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ラストプレーで奇跡は起きた。伝説の早明戦――1990年12月2日

川端康生フリーライター
写真:日刊スポーツ/アフロ

<極私的スポーツダイアリー>

1990年12月2日、ラストプレーで奇跡は起きた

 すでにインジュリータイムだった。

 スコアは18対24。直前に早稲田がトライを決めて、6点差(1トライ1ゴール差)にまで追いすがった。だが、もう時間はない。最後の意地をみせた、そんなシチュエーションだった。

 明治の吉田義人がトライ後のキックオフを蹴る。これがラストプレー。ゲームが途切れれば試合は終わる。勝利へのキックのはずだった。

 しかし、「最後」の後に、「最後の最後」のドラマが待っていた。

 クリーンキャッチした早稲田がきっちりとモールを組む。堀越正巳がパスアウト。覚悟と確信のアタックが左オープンに展開される。

 守屋泰宏、一人飛ばして吉雄潤。そして、そのすぐ横に今泉清。

 飛ばして横。守備ラインを突破した大型FBがそのままダイナミックに駆け上がっていく。

 もちろん飛ばされてずらされた明治も足を止めるはずがない。二人襲い掛かった。しかしパワーと加速が上回った。

 そのままインゴールへ。トライ。それもラストプレーでのノーホイッスルトライ。

 これで22対24。

 臙脂のスタンドが狂喜乱舞する中、コンバージョンを狙う守屋がボールをセットする。決めれば同点。

 だが、やさしい位置ではない。今泉がトライラインをまたぐ刹那、追走してきた永友洋司が背中から絡みついて死守した難しい角度だった。

 両フィフティーンの意地と執念の激突。その末に、このぎりぎりの微妙なキックが残されたのだ。

 そして――守屋が右足を振り抜き、楕円球がHバーに向かっていく。2本のフラッグが上がる。そのまま長いホイッスル。

 ノーサイド。24対24。

 その瞬間、引き分けなのに、しばし勝者と敗者は分かれた。

 残り2分からの2トライで追いついた側と、追いつかれた側。円陣を組みながら飛び跳ねる早稲田と、膝に手を置き、うつむく明治。まるで悪い夢でも見たかのように天を仰ぐ紫紺のジャージもあった。

 やがてエールが交わされる。

 幕切れの直後には、やはり歓喜と悪夢に分かれていたスタンドからも、万雷の拍手が30人の男たちに等しく降り注いだ。

 いまから30年前の1990年12月2日、国立競技場。

 超満員のスタンドが、ものすごいゲームに酔いしれ、奇跡のような結末に心震わせた冬晴れの午後だった。

あの頃

「ちびまる子ちゃん」が日本中を席巻していた頃である。

 この年、テレビアニメ化されると、その人気は“現象”にまで急騰。ブラウン管(テレビのことです、念のため)だけでなく、街角のスピーカーからも主題歌「おどるポンポコリン」(B.B.クィーンズ)が<ピーチャラピーヒャラ♪パッパパラパ>と、いつも流れていた。

 音楽業界では「いか天(三宅裕司のいかすバンド天国)」出身バンドが続々メジャーデビュー。「たま」の「さよなら人類」が大ヒットしたのもこの1990年だった。

 日本経済は絶頂期を過ぎ、バブル崩壊へと坂道を転がり始めていた。しかし、多くの国民はまだそのことに気づいていない。

 そんな中、金融界では三井銀行と太陽神戸銀行が合併して「太陽神戸三井銀行」に、協和銀行と埼玉銀行が「協和埼玉銀行」になるなど、再編の動きが活発化し始めたときでもあった(突然ですがクイズです。この後、太陽神戸三井は「さくら」に、協和埼玉は「あさひ」になりますが、さて現在の行名は?)

 スポーツ界ではF1がブームだった。

 早明戦の約1ヶ月前に行われた日本グランプリではスタート直後にセナとプロストが接触。ベルガー、マンセルと上位が次々とリタイアしていく中、鈴木亜久里が日本人初の表彰台(3位)に立った。

 そしてプロ野球では、セリーグでは巨人が、パリーグでは西武が独走して優勝した。

 もっとも日本シリーズは(30年後の今年と同じように)パリーグが4連勝。スコアも(やっぱり今年と同じように)大差のゲームの連続で巨人は完敗だった。

 そのプロ野球では、前年「阪急」から「オリックス」に代わった「バファローズ」がチーム名を「ブルーウェーブ」に、本拠地を「神戸」に変更することが発表された(こらちも、その後「近鉄」と合併して、現在は「オリックス・バファローズ」)。

 世界では冷戦が終わり、日本では戦後一貫して続いた右肩上がりの経済発展が終わったこの頃は、大きな変革があらゆるジャンルで連鎖的に起き始めた時代だったのだ。

 元号も昭和から平成に変わって2年目、それがこの1990年だった。

ラグビー黄金時代

 ラグビーは黄金時代の中にいた。

 トライはまだ4点で、フロントローの選手がボールキャリアになることはめったになく、負傷以外の選手の入れ替えもできない時代だったが、それでもとにかくラグビー人気は天井高にあった。

