【宝槻泰伸×矢萩邦彦】対談1「これからの教育を考える」〜興味開発で想像力を育む探究型学習の可能性
今まさに変革期が訪れている教育業界。公教育もようやく「何を学ぶか」だけではなく「いかに学ぶか」に注目し、「アクティブ・ラーニング」や「探究型教育」という言葉も以前よりも頻繁に耳にするようになってきた。一方で、対応できるか不安だという保護者や教育関係者の声も多い。
そこで、この流れに先駆けて、いち早く異色の教育を実践してきた矢萩邦彦と宝槻泰伸が自らの思想や方法をシェアし、民間教育の可能性と今まさに現場で感じている変化について、経験を交えながら対談する。シリーズ第1回は対談の模様を動画でも配信する。記事の冒頭には1分間のダイジェスト映像、記事の終わりには30分のフルサイズ動画のリンクを貼り付けてあるので、是非ご覧いただきい。
https://www.youtube.com/embed/YfxpU1ydVMg(ダイジェスト動画)
矢萩:本日は「これからの教育を考える」というテーマで探究学舎学長の宝槻さんと、教育ジャーナリストをやりながら現場で講義をしている私、知窓学舎の矢萩が対談させて戴きたいと思います。どうぞ今日は、よろしくお願いします。
宝槻:まずは、今からの教育がどこを目指していかなければいけないのか、一種の目的・目標・ベクトルみたいなものを今日の対談の中で浮かび上がらせることができれば、いいかなと思っています。
●2020年の大学入試改革について
矢萩:早速その辺を突いていきたいと思います。宝槻さんはどんなキーワードであるとか方向性であるとかを実践されているんですか?
宝槻:まずこう目に入ってくるのって2020年の大学入試改革とか、あとやっぱりロボットAIがやがて出てきて、子どもたちが将来大人に成った時に、仕事を奪い合うかも知れない、あるいは65%くらいは現在ない仕事になるとかそういう未来感があって、そういう時代に子どもたちが「どうやってサバイバルしていけるか」っていうか、きちんとうまくやっていけるかみたいなことは我々も目にするわけですよね。それをふまえながら、自分たちの活動をどうしていこうかって考えると思うんですけれど、矢萩さんは2020年の大学入試改革をどう見ていらっしゃいますか?
矢萩:そうですね、ようやくまともな方向に行く可能性が出てきたなっていうのはあって、僕はAO入試が始まったときによくなるのかなって思っていたわけですよ。例えば昔、大学って言うものが欧州で始まった時の受験の方式はすごくAO的で、例えば受験のときに教授が決めるわけですよね。こいつは俺が面倒見るとか。そうすると師弟関係って言うのができるわけで、その師弟関係の中で、例えばうまく勉強が進まないとか、何か問題を起こしたという時に、誰が入れたんだって話になる。そうすると、師匠である教授が出てくるわけですよね。私が入れましたから私がキッチリ教育しますとか、責任をとります、と。科挙的な試験が普通になってしまって、何かやらかしたとき、あるいはうまく行かなくて、「誰の責任なの?」ってときに「テストでは合格してたんだよね」といって誰も責任をとらないような教育の場になってしまったというのは問題だと思っていて。
師弟関係とか人間関係、誰かから学ぶのか、というのと何を学ぶのかというのは同時に大事なことだと僕は思っています。なので、いわゆる今までの暗記であるとかいわゆる詰め込みで対応できるようなことで計るようなテストでは無くなることによって、もうちょっと昔のいい時代の大学と学生の関係を作れる可能性が出てくるな、と。
そうなった時にどういう風に大学とマッチングするのか、大学に選んで貰う、こっちも大学を選ぶ、その能力をどのように付けていったらいいんだろうっていうのは、例えば最近言われている「アクティブ・ラーニング」であるとか、そういった言葉の向こう側にあると思うんですよね。でもアクティブ・ラーニングって具体的にどうやったらいいのって言うのが、いまいち掴めていない人達が多い。我々も含めてまだ定義づけがハッキリしていない部分もあると思うんですけど、そこに向かっていくようなこと、なんでこれをやるのか、あるいはこれをやるとどうなるのかというビジョンを持った教育者がしっかり学生に向き合っていくことが今後大事だろうと。それを作っていくというのが僕の考えていることですね。
