自ら荒地を耕し、食糧不足の折には一緒に絶食するなど部下思いの面もあった。
また、山城が主流の時代に平地の岡山に城を築き、山陽道を付け替えて商人を呼び寄せ、城下町の礎を築くなど、時代の先を見据える目があったと言える。
直家の妻「円融院(おふくの方)」
幼き子と家を守った強き母
戦で滅んだ三浦氏の妻とされ、宇喜多直家の妻となった。俗説には「おふく」とされる。幼くして跡を継いだ息子・秀家と宇喜多家臣団をまとめるとともに、羽柴秀吉の力を背景に周辺の武将に睨みをきかせるなど、女城主に近い時期があったとも言われる。それを物語る資料もある。宇喜多・羽柴方と毛利方の国境を定める交渉で、毛利方の安国寺恵瓊 は、「(秀吉方交渉役の) 黒田官兵衛、蜂須賀正勝が例え了承しても、秀家の母が秀吉に手紙を書いて直訴したら、決定が覆ってしまう」という書状を国元に送っている。
宇喜多 秀家
関ヶ原で唯一徳川方と 刃を交えた五大老、秀家。
忠義に生き波乱の人生を歩んだ五大老
1572年に誕生し、直家死去により幼くして家督を相続した。
四国攻め、九州攻め、小田原攻めなどに出陣し、秀吉の天下獲りを支えた。また、海外出兵時には戦地から指示を出し、岡山の城下町づくりにも励んだ。
1597年頃には岡山城天守が完成。後世、五大老とされる豊臣政権の中心を担う大名となった。
1600年の関ヶ原の戦いでは、様子見を決め込んだり東軍につく武将も出る中で、豊臣方として忠義を貫き、西軍の最大兵力で出陣。大将格として奮戦するも敗退し、島津氏を頼って現在の鹿児島県垂水市に隠れるも、八丈島へ配流となった。
以後、本土に戻ることなく、関ヶ原を戦った大名としては最も長く生きて1655年に死去した。
実は武骨で、秀吉からの信頼大
秀家は、秀吉の天下平定の戦には常に従軍し、大陸出兵では総大将として活躍した。また、妻となった豪姫は秀吉最愛の娘とも言われ、その夫として秀家を選んだ秀吉の人物眼からも、秀家の人となりが推察できる。秀吉は、徳川家康らの次の世代として、秀家に豊臣秀頼後見の役割を期待していたのではないかという考えもある。
八丈島に佇む秀家と豪姫の銅像!
八丈島の秀家と、豪姫の再会はついにかなわなかった。それを悲しんだ後世の人々によって、現在、八丈島には 二人が仲睦まじく並ぶ座像が設置されている。
秀家の妻「豪姫」
明治維新まで続いた夫と子孫への思い
前田利家と芳春院(おまつ)の娘、羽柴秀吉の養女であり、宇喜多秀家の妻。豪姫が床に臥せ、狐が取り憑いたせいだと言われた際に、秀吉は、稲荷の総本宮・伏見稲荷大社に対し「取り憑いた狐を退散させよ。さもなくば国中で狐狩りをして孤族を滅ぼすぞ」と激怒したとされ、秀吉の溺愛ぶりが伺える。
八丈島へ配流となった秀家に仕送りを送り、自身は再婚することなく一途に夫と子らの身を案じ続けたと言われている。その思いは死後も継承され、前田家からの仕送りは秀家の子々孫々へ及び、明治維新まで続いた。
ふたりの宇喜多を、大河で見たいと思いませんか!
署名された方には「宇喜多家家臣団証」がプレゼントされるようです。
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