「痴漢は犯罪」ポスターが生まれるまで 大阪「性暴力を許さない女の会」の28年
今年1月、コピーライターの糸井重里さんがツイッター上でこんなことをつぶやいた。
駅構内に貼られている「痴漢は犯罪です」というポスター、多くの人が目にしたことがあるだろう。そして、糸井さんのように疑問に感じたことのある人も多いかもしれない。痴漢は犯罪なんて当然のこと。わざわざ書くことに意味があるの?と。確かにそうだ。なぜこのコピーが採用されることとなったのだろうか。
このポスターが貼られ始めるようになったのは1994年のこと。実は、「痴漢」という文字がポスターに使われるようになるまでには長い道のりがあった。「地下鉄御堂筋線事件」をきっかけに立ち上がった「性暴力を許さない女の会」に取材し、「痴漢は犯罪です」ポスターができるまでを聞いた。
痴漢を注意した女性が強姦された「地下鉄御堂筋線事件」
「地下鉄御堂筋線事件」は1988年11月4日に起こった。痴漢行為を注意した女性が逆恨みされ、2人の男に強姦されるという事件だった。事件の詳細を下記にまとめる。
午後9時頃、会社帰りのA子さんは、電車内で2人の男から痴漢行為に遭っている女性を見つけた。当時の資料には、「A子さんは被害女性のジッパーを上げて逃がし」たとある。犯人の顔を見たA子さんは以前自分に痴漢した男と同一人物であることに気付き、「前にも会ったでしょう」ととがめたが、逆に男たちは「この前(の痴漢行為の際に)一緒にいた女に会わせろ」と強要。その後、犯人たち2人はA子さんに付きまとって無理やりマンション建設現場へ連行し、バンドで殴る、ノコギリで脅すなどして強姦した。犯人の2人は20代と30代の無職男性。痴漢行為を通して知り合った「仲間」だった。
「性暴力を許さない女の会」がまとめた資料「女が視た『地下鉄御堂筋線事件』」(1990年1月20日発行)では、裁判を傍聴した感想が次のように書かれている。
犯人が犯行を認めたこともあり、裁判は長引かなかった。検察は懲役4年を求刑。「前途ある青年である」こと、「同情すべき成育歴がある」ことで情状酌量の余地があるとされ、3年6ヵ月の判決が下された(1989年2月23日)。
会のメンバーの一人は、今でも悔しくてたまらないというようにこうつぶやいた。
「前途ある青年って。被害者の女性の将来はどうしてくれるの?」
1980年代、性暴力は「小さな暴力」だった
事件を受けてすぐに「性暴力を許さない女の会」が発足。事件の翌月には、大阪市交通局や鉄道各社に要望書を提出している。要望は下記の3点。
(1)性暴力をなくすよう、車内広告やアナウンスなどで積極的なPR活動を行うこと
(2)性暴力を誘発するようなポスターなどを、駅構内や車内で掲示しないこと
(3)駅員(特に女性駅員)を増員し、女性が性暴力にあわないようにするとともに、被害があった場合は即座に対応すること
しかし、この要望に対しての回答や対応は非常に鈍いものだった。各社とも、すでに対策は行っている、性暴力を誘発するものは掲示していない、など通り一遍の内容。
回答書面の端々からは、現在とは異なる価値観が伺える。例えば、ある鉄道会社からの回答書面には、「現在、梅田駅において、小さな暴力、迷惑行為をなくすようスポットアナウンスでPR活動を行っている」とある。当時、電車内での性犯罪は「小さな暴力」と表現されることがあった。これは、地下鉄御堂筋事件をきっかけに、府警鉄道警察隊、交通局、各私鉄が発足させた対策委員会に「小暴力対策委」という名称がつけられていたことからもわかる。
このほか口頭での陳情に対しては、「僕も酒の席では女性の肩に手をかけることもある(から大したことではない)」「男性のお客様に不快感を与えるため掲示できない」「痴漢の対象になるので女性駅員は配置できない」、さらには「痴漢もお客様だから」といった説明もあったという。
タブーだった「痴漢」の文字
また、ある鉄道会社からの回答書面には、性暴力防止のポスター掲示について「性暴力追放を主眼に作成したものですが、性を前面に出したくない。又放送にしても同じことです。よろしくご賢察願います」とある。つまり、性暴力防止を訴えるポスターでありながら、「性暴力」や「痴漢」という文字、性犯罪が起こっていることを示すような記述はできないということだ。中吊り広告で「性が前面に出されること」はあっても、性犯罪防止の観点から「性が前面に出されること」については、当時はタブーだったのだ。
事件のあった翌年、1989年3月に大阪府警は「痴漢一掃のポスター」を制作している。これが下記だ。
念のため、ポスターに書かれている文字を書き起こすと下記の通り。
あなたの勇気 ありがとう
もし、めいわく行為の被害にあったら、ためらわずに大きな声を出してください。
あなた自身と まわりにいる みなさんの
勇気ある協力を……
すり・ひったくりにもご用心!