宝槻:僕自身も矢萩さんとだいぶ近いところに課題感を持っていまして、2020年の大学入試について、自分が何を思うのかというのを重ねていきたいと思います。
仰るようにペーパーテストではなくてAO入試的な傾向に益々行く、それによってマトモになって行くだろうっていうのは僕も同じように思いを持っていまして、というのはこれまでって自分が将来何を学びたいかとか、将来何をしたいかとかあまり考えなくても、大学に行けてしまう点数さえ取れればいけてしまう。だから別に医者っていうものを本当に熱く志していない高校生でも、点が取れれば医学部に行けて医者になれてしまうっていう。これってどうなのって思うわけですよね。確かに公平な競争がそこで担保できる部分はあるけれども、本当にその高校生や中学生が、点取り競争に興味を持つのではなく、純粋に自分の将来に思いを馳せて、いろんな自問自答を繰り返しながら、「俺はこうかな?」「私はこうかな?」って進路を創造していく、そういうプロセスって今まで薄かったと思うんですよね。
矢萩:僕は「無自覚思考停止状態」って呼んでいるんですけれど、「なんで勉強するのか?」っていう答えをあまりみんな持っていないんですよね。例えば、人数教えていると毎年居るんですよ。「僕勉強したくない」と。じゃあ、なんで今まで勉強してきたの? って聞くと、親とか先生とかにいわれてきたって言うんですね。「いい学校に入れば、良い会社に就職できて、良い会社に就職できればお金にも困らないし偉くなれるよ」みたいに。それについてどう思うの? って聞くと、「俺あんまり偉くなりたくないし、お金もそこそこでいい。だから受験辞めていいですか?」みたいな。そう言われちゃった時に困るんですよみんな。なに困ってんだよ! って感じじゃないですか。
宝槻:これまでの動機づけの仕方ではそれ以上踏み込めないからでしょう。そういう子には。
矢萩:そうそう。みんなもやっと勉強していると偉くなってお金に困らないみたいな変な幻想、そこにはロジックが特にない。「そういうもんだ」みたいな感じで推し進めちゃっている。それでいけた時代っていうのはあったんだと思うんですけど、今は確実にそうではないわけで。
宝槻:あった。昭和にはあった。子どもたちも見抜いてますからね。東大行ったところでほにゃららほにゃららみたいな。匂いは充分感じ取っているから。
矢萩:それをまずどこから崩して行かなければいけないのかなって。僕が一番問題意識として持っているのは、それに気づいている生徒たちが居て、でも両親はそれを分かってくれない。さらに学校でも分かってくれない。っていう子達にどうやってアプローチできるのかっていうと、「サードプレイス」としての塾っていうものがあって、君の才能はたぶんこうだし、君のいっていることも分かった。じゃあ、一緒にお父さんとお母さんに話をしよう、みたいなことだったりとかね。
僕は自分自身が中学受験をして私立の学校に行ったんですけれども、自分の夢っていうのがあったのにも関わらず、どうしても「そんなことやって何になるんだ!?」みたいな外圧があって、結局高校出るまで好きなことはできなかった。それに対して、それをどう糧にしていくのか自分次第だと思いますけれど、自分がやりたくてもやれなかったことの辛さを抱えてきているので、なるべくそうでないような、子どもたちの才能・興味を引っ張り出すというか、その背中を押してあげるみたいなこと、塾に今求められていることって、そういうことなのかなって思うんですよね。
宝槻:今まではね、ペーパーテストに向けたいわゆる学力を積み上げていく、成績上げる志望校に合格させるというのが大黒柱になってて、その子の興味とか可能性を広げてあげるっていう役はあんまり塾って担ってこなかったですよね。そこにニーズがないと塾経営者の方が決めつけていた気もするんですけど。
子どももさることながら最近、ペーパーテストをやらせていい学校いい企業とかっていう志向じゃない保護者がスゴイいるなって肌感覚で感じていて、そういう人達って、仕事って自分が好きなこと、愛せることをやるべきだ、と。そのためには、勉強っていうのが大好きだし愛せるようになってる方がいいよね、と自然に思っていて、要は子どもに自分の人生を自分で決めて欲しいと思っているし、自分の好きなことを見つけてチャレンジして欲しいって思っているんですよ。
