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日本ラグビー、W杯初勝利――1991年10月14日

川端康生フリーライター
(写真:山田真市/アフロ)

<極私的スポーツダイアリー>

1991年10月14日、ジャパン、9トライ!

 圧勝だった。

 細川隆弘のPGで始まった試合は、18分に堀越正巳がスクラムサイドをもぐり、30分に吉田義人が左タッチラインを快走。ジャパンのゲームとなった。

 吉田のトライは、ダイレクトフッキングからナンバー8・ラトゥと堀越との「ハチキュウ(8-9)」から。

 トイメン(対面する相手)をずらしながらボールを受けて右手でハンドオフという得意の形だった。

 いつも悔しい思いをしてきたPGを細川が安定したキックで蹴り込み、世界との対戦で苦戦を強いられてきたラインアウトも確実にマイボールにした。

 16対4でハーフタイムを迎えた時点で、日本の優位は動かないものとなっていた。

 後半は完全に圧倒した。

 FWがモールを押し込み、バックスがスピーディに展開。そのスピードと運動量にジンバブエはついてこられなくなった。

 50分から増保輝則、吉田、朽木英次、エケロマ、松尾勝博が次々とトライ。欧州がキック&アンダーで力勝負をくりひろげていた時代、ジャパンが披露するランニングラグビーにスタンドも沸いた。

 そしてノーサイド。日本52対ジンバブエ8。

 吉田、朽木、増保が2本ずつ、堀越、松尾、エケロマが1本ずつ、計9トライを奪ったジャパンの大勝だった。

 9トライも52得点も、この大会の最多記録。日本ラグビーにとってもテストマッチでの最多得点記録となった。

 宿澤広朗監督は「日本の戦い方はこれだと思う。パワーが足りないからといって強い選手を集めるのではなく、この戦い方にパワーを加えていくべき」と胸を張った。

 キャプテンの平尾誠二も「この1勝は、僕にとっても、日本ラグビーにとっても大きな勝利。やればできる。このまま力をつけていけば(世界の強豪にも)手が届く自信になった」と充実感を語った。

 1991年10月14日、北アイルランドのベルファスト。

 出場2大会目、通算6試合目にして、ジャパンはワールドカップ初勝利を手にした。

あの頃

 ラグビーのワールドカップが始まったのは1987年のことである。ニュージーランド・オーストラリアの共催で第1回大会が開催された。

 もっともこのときの大会はIRB(世界ラグビーの統括団体・当時)ではなく、開催両国のラグビー協会の主催。予選も行わず、“招待”された16ヶ国による大会だった。

 背景にはテストマッチや対抗戦を重視し、アマチュアリズムを堅持してきたラグビーの伝統と哲学がある。

 トーナメントで順位を決める「ワールドカップ」というイベント的大会は、そんなラグビーの文化にそぐわなかったのだ(実際、ワールドカップ開催の是非を問う投票でスコットランドとアイルランドは反対票を投じている)。

 その意味では、この時点での「ワールドカップ」は、たとえば「サッカーのワールドカップ」とは位置付けも価値もかなり違っていた。テストマッチやファイブ・ネイションズ(5カ国対抗・当時)に重きを置くべきという考えも、この頃にはまだ少なからずあった。

 結果的には、第1回大会の成功で、次回からはIRBが主催。大会規模も拡大し、経済的な成功が、その後の世界ラグビーに大きな変化をもたらすことになる。

 そう考えれば、「ワールドカップの創設」はラグビー史における大きな“事件”だったと言える。

 そんなラグビーの転換期は、世界の混乱期でもあった。

 ソ連でゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を推進。ブッシュ大統領とのマルタ会談で冷戦が終結し、ドイツではベルリンの壁が壊れ、東欧では民主化運動の嵐が巻き起こった。

 そんな激変するパワーバランスの余波をもっとも悲惨な形で受けたのが、かつて欧米諸国に植民地として分割された歴史を持つアフリカ諸国だっただろう(定規で引いたかのようなアフリカの国境線はヨーロッパ列強たちの所業の跡である)。

 世界が混乱したこの時期、アフリカの多くの国では民族対立や内戦が勃発。悲劇的な殺戮も数多く起きた。

 ちなみにワールドカップの第1回と第2回には南アフリカは参加していない。当時から「世界最強」の呼び声は高かったが、アパルトヘイト(人種隔離政策)により国際社会から締め出されていたからだ。

