Yahoo!ニュース

「反骨精神のようなもの」40年前の活気をもう一度、地元のあつれきと戦いながら商店街の活性化に挑むわけ

遠枝澄人ビデオグラファー

JR徳島駅に近い東新町商店街は、40年前までは徳島市内で最もにぎわう場所だった。人通りが失われたこのアーケード通りで、閉じてしまったシャッターを再びこじ開けようとしているのが地元生まれの「マミー」こと久野淑子(55)だ。「地域で人が集う場所は、ショッピングモールではなく商店街であってほしい」。こんな思いから、経営するレンタルスペースを拠点にメディアやSNSを通じて派手に発信を続けている。だが、古くからの地主や商店主たちからの風当たりは強く、摩擦が絶えない。にぎわいが戻ることへの期待と、愛着ある場所が変貌していくことへの不安。そのせめぎあいの中で前に進もうとするマミーの姿を追った。
(敬称略)

● 通称マミー
マミーは、東新町商店街のアーケードを抜けた歓楽街・富田町で生まれ育った。母が経営するダンスホールの奥の部屋で、父、母、姉と4人で暮らしていた。天井から下がるミラーボールにあやされ、スピーカーの上でゴーゴーを踊りながら育ったという。母と買い物した丸新百貨店、アイスクリームがおいしかった洋食屋、父と通った映画館。幼いころの楽しい記憶は、商店街でのことばかりだ。

17歳で高校を中退し、東京に出た。憧れのバンドマンに近づきたい一心だった。バンドマンたちとの交流はいまも続き、その影響が生き方に表れている。「基本的にその『ロック魂』みたいなんは、格好じゃなくっても出るじゃんな。その反骨精神みたいなさ」

東京ではファッション界やテレビ界でスタイリストをしていた。妊娠を機に、28歳で徳島へ帰郷。第2子の出産後にオリジナルブランド「tete(テテ)」を立ち上げ、自作のドレスやアクセサリーを売り始めた。子育てに追われながら、デザイナー兼スタイリストとして活動する間、思い出の商店街は年を追うごとに変わっていった。

● 東新町商店街
東新町商店街は江戸初期、徳島藩祖・蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が商人を集めて新町をつくったことに始まる。太平洋戦争で焼け野原になったがいち早く復興し、全盛期の1970年代に休日の歩行者は4万人を数えた。駅前にそごう徳島店が進出した1983年を境に、衰退が始まる。95年に丸新百貨店、2005年にダイエー徳島店が閉店。翌年には映画館の徳島東宝が閉館し、大型の集客施設がなくなった。1998年に明石海峡大橋が開通すると、買い物客は神戸や大阪に出かけるようになった。郊外で大型ショッピングセンターの開店が相次ぎ、ネット通販がより一般的になったことが追い打ちをかけた。1966年には1丁目と2丁目合わせて51店舗あったが、いまは1丁目は4割、2丁目は9割ほどが空き店舗だ。自転車は行き交っても、店に立ち寄る客はほとんどない。

● PON NEUFプロジェクトの開始
2018年、子育てが落ち着いたマミーが自身の店舗を構えるため、東新町商店街で物件を探し始めた。改めてながめてみると、その光景は変わり果てていた。がくぜんとして「新町どないなっとう?」とSNSに投稿すると、「どうにかせな」と反応したのが建築士の野田雅之(48)だった。投稿への賛同者は10人ほど集まったが、行動にまで移したのはマミーと野田の2人だけ。野田は「僕らの年代の人は、『昔みたいになったらいいよね』とは思ってる。けれど、一歩踏み出す、マミーみたいに突き進んでいく人が、なかなかおらんかった」と振り返る。

2人はまず、商店街入り口の空き店舗でレンタルスペース「PONT NEUF(ポンヌフ)」を創業した。フランス語で「新しい橋」を意味する。商店街復活には新たな経営者が必要だが、シャッター街にすぐさま開業してもらうのは難しい。そこで野田が空き店舗を改修して、希望者が試験的に運営できるスペースをつくった。「いきなり店を始めるのはリスクがありすぎるし、そこでやってみて『あ、出来そうかな』って自信がついたら、自分の店を新町界隈でやってもらうのが趣旨。最初のとっかかりをまず作る」とマミーは説明する。

● シャッターを開ける
もちろん、待っているだけではシャッターは開かない。新たな人に来てもらうため、マミーは空き店舗の大家との交渉も取り持つようになった。人通りがなくなった商店街で、全盛期と変わらぬ家賃を払うのは現実的ではない。それでも、交渉は思ったようには進まない。大家からは頭ごなしに「貸さない」と言われることもある。「そこをどれだけ大家さんとお話をして、値段を下げて、シャッターを開けてもらうか」