でも具体的に何をしたら良いかって言った時に、学校も塾も、資本主義に偏っていくと、能力開発系になりますよね。英語ができますとか計算が速くなりますとかプレゼンスキルが身につきますみたいな。でも、好きなこと見つけてチャレンジするっていう子どもの将来に寄り添おうとしたら、能力だけじゃ無理で、その能力を何に使いたいかっていう、自分がやりたいことを見つけるってプロセスが必要で、僕はそれを「興味開発」って呼んでいます。つまり自分が何を知りたいのか、何をやってみたいのかっていう興味の的を一緒に考えてあげる。今まででいうと進路創造みたいな感じですね。そういう役割・機能をこれからの教育って持つ必要があると思ってるんですけど、どうですか?
矢萩:自分が何者なのかをまず知ることが大事。「何がやりたいの?」「分かりません」っていう子が多いんですよね。あってすぐに変わってしまったり、偏ったてたりだとか。自分が本当にやりたいことを見つけるためには、それなりの教養というか知識・経験とかいろんなものが必要だと思うんですね。僕が教育の中での問題を感じる1つが、進路指導をやっている学校の先生が、教師以外の職業をほとんど経験していないという部分なんですよね。
宝槻:その進路指導っていうのが「君の偏差値だとこの大学だよ」っていう紋切り型の指導になっちゃってて、進路創造できてないんですよ。その子の可能性その子の興味、あるいは得意や不得意をふまえた上で君にはこんな可能性があるんじゃないか、とか。そっちが本来だと思うんですよね。そういう進路創造をやれないと、子どもが大学に受かれないという入試になろうとしていることが、我々からすると凄いウェルカムみたいな所ですよね。
●想像力の種をまく「興味開発」
宝槻:具体的に、どうやって子どもの興味を広げたり進路を創造したり関わっていけるかについて、矢萩さんはどうですか?
矢萩:僕はまず何を学んでもらいたいかというと、「自分を知る」ということと、「他者を理解する」ということ。話を聞いて、理解して、共感して、「仲間を増やしていく」ということ。その力が今後すごく大事になって行くだろうと思っているんですね。そういうコミュニケーション力の源泉にあるのは「想像力」だと僕は考えている。例えば進路の問題もそうだし、「なんで勉強しなければいけないのか?」への回答もそうなんですけれど、想像力を働かせれば無限にあるわけじゃないですか。でも働かない状態になってしまっているのはすごく問題だな、と。
じゃあ、想像するためには何が必要なのか。僕は「想像子」って呼んでいるんですけれど、想像するためには想像の素となるような経験だとか知識だとか影響があるべきである。だったら教科書だけでなく、みんなが知っていること以外に、たくさんの「種」を投げてみて、この子だったらこういう種がヒットするんじゃないか、あるいはこういう種見たことないだろうな、っていうようなものを関わる大人が目の前の子どもの特性を付き合う中で理解して、カスタムして種を投げていくこと。その種の中に興味があるものがあれば、そこを探究していくことのサポートをしてあげるとか。そうすることによって想像子が増えていく。想像子を増やしていくことこそ教養であると僕は考えているんですね。
宝槻:なるほど、で教養が自分を知るということの助けになる。枠の中で想像を膨らませている子の枠を広げてあげたいってことですよね。そのためには外側から子どものお椀に放り込んであげて、それが種っていう表現だったり想像子っていう表現だったりするわけですね。
矢萩:やっぱり狭い世界だと思うんですよ。自分自身の経験でも狭かったなあって。一冊の本との出会いがすごく大きかったんですね。学校が嫌で行かなかった時期とかもあって、その時にふと出会った本でぱっと何かが開いたりだとか、そういうことをたくさん経験して、それってすごく運命的なもので、自分独りで開いていけるかっていうと、外からの影響の方が多かったと思うんですね。だから、もっと手数を打ってあげて、サポートすることが必要というか、やりたいことですね。宝槻さんはどうですか?
