廃仏毀釈の真実⑤ 寺と僧侶が「完全消滅」した鹿児島県
鹿児島における廃仏毀釈は苛烈を極め、明治初期、寺院と僧侶が完全消滅していた。これほど広域に、寺院が完全に消滅した地域は他にはない。それは、薩英戦争をきっかけにして薩摩藩が富国強兵策に舵を切り、西洋化を急ぐあまり、寺院という歴史的な価値が軽んじられた結果であった。
寺院は焼き払われてそこから金属が取られ、一部は偽造通貨の生産に充てられたという。新時代の幕開けにあたり、薩摩藩は仏教を“生贄”にしたのである。
筆者は過去に2度、鹿児島での調査を実施した。だが、実地調査はどの地域よりも難航した。寺院や仏像、什物類、過去帳、文献のほとんどが、廃仏毀釈時にきれいさっぱり焼却されていたからである。したがって薩摩における史料は、極めて少ない。
現在、鹿児島県内の寺院数はおよそ460カ寺(全国42位)。寺院数が全国一多い愛知県は4600カ寺ほどだから、鹿児島県はおよそ10分の1の少なさである。
薩摩藩における廃仏毀釈の素地をつくったのは、第11代藩主島津斉彬だ。斉彬は身分の低かった西郷隆盛や大久保利通の才能を見出し、重用するなど幕末きっての名君として知られている。明治維新においても極めて重要なポジションを占めた。
斉彬は曽祖父である第8代藩主島津重豪の影響を受け、蘭学や国学に傾倒した人物であった。
斉彬は他藩に先駆けて産業・軍事の西洋化に務めた。反射炉や造船、大砲などを製造する集成館事業などを興し、近代国家の礎を築いたことで高く評価されている。
だが、西洋化を急ぐ時流と、国学・神道的なイデオロギーがあいまって、斉彬は次第に廃仏思想へと舵を切っていく。
斉彬は水戸藩による廃仏毀釈の先例に注目した。水戸藩は歴史書『大日本史』の編纂を通じて、儒学を中心に国学や史学、神道などを融合させた水戸学を生み出した藩で知られる。水戸学の思想は仏教とは相容れず、寛文年間(1661〜1673年)には仏教寺院の破壊に着手している。特に没収した撞鐘などの金属を使って大砲や小銃などの鋳造に当てるといった、廃仏毀釈の実績があった。
斉彬はかなりの合理主義者であったようで、こうした水戸藩の手法を取り入れようと考えた。南さつま市坊津町にあった興禅寺の撞鐘を取り上げて大砲にしたのが、鹿児島における廃仏の狼煙となった。
ではここから、鹿児島県内の廃仏毀釈の具体的事例をいくつか紹介していこうと思う。
いかに薩摩藩の廃仏毀釈が激しかったか。それは、島津家の菩提寺が今でも廃寺のままで復興していないことからも察することができる。薩摩藩では庶民の小刹だけでなく、最終的には殿様の寺まですべて消し去っていたのだ。
だから鹿児島の街を歩くと、「○○寺跡」という看板があちこちにある。その寺院跡を訪ねてみても、多くは跡形もなく、住宅地などになっている。かつての境内墓地だけがぽつんと残されていることもある。
その象徴的な場所が島津家の菩提寺のひとつ福昌寺跡である。現在その跡地は、鹿児島市立玉龍高校になっている。福昌寺の山号は、高校名になっている玉龍山である。福昌寺は鹿児島きっての大寺院で、往時は僧侶1500人を抱えるほどであった。
福昌寺は1394(応永元)年に島津家7代当主島津元久が建立。手厚い庇護を受けた。
廃仏毀釈に見舞われる直前、1843(天保14)年にまとめられた『三国名勝図会』には七堂伽藍が揃い、回廊が張り巡らされた福昌寺の、秀麗な姿が描かれている。
1549(天文18)年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが度々、この寺を訪れている。当時の住職忍室と交流を深め、たびたび宗教討論になった様子も伝えられている。ザビエルは福昌寺の前で、布教を展開し、忍室も黙認したという。
先述のように福昌寺は島津家の菩提寺であったため、廃仏毀釈の“総仕上げ”として廃寺になっている。
現在、当時の面影を伝えるのは玉龍高校の校舎の真裏に位置する島津家墓所のみ。当家6代~28代までの墓がある。
廃仏毀釈を先導した斉彬と久光の墓も見つけることができた。中でもひときわ目立つのが久光の墓所である。久光は藩主にはなっていないが、歴代藩主の墓よりも立派である。墓所の前には鳥居が掛かっている。それは久光の、仏教との決別の意志の表れかもしれない。
墓所一帯は参拝に訪れる観光客も見られず、不気味な静けさに満ちていた。
しかし、もともと島津家は熱心な仏教信者であった。事実、島津家の多くは曹洞宗に帰依している。室町時代の守護大名で、戦国時代の島津四兄弟(義久、義弘、利久、家久)の親でもある15代当主貴久は、