2人はポンヌフに続き、さらに2か所のレンタルスペースを開いた。希望者が商店街かレンタルスペースで開業したら、マミーや野田は新たな物件に手をつけていく。そんなサイクルを思い描いているが、現実は厳しい。「土日祝はなんとなく借りてくれる人がいてるけど、やっぱ平日は、ほぼないかな。(商店街に)人おらんから、借りれん、借りたくないというか」と野田は話す。

● 町の変化
2021年からは、徳島駅と東新町商店街の中間にある空きビルでマーケットイベントを始めた。マミーが選りすぐった飲食や衣料の出店者を県内外から集めている。商店街への人の流れを生み出すとともに、開業のきっかけをつくるためだ。この「元町マーケット」は12回を数え、直近の来場者は1000人に上った。2023年3月からは東新町商店街に場所を移し、規模を拡大。新たに「PONT NEUF MARKET(ポンヌフ・マーケット)」として42店舗が出店する。一方、商店街の中では、マミーが取り持った開業希望者と大家との交渉で、6カ所のシャッターが開いた。

「イベントするにしても人を集めるにしても、まあまあの気合がないとできひんから。それが実績となって、それが信用となって。で、なんとも思ってなかった人が『外には言わんといてよ』と『マミーやったら(家賃)こんだけでいいわ』みたいな話になるんかな」と野田。

● 風当たり
商店街の再生は着実に進んでいるように見える。だが、マミーのことをよく思わない人は少なくない。「地主さんの圧力というか、かなりあって。私、『出て行け』とまで言われたんだけど。お店をしているにもかかわらず。『よそ者』とか、すごい言われた」

商店街振興組合の理事を長く務めた地主の守住九一(82)は、「やはりね、物事にはルールがあって。きちんと許可をもらう。約束したことは守る。いいことでも、それをねたみに思う人がいっぱいおるから」と話す。これにはマミーにも言い分がある。商店街の中で自転車やスケボーに乗っている若者たちがいると、「新しい店ができたからだ」と思われがちなのだという。マミーたちにはルール破っているつもりは決してない。

こうした食い違いについて、商店街近くでレンタルスペース「JAGUZY」を開業した有井康浩(42)は、こう見ている。「今まで新町でやってきた方たちからしたら、明るく盛り上げてほしいけど、『なんか若い子が来て、うるさくなって変わってしまう。昔の俺らが知っとる新町じゃなくなる』っていうのは、やっぱり不安、怖い。それに対してマミーは『変えたい変えたい、どうしても盛り上げたい』ってなる。変わる怖さから『マミーちょっと待て』ってなってる方が強いんじゃないんかな」

テレビや新聞に派手に露出し、SNSでは絶え間なく、ときに感情的な発信を続けるマミー。全ては商店街への思いからだが、目立ちすぎを非難する声は人伝てにマミーの耳に入る。

マミーはそんな声を、「私、自分のこと、芸能人だと思ってるから」と笑い飛ばす。「バンドマンって激しいん。私もすごい激しいんやけど、弱さもあるのね。激しさと弱さってさ、背中合わせじゃん。私はもう悩みはないの、本当に。だけどやっぱりへこむというのはある。でも、それをバネに生きる」

● シャッター商店街に灯を
マミーと野田、2人の最終目標は、商店街の空き店舗をすべて埋め、再び人が集う場所にすることだ。「シャッター商店街に灯(あかり)を」。2人が掲げるテーマだ。

マミーは言う。「商店街ってコミュニティの集まりだって思うのね。あそこの店に行くと、いつも仲間がいる。『初めまして』でも受け入れてくれる。ショッピングセンターにはないものは、デパートにないものは、そこな気がする」。「いま、干渉しないでほしい人が多い反面、やっぱりそういうのを求めてる人、いま結構、孤独な人が多いから」

何度も衝突を繰り返した地主の守住とは、後に和解した。マミーのことを「よくやってる」と裏で褒めていたことが分かった。彼が持つ物件を借りることもできた。対話をあきらめなかったことで、いまでは一番の理解者として協力してくれている。

周りにあまり配慮しないから、批判にさらされる。でも、それは変化へのエネルギーになる。マミーは、そこに集う仲間とともに、商店街に明かりを灯し続ける。

クレジット

監督・撮影・編集 遠枝澄人
プロデューサー 初鹿友美
アドバイザー 庄輝士

ビデオグラファー

1992年千葉県生まれ。筑波大学在学中、半年間キューバに滞在。卒業後、JICA青年海外協力隊として、2年間中米グアテマラで活動。帰国後、高知県室戸市に移住。地域おこし協力隊として、室戸ユネスコ世界ジオパークの活動に携わりながら、地域の出来事や踊る妻を撮影する。2021年より、本格的に映像制作を始める。中南米と日本の2拠点で暮らしながら、映像をつくりたい。

遠枝澄人の最近の記事