宝槻:僕も全くアグリーで、僕は「驚きと感動の種まき」っていう表現をするんですけど、子どもって畑だと、畑に合う種が植わってそれがやがて大木になってくれたらいいなって親は思っているわけですよ。それがサッカー選手の種なのか科学者の種なのかビジネスマンなのか、あるいは職人なのかわからないけれど、何かこの畑には可能性があるだろうと。
その畑にとって重要なのは驚きと感動なんですよね。科学ってヤベーな、とかガリレオってスゲーなとか。本田選手のプレーには凄まじさがあって、いつか私もああなりたいとか、あのピアノの演奏は、とか、そうやってこの世界の驚きや感動を感じながら、子どもはもっとやりたいとか知りたいってことを見つけていけると思っていて、基本的にはワクワクするような学びの体験というのを種としてひたすら蒔きまくる、っていうのが自分のやっていることなんですけれど、この種の話って、やりたいなって思っているって多いと思うんですよ。
矢萩:そうですね。
宝槻:いろんなことを教えてあげたいし、いろんな驚きとかね、子どもに感じさせてあげたいし。これ教育者だったら、わりと「だよね」ってなるはずなんですけど、学校だと「カリキュラム」や「教科書」を教えろって言われてるわけで、それをなかなか放り込めない。制約がある。一方で塾とか民間の教室っていうのは、別に指導要領も教科書もないので、自由にやっていい。ただ、我々が今言っているようなことって今までの教室ってやってこれなかったですよね。なぜかっていうと、要するにそれで稼ぐのはとても難しかった。
で、僕が矢萩さんをスゴイなっていうか、凄まじいなって思うのは、僕の言葉で言うと「種まき」、矢萩さんの言葉にすると「想像子」っていうものを、受験勉強と組み合わせて提供してるっていうのは、意味不明すぎるなって思ってて…… どんな風にやってるんですか?
矢萩:うーん、やっぱり「ワクワク」ってキーワードはすごく大事で、学校がつまんないとか塾がつまんない子って、すごくいっぱいいるわけじゃないですか。それはすごく残念なことで、なんでつまんないのかっていうと、絶対に教えてる方が面白くないと思ってることを教えてるんですよ。それってないなあと思うんですよね。
僕は松岡正剛っていう編集者の弟子なんですけれど、彼はものすごい本を読むわけですよ。もう何十万という単位で。人智を超えた本を読む人なんですけれど、そこに僕は一つのヒントがあるなと。要は教科書にあるものって、ある種インデックスなんですよ。骨組みしかないから、余白ばっかりで面白いわけないんですよね。でも、その中に実はこの言葉ってこうなんだよとか、実はこの人って教科書にはこれしか書いてないけどもこんな人生歩んだんだよ、っていうことがすごくたくさんあるじゃないですか。
宝槻:教科書は、すごい抽象化されて、具体を削り取られた目次一覧だと。
矢萩:そう、教科書は目次一覧。
宝槻:そうですよね。坂本龍馬の話っていったって、まあ二、三ページしか、書いてない。けど、実際には小説があり、映画があり、何十時間、何百時間分の坂本龍馬っていうドラマがありますもんね。これを、もし、松岡正剛のようにたくさん知りえていたら、っていうことだ。
矢萩:そう。だって目次読んだって面白くないに決まってるじゃないですか。そんなの。じゃあその目次の中で、ここに書いていない何の話をしようかって、いかにその教室の今の場に合わせて引っ張ってこれるのかがすごく大事。僕は受験勉強や教科書で扱われるカリキュラムっていうのを目次として利用してるだけで、多分やってることはそんなに変わらないんですよね。
