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廃仏毀釈の真実① 「廃仏毀釈」は滋賀から始まった 延暦寺が見舞われた「第二の焼き討ち」

鵜飼秀徳ジャーナリスト、正覚寺住職、(一社)良いお寺研究会代表理事
比叡山根本中堂(現在は改修中)。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 先日、「日本仏教の母山」と呼ばれる比叡山延暦寺を参拝した。延暦寺といえば、真っ先に織田信長の焼き討ち(1571年)を思い浮かべる人も少なくないだろう。今年は延暦寺焼き討ちから450年の節目に当たる年だ。延暦寺では「元亀の法難」と呼び、焼き討ちの当日9月12日には慰霊法要が営まれた。

 だが、その延暦寺が、そのおよそ300年後に2度目の焼き討ちに遭っていたことはあまり知られていない。2度目は比叡山の麓で法難があった。いわゆる仏教寺院に対する破壊行為、廃仏毀釈である。比叡山延暦寺は全国で最初に廃仏毀釈が行われた仏教施設なのだ。

 時は元号が明治に切り替わる直前のこと。1868(慶応4)年3月半ば、神仏分離令という法令が布告される。これは、それまで混淆していた神と仏を切り分けよ、という命令である。

 江戸時代までは、神社の中に仏教由来のものが祀られていたり、寺院の中にも神社が祀られていたりと、神仏がごちゃまぜになっていた。いわゆる神仏習合である。

 神と仏が混じり合っていることは、新政府サイドからすれば徳川幕府時代の旧態依然とした宗教形態であり、許しがたい習俗であった。新国家樹立にあたっては、天皇を中心とする祭政一致体制が求められる。そのためには、神と混じり合っていた仏教は「異物」に他ならず、それを明確に切り分ける(判然とする)必要があったのだ。

 神仏分離令は王政復古、祭政一致に基づいて、あくまでも、神と仏を区別するのが目的の法令だった。つまり、国家として破壊を命じたものではなかったことを言い添えておきたい。

 だが、神仏分離令を拡大解釈する者が現れた。時の為政者や神官、血気盛んな地域の若者らである。

 廃仏毀釈の最初の大きなアクションは、延暦寺が支配する比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市坂本)で起きた。

廃仏毀釈は坂本の日吉大社で始まった。
廃仏毀釈は坂本の日吉大社で始まった。写真:ogurisu/イメージマート

 日吉大社は全国に3800社以上の「日吉」「日枝」「山王」と名のつく神社の総本宮である。たとえば、首相官邸や国会からも近い赤坂・日枝神社なども、日吉大社の分霊社にあたる。

 日吉大社は平安京の表鬼門(北東)に位置することから、災難除けの神様として古くから崇拝されてきた。だが、伝教大師最澄によって比叡山延暦寺が開かれてからは、その勢力下に置かれることになる。日吉大社は延暦寺の守護神として、位置付けられた。

 いわば、仏を神が守るという上下関係ができあがり、日吉大社は延暦寺に支配されていく。そして、僧侶によって神官らは虐げられていたのだ。

 神仏分離令が出されるや4月1日、四十数人規模の武装した神官たちが、「神威隊」を名乗って、日吉大社に乱入した。

 神威隊を率いたのは、日吉大社社司で新政府の神祇事務局事務係の任についていた樹下(じゅげ)茂国と、同じく社司の生源寺(しょうげんじ)希徳であった。

 樹下らは延暦寺の三執行代(延暦寺を構成する東塔・西塔・横川の3エリアの代表者)にたいして、日吉大社神殿の鍵の引き渡しを要求した。執行代は、

「神仏分離の布告はまだ、天台座主より下達されていない。鍵の引き渡しは座主の許可がいる」

 として、樹下の要求を頑として拒否。僧侶と神官の間でしばしの間、押し問答が続いたという。

 埒があかないとみた神威隊は、本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放った。その数、124点に及んだ。鰐口や具足、華籠などの金属類48点は持ち去られた。焼き払われた仏像は本地仏のほかに阿弥陀如来、不動明王、弁財天、誕生仏など。経典の中には600巻になる大般若経や法華経、阿弥陀経などが含まれていた。