 アパルトヘイト撤廃直後の1995年、南アフリカは第3回ワールドカップの開催国となり、スプリングボクスがチャンピオンに輝くことになる。

 そういえば日本との試合前、ジンバブエ国歌として奏でられたのは「神よ、アフリカに祝福を」だった。アフリカ解放運動を象徴するアンセムである。アパルトヘイト時代の南アフリカでは歌うことを禁じられていた歌だ、

 ジンバブエが新国歌「ジンバブエの大地に祝福を」を制定するのは、日本戦の3年後のことである。

 ラグビーも世界も、歴史の転換期。ワールドカップはそんな時代に始まった。

誇りと清々しさと

 そのワールドカップに日本は第1回から出場(現在まで全大会に出場)。

 第1回大会ではアメリカ、イングランド、オーストラリアと対戦。大会前「アメリカには勝てる」と楽観視されていた初戦は、トライ数では3対3だったが、ゴールキックをことごとく決めることができず、PGも成功したのは7本中2本のみ。これが響いて18対21で負けた。

 イングランド戦は7対60と完敗。オーストラリア戦では朽木が2トライを挙げたのをはじめ、終盤まで接戦を演じたが、最後に突き放され23対42。結局、3戦全敗で終えることになった。

 第2回大会も、初戦のスコットランド、続くアイルランド戦と連敗。つまり、ここまでワールドカップで5戦5敗。そんな状況でつかんだ初勝利がジンバブエ戦だった。

 もちろん相手が日本同様アウトサイダーだったことは差し引かなければならない。それでもこの試合でジャパンがみせたラグビーは、攻撃的でスキルフルで魅力的なものだった。

 そして、それは敗れたスコットランド戦、アイルランド戦でも同様だった。ラグビー宗主国の巨漢を相手に、小柄な日本選手たちがアジリティとフィットネスを生かして攻撃を仕掛ける姿は、日本のファンはもちろん、世界のラグビーファンたちにも好感を持って受け入れられていたのだ。

 それどころか吉田の60メートル独走(トライをしたのは梶原宏之)や、サポートの連続から奪った林敏之のトライなど、胸のすくようなシーンも数多くあった。

 さらにワールドカップの外に記憶を広げれば、この時代のジャパンは1983年の敵地でのウエールズ戦(「千田、左」)や秩父宮でのスコットランド撃破(宿沢ジャパンの初陣)など、記憶と歴史に残る名勝負を演じていた。

 強い、とは言わない。大抵は惜敗で終わる。でもたとえ敗れたとしても、ノーサイドの後には清々しさと誇りがいつも残っていた気がする。ジャパンの戦いには日本人の琴線に触れるものがあった。

 だから、ワールドカップでなかなか勝てなくても、あの頃深刻さはなかったように思う。

 まして、次に勝利を手にするまで24年もかかるなんて考えてもみなかった。

黄金時代と悪夢

 17対145。

 信じがたい数字がスコアボードに浮かび上がっていた。

 初勝利から4年後の第3回ワールドカップ。ジャパンはオールブラックス(NZ)に屈辱的なスコアで敗れた。「ブルームフォンテーンの悪夢」である。

 そこに清々しさも誇りもあるはずがない。惨事だった。大敗した日本ラグビーにとってだけではない。ワールドカップという大会にとっても、起きてはならない大差のゲームだった。

 わずか4年。しかしその間に日本と世界との差は決定的なほど大きく開いてしまっていたのだ。

 何が起きたのか。ここではかいつまんで。

 世界のラグビーがプロ化した。IRBが正式にオープン化(プロ化)を容認するのはこの1995年第3回ワールドカップ終幕後だが、現実にはこのときすでに選手のプロ化は進んでいた。フルタイムのラグビー選手となった世界のプロたちが急速に力をつけていく一方、日本はトラディショナルなアマチュアリズムに固執していた。

 選手だけではない。指導者、環境、待遇……。すべての面での遅れが、相乗的に大きな格差となり、太刀打ちできないほどの競技レベルの開きとなってしまった。

 なぜ遅れたのか。やはりかいつまんで。

 国内で人気があった。もしかしたら知らない人もいるかもしれないが、かつてラグビーはサッカーよりも人気があったのだ。

 たとえば(旧)国立競技場の観客数記録。上位にはラグビーが並ぶ。

 1982年12月5日 関東大学対抗戦(早稲田大対明治大) 6万6999人

 1985年1月15日 日本選手権決勝(釜石対同志社大) 6万4636人

 1984年11月23日 関東大学対抗戦(早稲田大対慶応大) 6万4001人

 1977年9月14日 ペレ引退試合(サッカー日本代表対N.Y.コスモス) 6万1692人

 1989年1月15日 日本選手権決勝(大東文化大対神戸製鋼) 6万1105人

 早明戦をはじめとした大学ラグビー、そして成人の日(1月15日)の日本選手権決勝。早明戦のチケットは両校の学生でも入手が難しかったし、日本選手権では晴れ着を着た新成人から始まるテレビ中継が風物詩だった。