宝槻:僕は教科書っていう目次も使わない。まあ同じだとは思うんですが、僕もやっぱり具体を追いかけていて、スティーブ・ジョブズはどう生きた、とかね。宇宙の謎はどう解かれたとか、生命はどう進化したかとか。元素ってどうやって発見されてきたかとか。マニアックなことを具体的に追いかけていく。ほんで、面白いドラマやストーリーっていうのを見つけてきて、それを子どもたちにシェアするっていう。「どう、コレ。ヤバくない?」みたいな。要するに映画見たときに、興奮して友達に語りかけるような、あんな感覚で自分は授業している。
矢萩:やっぱり同じなんですよね。僕は教科書を使っているっていうのが違うだけで。
宝槻:まあでも、そこは受験っていうシステムがあるから、きちんと突破するために必要なものを身につけさせてあげなきゃいけない。
矢萩:まあそうですね。
●これからの民間教育の役割の変化と可能性
宝槻:あんまり受験に関係ないことをやりすぎると、受験から離れちゃう。僕の場合は受験とか学校の教科を一切無視してる。純粋に「興味開発」ですよ、子どもの好きを全面に広げる教室ですよっていうのを、旗としてバーンと立てちゃったんですよ。バーンって立てると、逆に振り切った人たちが来る。
矢萩:そうですよね。僕はそっちの方が凄まじいなと最初は思ってました。
宝槻:まあ、そうね、受験とか成績とかってファンクションを塾から切り捨てるって勇気いりますもんね。
矢萩:いりますねえ。
宝槻:でも僕の場合はそういう勝負の仕方をしましたね。っていうのも、僕が受験と種まきっていうのを両立させようとすると中途半端になるんですよ。矢萩さんみたいにやり切れないから。僕みたいな、ちょっと不器用な人間は、AかBか、こっち! っていう。
矢萩:たまたま僕が最初に塾業界に飛び込んだときに、受験指導という枠の中で場を与えられたわけです。その中でいかに探究的にできるのかっていう試行錯誤をずっとやってきて、受験業界での経験が今22年目なんですけれども、それがあったからこういう方向性でも受験指導はできるって言える。たぶん、僕が今教育業界に参入しようってことになったら、やっぱ宝槻さんみたいな旗の立て方をしたのかもしれないですね。
宝槻:そうかもしれないですね。僕だって今から22年間受験指導を経験しようとは全く思わないですもんね。うん、そういうことかもしれないですね。出自っていうか、同じような山の頂きを目指して、教育道を登ってきてるんですけど、入り口が矢萩さんと僕とで違うから、アプローチも若干異なってくる。でも今お話ししながら見えてきたことって、やっぱりその、僕らの場合だったら「種」っていう言葉は共通ワードで、とにかく色んな「種」を子どもにまいてあげる。いろんなアプローチが必要で、そうして子どもの想像力とか興味とかを育ててあげる。それを我々は民間の教室として、まさにやり始めているし、かつそれを具体的なニーズとして欲して賛同してくれる保護者、つまり市場が、ちょっとずつ出来上がってきてるじゃないですか。今後の5年、10年を展望したときに、例えば学校にね、こういう授業があったほうがいいみたいな意見とかってよく聞くわけですよ。で、僕は自分の言葉でいうと「興味開発」「種をまく」みたいなことって、学校でやらなくてもいいっていう論者なのね。学校があれもこれも担いすぎている。例えば最近だと、しつけだってね、学校任せみたいになってきちゃってるでしょ。そんなね、先生が、学校が、あれもこれもはできないですよ。
矢萩:そうですね。
宝槻:だから学校ができることとできないことは必ずある。特にその、近代の明治維新ね、近代化のプロセスの中でできあがった例、いわば工場みたいなもんじゃないですか。工房ではないんですよ、設計図が。だから学校にはそれに合わせたことを期待する。そしてそれに期待できないことを民間とか、家庭とか、または地域とかが担っていって、補完関係を作っていくってことに真剣に向き合っていくべきなのかな、と。僕自身は僕や矢萩さんがやっていることっていうのは学校にインストールする必要はなくて、むしろ民間のほかの塾や教室がパクってくれ、と。