 暴徒の中には、社司から雇われた地元坂本の農人数十人が含まれていたとされている。当時、坂本の地は延暦寺が支配しており、小作人たちは年貢の重荷を背負わされていた。江戸幕府の庇護のもと、長年にわたって既得権を得てきた延暦寺にたいする地元民の反感は、神官同様に燻り続けていたと察することができよう。

これが後に全国に波及していく廃仏毀釈の最初であった。

 現在、日吉大社周辺を訪れれば、当時の爪痕をいくつか確認することができる。

 JR湖西線を出て、石の鳥居をくぐると、広い参道が境内へとまっすぐに延びている。その参道の脇には巨大な常夜灯が44基並んでいる。石には「○○権現」との文字が刻まれている。これらはかつて、延暦寺によって境内に立てられたものだが、廃仏毀釈の際に倒され、境内の外に放り出されたのだという。

境内の外に出された石灯籠
境内の外に出された石灯籠写真:ogurisu/イメージマート

 また、日吉大社周辺には江戸期のものと思われる地蔵を多数見つけることができたが、破壊されたものや、地面に埋まったものも少なくなかった。

 坂本で始まった廃仏毀釈の動きは、かの地だけで終息することはなかった。日吉大社の暴動は宗教クーデターの様相を呈し、瞬く間に全国に知れ渡ることになる。そして、波状的に各地に広がり、全国で廃仏毀釈運動が展開されていくのである。

 この日吉大社の暴動に強い衝撃を受けたのは他でもない、神仏分離政策を推し進めた当事者、明治新政府であった。

 長年、僧侶から虐げられてきた神官の逆襲に燃える気持ちは尋常ではなかった。それが大衆をも巻き込み、熱狂的な破壊活動まで発展したことは、新政府にとっては想定外であった。

 新政府は日吉大社の暴動からわずか9日後の4月10日、以下のような太政官布告を出し、神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。

 原文の掲載は省略するが、要約するとこうだ。

「昔から神官と僧侶は仲が悪く、氷と炭のような関係なのは理解できる。しかし、神仏分離令が出されるや、神官が急に権威を得たような振る舞いをして、私憤を晴らすような動きがある。これは、新しい国造りの大きな妨げになる。今後、仏像や仏具を取り除く際には、その都度、お上にお伺いを立てよ。決して粗暴な振る舞いは許されない」

 などとしている。

 この太政官布告からも、神仏分離政策が神官や市民の間で拡大解釈され、コントロール不能な状況になりつつあることが読み取れる。

 新政府としては、王政復古、祭政一致を保つためには神と仏の分離は推し進めなければならない。しかし、分離政策はあくまでも粛々と行いたかったのである。

 それでも、新政府は仏教の力を削ぐ必要性はあった。これまで日本は、ムラ社会の見えざるコミュニティの中で仏教を中心とした檀家制度を敷き、寺院は時に怪しげな儀式を通じて人々を惑わす存在にもなっていた。純粋な神道による強い国家づくりを推し進めるためには、悪習であった仏教を徹底的に弱体化せねばならなかった。

 各地の廃仏毀釈がどのように行われたか、に関しては本コラムで継続的に記述していきたい。参考図書として『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)を併読していただければ幸いである。

境内の片隅に転がる石仏。(著者撮影)
境内の片隅に転がる石仏。(著者撮影)

ジャーナリスト、正覚寺住職、(一社)良いお寺研究会代表理事

京都市生まれ。新聞・経済誌記者などを経て、2018年に独立。正覚寺(京都市右京区)第33世住職。ジャーナリスト兼僧侶の立場で「宗教と社会」をテーマに取材、執筆、講演などを続ける。近年は企業と協働し「寺院再生を通じた地方創生」にも携わっている。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』『仏教の大東亜戦争』(いずれも文春新書)、『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP研究所)など多数。最新刊に『絶滅する「墓」 日本の知られざる弔い』(NHK出版新書)。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事、大正大学招聘教授、東京農業大学・佛教大学非常勤講師など。

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