 春から秋にかけてのプロ野球シーズンが終わった後、ウインタースポーツのメインコンテンツはラグビーだったのである。

 そんな国内の活況が日本ラグビーの変化を鈍らせた……と単純に言い切ってしまうことには躊躇もあるが、同じ時期にプロリーグを創設し、ラグビーとの立場を“逆転”したサッカーと比べてみればそういうことになる。

「人気ない、スタジアムない、競技力ないの『ないない尽くし』だったんだから、あの頃の日本サッカーは」とは川淵三郎の回想だが、だからこそサッカーは大改革に踏み出すことができた。「失うものは何もなかったからね」という踏ん切りである。

 一方、ラグビーはそうではなかった。1980年代から1990年代にかけては黄金時代である。宣伝をしなくても国立競技場を満員にする力があった。

 人気だけではない。実業団のチームを持つのは日本を代表する一流企業ばかり。そんな強固な支援体制の下、日本独特の"企業アマ"システムも堅調で、選手もチームも協会も困窮することがなかった。

 サッカーのエネルギーが危機感だったとすれば、ラグビーにはその必要さえなかったのである。

 そして気づけば、競技面では世界とのレベル差が開き、人気ではサッカーに存在感を奪われることになった。

 しかもその後、レベル差も存在感も加速度的に開いていった印象さえある。

 サッカーでは「Jリーグブーム」の真っ只中で「ドーハの悲劇」があり、「日本代表」は国民的チームとなった。そして「ジョホールバルの歓喜」を経て、その勝敗はサッカーファンの枠を超えて国民的関心事となっていった。

 はじめはブームに乗じただけの“にわか”ファンだったかもしれない。それがあの「悲劇」で本気になり、「歓喜」で虜になった。その道程こそが現在も続くサッカー人気の礎だと僕は思っている。

 しかし……。

「ブルームフォンテーンの悪夢」を知っている日本人がどれだけいるだろうか。

 歓喜がないばかりか、悔しさを共有することもなかったのだ。ジャパンに関心が集まるはずもなかった。

(このあたりの「二つのフットボール」については、いつかもっとちゃんと書きます)

歓喜と一抹の……

 ジンバブエ戦での初白星の後、24年間、ワールドカップで18戦勝利なし(カナダ戦での2つの引き分けはあった)だったジャパンが、ついに勝利をつかんだのは2015年の第8回大会初戦、南アフリカ戦だった。

 その間には(世界から遅れはしたものの)選手のプロ化があり、(リーグ所属企業からの出向やボランティアだった)代表監督のプロ化があり、外国人指導者の登用があった。

 かつて選手自らが行っていたジャージの洗濯に専門スタッフがつき、移動の飛行機がエコノミーからビジネスクラスになった。

 チームは選手だけで強くはならない。特に代表チームは環境や待遇も含めたラグビー界の総合力の成果だ。

 24年かかったが、日本ラグビーは世界をキャッチアップするところまで、ようやく辿り着いたのだ。

 そればかりか昨年、ワールドカップを自国で開催した。そして、信じられないことにグループリーグを突破し、準々決勝まで戦った。

 初勝利を挙げた後、「次の勝利までこんなに時間がかかるなんて」想像できなかったことと同様、いや、それ以上に「まさか」の歓喜をもたらしてくれたのだ。

 それでもガッツポーズに一抹の寂しさが混じっていたのは、あの黄金時代を知る世代だからだろう。

 もしかしたらあのときと同じように「スコットランドには勝ちますよ、約束します」と笑いながら予言しただろうか。

 ジンバブエ戦後半、相手のキックオフからに奪ったノーホイッスルトライ、あのときのボールキャリーほどエレガントなランニングをできる選手はいまもいませんね、と言ったら何と答えただろう。

 興奮の真っ只中にいて、そんな思いもよぎった。

 宿沢広朗は2006年に山で、平尾誠二は2016年に病で、この世を去った。ともに50代だった。早過ぎるノーサイドだった。彼らにこそ、ジャパンのプレーと、地鳴りのようなスタンドを目の当たりにしてほしかった。

 あの情熱と興奮と献身と信頼に満ち溢れたスタジアムにいるべき人たちだった。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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