矢萩:まさにそうですね。
宝槻:まあ一種仲間になっていこうよ、と。それで民間の人たちで「種まき」とか「興味開発」とか、あるいは「想像子」を増やしていくっていう。いま話し合ったようなキーワードの教室を構えていって。そうすると、学校では読み書きそろばんを習うし、集団行動をやると。学芸会はうちではやらないですよ。運動会も。そういうのは学校でやる。でも、坂本龍馬の話とか、あるいはガリレオの話とか、それこそその今日の中東がどうなっているかとか、そういうことは民間のごっつい先生がいろいろ手ほどきしてくれる。そこを行き来しながら、色んな必要な教育を受けていったらいいんじゃないかなと。そういうのが僕はまずベースにあるって思ってるんですけど。どうですか。
矢萩:いや、まったく僕もそうですね。その「サードプレイス」的な考え方が、特に都市部ではすごく重要だと思うんですよね。例えば昔だったら、長屋のおっさんがいて、いつもそこに座って、子どもたちやみんなのことをずっと見てて、何かあったら声をかけてきたりっていう。そういう地域の大人との関わりっていうのがそこそこあるのが当たり前っていう時代があった後に、近代化によってそれを失ってきたわけですよね。今だったら、声かけたらどうなるかっていうと、通報されてしまうわけですよ。だから子どもにコミットできる、生徒にコミットできるって、家族が学校の先生かもう塾の先生くらいになってしまってる。そしたら塾の先生の役割って非常にわかりやすくって、学校でもなく、家族でもなく、その足りない部分をどういう風に補っていくのか。かなり、塾のあり方っていうか、有り様っていうのが多様になってきてるなって思うんですよね。それは勉強だけではないはずで。
宝槻:勉強っていったら学校のサブだもん。
矢萩:そうなんですよ。結局、補習塾なの? 進学塾なの? 予備校なの? みたいな。
宝槻:どっちにしても学校の強化系か、補完系か、支え系かってことでしょ。補習塾だったら、学校でできないのを支える。進学塾だったら、学校で飽きてる子を。いずれにしても学校的なんですよね。
矢萩:そうなんですよね。それはすごくもう狭すぎると。違う大人とちゃんと触れ合って、対話をしてっていう部分で、なんていうのかな、教科書的なものとは全然違う部分っていうのが、これからの場としての塾にとって大事だなあ、というのがありますよね。
宝槻:あると思いますね。
矢萩:今日はここまでということにしましょうか。どうもありがとうございました。
第2回に続く
宝槻泰伸(ほうつきやすのぶ)高校退学~大検取得~京都大学という特異な経歴を持つ。東京都三鷹にて学習塾「探究学舎」を運営。著書に『強烈なオヤジが高校にも塾にも通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話』『勉強嫌いほどハマる勉強法』がある。
矢萩邦彦(やはぎくにひこ)学生時代より大手塾の教室長を務め、受験指導に探究を取り入れる異色のスタイルで多くの合格に関わる。教育以外に専門性を持つ大人が教育現場に立つことを推奨し、自らもジャーナリストやクリエイティブディレクターをはじめ多様な仕事を兼任する。
https://www.youtube.com/embed/XwsbnX4ASCg(フルサイズ動画)
対談:矢萩邦彦(知窓学舎・教養の未来研究所)・宝槻泰伸(探究学舎)
記事・動画制作協力:Yahoo!ニュース個人編集部
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