 まだ「Jリーグ」は存在していない(この1990年、ブラジルからカズが日本に帰ってきた)。

 だから国内にファンスポーツはプロ野球だけ。日本シリーズが終われば、その後は“ウィンタースポーツ”(という言い方が当時は一般的だった)のシーズンとなり、そんな冬のスポーツの“王様”がラグビーだった。

 以前にも書いたが、国立競技場の観客動員記録上位には(東京五輪の開閉会式を除き)ずらりとラグビーが並ぶ(こちらに上位ランキング)。

 ちなみに最多観客試合は、1982年12月5日の早稲田対明治(関東大学対抗戦)の6万6999人。

 オールドファンのために記せば、これは早稲田に本城和彦(や吉野俊郎ら)がいた時期。いかつい男たちばかりではなく、黄色い歓声もスタンドに響いていたあの頃だ。

 次いで、1985年1月15日の日本選手権決勝・新日鉄釜石対同志社大の6万4636人。

 こちらは釜石が7連覇を達成した試合であり、松尾雄治の引退試合でもあった。そればかりか同志社には平尾誠二(や大八木淳史ら)もいた。

 とにかくラグビーには(プロスポーツでないにもかかわらず)国立競技場を満員にする力があり、強豪チームの中心選手は(学生や会社員であったとしても)紛れもなくスターであり、時にアイドルでさえあった時代だった。

伝統の早明戦

 そんなラグビー黄金時代の中でも、もっともスポットライトを浴びたのが早明戦、と書いても異論は出ないだろう。

 なんせ両校の学生でもチケットが取れない。当日券売り場には1週間前から徹夜組が出るプラチナカードだった。

 そんな人気がいつから始まったのかは不明だが、子供の頃の日記をめくり返して見ても、毎年12月の第1日曜はこのゲームのことが書かれているから、すでに1970年代後半には九州在住の少年を虜にするほどの人気だったことになる(この日は福岡国際マラソンもあって、スポーツ好きの僕にとって忙しい日曜日だった)。

 ちなみに両校の対抗戦は1923年まで遡ることができる、まさしく伝統の一戦。日本スポーツ界の“クラシコ”の一つと表しても誇張ではないだろう。

 近年頻出する興行的意味合いの強いキャッチフレーズとは一線を画す年輪がそこにはある(今年も12月6日に開催!)。

 もちろん、この1990年も注目度は高かった。「特に高かった」と言ってもいいかもしれない。

 両校の主将、早稲田の堀越と明治の吉田の存在感が強かったからだ。

 ともに高校時代から花園で活躍。大学進学後は1年からスターターに名を連ね、その1年時には、これもいまなお語り継がれる「雪の早明戦」にも出場した(吉田はトライも挙げた。そして決勝点となるPGを決めたのが今泉!)。

 その知名度は、ラグビーの枠を超えて、国民的と言ってもいいほど高かったのだ。

「あの二人が最上級生となり、早稲田と明治のキャプテンとして激突するからには……」

 そんな期待と予感がこのシーズンの早明戦にはあった。

 そして、やっぱり好勝負になった。

 それも残り2分から2トライ。ラストプレーで、ノーホイッスルトライで、引き分けて、両校優勝。

 黄金時代の、そのど真ん中の早明戦で、そんな奇跡のようなゲームが展開されたのだ。

 だから、この早明戦は伝説になった。

伝説は終わらない

 もっとも、グランドで戦っていた選手たちには「伝説」では片づけられないリアリティがあった。

 後年、話を聞いたとき堀越は「あの試合は(途中で)『勝てないな』と思った」と言っていた。

 確かに、試合自体は完全に明治のゲームだった。

 FWで優位に立ち、バックローが早稲田を粉砕し、永友が堀越を自由にさせなかった。そんな内容通りに2トライ差をつけて、後半の後半まではきっちり勝っていたのだ。

 その意味で、最後の最後に起きたドラマは、早稲田にとってはまさにミラクル。奇跡のようなノーサイドだったと言える。

 しかし、明治にしてみればそうはいかない。

「負けました」

 試合後吉田は、引き分けなのに、そう口にした。

 それだけではない。奇跡は「起こされた」のではなく、「起こさせてしまった」とさえ感じていた。

 だから、こうも言った。

「僕のせいで負けました」

 ラグビーが“誰かのせいで勝ったり負けたりする競技ではない”ことを十分すぎるほど知っているのに、それでも本気でそう思っていたのだ。

 あの晩、吉田は泣きじゃくっていたらしい。

「申し訳なくて、申し訳なくて……。そしたら同期全員が『おまえだけが悪いんじゃない。みんなでもう一度やろう』と……」

 そう、まだ終わらなかったのだ。

 約1ヶ月後、同じ国立競技場で、やっぱり超満員の観客の前で、最後の最後の続きが……。

 そして、両雄の戦いは、30年後のいまも語り継がれるほどの伝説になるのである。

(伝説の続きは→「明治、魂の雪辱――199年1月6日」

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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