大阪府警察 関西鉄道協会
一体何のポスターだか、わかるだろうか。これが痴漢を注意した女性が強姦されるという事件を受けて作成されたポスターなのだ。
産経新聞はこのポスター掲示について次のように伝えている。
「いたずら」「乱暴」といった言葉が使われているが、現在では、性犯罪についてこういった曖昧な表現を使うことは、被害を矮小化するという理由から見直されつつある。
このポスターについて、「性暴力を許さない女の会」は「女が視た『地下鉄御堂筋線事件』」の中で「私たちは嘆願しているのではなく主張・要求しているのです」「(被害者に)注意を呼びかけるのではなく、(加害者に)痴漢行為を止めろと呼びかけるべき」と訴えている。
「痴漢は犯罪」ポスターは大きな転換点だった
「性暴力を許さない女の会」は、1989年4月14日に「Stop!ザ・レイプ」集会を開催。事件への反発を受けてか、400人のホールがいっぱいになったという。
しかし、駅や電車内に貼られるポスターについては「あなたの勇気 ありがとう」から大きな変化はなかった。その後も「性暴力を許さない女の会」は、年に4回の公開講座や電話での被害相談、被害実態を調べるアンケート(約2000人分を回収)など活動を続けた。
変化があったのは1994年。会のメンバーは「突然、鉄道警察隊から連絡があった」と振り返る。ポスター制作にあたって「意見を聞きたい」という理由だった。「迷惑行為」ではなく、「痴漢」という言葉をちゃんと使ってほしいということなどを伝えた。
鉄道警察隊が主導して同年5月頃から貼られることになったそのポスターには、「痴漢は犯罪です」という文字と手錠の写真があった。
「車内広告は鉄道会社の収入源でもあるから、それまでは鉄道会社もなかなか動いてくれなかった。でも警察が言い始めたから仕方なかったんでしょうね。『痴漢は犯罪です』というポスター、最初の頃はホームの片隅に、すごく短期間だけ貼られていました。でも私たちにしてみれば、『(被害者に対して)注意しましょう、声を上げましょう』っていうポスターから『痴漢は犯罪』とはっきり打ち出したという転換がすごく大きかった。感動的でした」(「性暴力を許さない女の会」メンバー)
それまでのポスターは、「ためらわずに大きな声を出してください」を被害者に呼びかけるものだった。性暴力が「小暴力」と表現される時代において、「痴漢は犯罪」というフレーズは強い意味があっただろう。
ちなみに、「性暴力を許さない女の会」のメンバーは、全員が匿名で活動している。それは活動を始めた当初、実名でこういった活動を行うことに風当たりが強かったからだという。
「私たちの活動の先輩に当たるグループ(東京)の女性は、勤めていた大手企業をクビになりました。そういう時代だったんです」(同)
「痴漢は病気」ポスターはアリ? ナシ?
「性暴力を許さない女の会」は発足からこれまで年に4回の公開講座を開いている。2016年2月23日。大阪・ドーンセンターで行われた講座では、「Stop痴漢バッジプロジェクト」を進める痴漢抑止活動センターの松永弥生さんがゲストとして登壇した。参加者はさまざまな年代の女性たち40人ほど。参考:痴漢被害に遭い続けた女子高生が考案した「痴漢抑止バッジ」が大人を動かした(2015年11月2日)
松永さんは、当時の風潮において「痴漢は犯罪」というポスターに意義があったことは踏まえた上で、こう発言した。
「性障害専門医療センターの方にお話を聞いたところ、『痴漢は犯罪です』というポスターを見ても、痴漢の常習者は『自分は優しく触っているから痴漢じゃない』と勝手な解釈をしてしまうことがある、ということでした」(松永さん)
これからのポスター、次のような案にも触れた。
「パチンコ店でトイレを借りたとき、『パチンコ・パチスロ依存は、誰にでも起こりうる問題です』と、依存状態になったら専門機関に相談しようという趣旨のポスターが貼ってあるのを見たことがあります。パチンコ店でそれができるのであれば、『痴漢は病気です。犯罪者になる前に病院へ行こう』というポスターを駅に貼ってもいいのではないかと思います」(同)
しかし、参加者の中からは「痴漢は病気ということにしてしまうと、免罪されてしまうということにもなりかねない。それが怖い」という声もあった。性犯罪の加害者に対する治療に関しては、「被害者のケアが充分ではない状況で、なぜ加害者治療が優先されるのか」という被害者からの声もある。性犯罪被害者は偏見や心ない中傷にさらされることも多く、こういった理由から相談や通報を行わない被害者も多いのが現状だ(性的事件の捜査機関への被害申告率は18.5%/犯罪白書平成24年・過去5年間の申告率)。
加害者治療は再犯防止、被害者を増やさないための一つの方法だが、まだ世間の理解が広がっているとは言えない。しかし、被害者への理解やケアが進み、さらには性犯罪・性暴力自体への関心が高まれば、いつかは「痴漢は病気です」「痴漢をしそうになったら専門機関に相談しましょう」というポスターも掲示されるかもしれない。
時代によって求められるキャッチコピーは変わる。「痴漢は犯罪」というポスターは、貼られ始めた当初は日常の中で「異物感」があり、目立つポスターだったのだろう。しかし現代では、見慣れた日常の一コマとなりつつある。現代において効果のあるポスターについて、議論が進むことを願いたい。
松永さんによれば、現在、痴漢抑止バッジの活動は鉄道会社や警察の一部から非常に好意的に受け止められているという。時代は少しずつ確実に変わっていく。