「仏を信ぜざる者は我が子孫に非らず」
との家訓を定めているほどである。
ところが、島津四兄弟ゆかりの菩提寺でさえ、廃寺になっていたのだ。
錦江湾に沿って国道10号線を走る。右手には雄大な桜島の全景が視界に飛び込んでくる。噴煙を上げる桜島と真正面に対峙するようにあるのが、吉野町の心岳寺跡である。
心岳寺は福昌寺の末寺として、戦国時代に島津義久によって建立され、栄えた。ところが現在では無住の神社、平松神社になっている。この心岳寺跡には、義久の弟の歳久が眠っている。歳久は秀吉の九州征伐に最後まで抵抗し、また、朝鮮出兵にも参加しなかったことなどから「反抗的」とされ、この場所で家臣27人とともに自害したと伝えられている。
平松神社は戦前までは「鹿児島三大詣り」のひとつに数えられ、「心岳寺詣り」で大いに賑わった。歳久は勇猛果敢な名将であったことから、軍神として崇められ、終戦までは戦勝祈願のために、平松神社を訪れる者は絶えなかったそうだ。心岳寺詣りのためだけの臨時駅が1967(昭和42)年まで置かれていたという。
現在、平松神社参道は、日豊本線の線路をまたぐ格好で延びている。遮断機付きの踏切がなく、見通しもよくないのでかなり危険だ。参道は見るからに荒廃している。よほどの歴史ファンでなければ、この踏切を渡ることはないのだろう。
この島津家の菩提寺は廃仏毀釈によって破壊され、また先の大戦によって繁栄した平松神社も最終的には衰退していくという、二重の忘却を経験したのである。
参道脇に、石造りの大きな金剛力士像が1体立っていた。金剛力士像は「阿形」と「吽形」の2体一対になっているのが通常である。したがって、残り1体は廃仏毀釈時に打ち壊されたか、埋められたままと思われる。現存するほうも、阿形か吽形も分からぬほど、ダメージを受けている。
『三国名勝図会』に、江戸時代の心岳寺の様子が描かれている。山城を思わせるような立派な寺院である。そこにはちゃんと2体そろった金剛力士像が認められる。
境内を調べていると、社殿の裏に歳久の墓所を見つけた。そもそも神社に墓所があること自体、元は寺院であったことを示している。歳久の墓石には大きく「卍」が刻まれていた。
歳久の墓所に寄り添うようにして、殉死した27士の墓も見つけた。墓石は苔むしていたが、刻まれた戒名が確認できた。多くが「○○禅定門」とある。この戒名は、五重相伝という念仏の教えを生前に受けた者に与えられる浄土宗の戒名だ。当主だけでなく薩摩の武士もまた、かつては篤く仏教に帰依していたのである。
だが、そんな過去を打ち消すように、境内には廃仏毀釈の痛々しい痕跡が残る。社殿の裏には首が刎ねられた観音像が静かに佇んでいた。また、心岳寺の屋根に葺かれていたと思しき古瓦が境内角に散乱していた。中には、焼かれた瓦もあり、廃仏時の様子を生々しく伝えている。
筆者は鹿児島市内から車で1時間の距離にある日置市を訪ねた。
そこはのどかな田園地帯が広がっていた。ムラの片隅に園林寺跡があった。園林寺はかつては曹洞宗の古刹で、小松帯刀の菩提寺であった。
小松帯刀は島津久光に重用され、若くして薩摩藩家老になった人物だ。長州征伐、薩長同盟、大政奉還などの際に活躍。明治維新の立役者となったが、35歳の若さで亡くなった。仮に帯刀がもっと長生きしていれば、明治国家の中枢で活躍したはずだと高く評価されている。しかし、その帯刀をはじめ小松家の歴代墓所がある園林寺もまた、廃仏毀釈で滅んでしまったのである。
園林寺が廃寺になったのは1869年(明治2年)のこと。伽藍は潰され、本尊の阿弥陀如来像など多数の寺宝が失われた。現在、小松家墓所と、そこに通じる細い参道だけが残っている。参道脇には首のない石仏や土に埋もれた古い墓が痛々しい姿を見せていた。
ぎょっとさせられるのが、参道入り口に置かれた頭部と右腕が欠落している金剛力士像である(冒頭の写真)。
鹿児島県の場合、木造仏は燃やされ、また、石仏は細かく粉砕されて、山や川などに遺棄された。県内では、近世になっても土木工事や河川の浚渫などの際に、廃仏毀釈時の打ち捨てられた仏像の一部が出てくることがあるという。
小松帯刀の墓所には、末裔の親族が備えたのだろうか。真新しい花が供えてあった。その横には正室お近の墓が寄り添っていた。
併せて、拙著「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(文春新書)をご参照いただきたい。