北朝鮮に20年間潜伏の韓国軍兵士「25人倒した」戦いと壮絶な最期
韓国の統一省と国防省は昨年11月、某刑務所で受刑中の60代の脱北者男性A氏から聞き取り調査を行った。彼がなぜ刑務所に入れられているか、政府が何に関心を持ったか不明だが、その内容がこのほど明らかになった。韓国の公共放送KBSによれば、彼の証言には、韓国政府が今まで把握できていなかったことが多く含まれていたという。
「人間とは思えない…」
A氏が暮らしていたのは、平安南道(ピョンアンナムド)价川(ケチョン)市にある朝陽(チョヤン)炭鉱。山に囲まれた僻地だ。
元々成分の良い家の出でのAさんは首都・平壌に暮らしていたが、高位幹部を勤めた親戚が粛清されたことで、連座制が適用され追放処分を受け、1960年代から70年代まで朝陽炭鉱での追放生活を余儀なくされた。
「あそこは北朝鮮で、成分が最悪の人々ばかりが住んでいるところだ」(Aさん)
北朝鮮は、朝鮮戦争休戦後の1955年から、成分が悪いとされる国軍捕虜や拉北者(拉致被害者)をここに集め、炭鉱の開拓という名目で強制労働をさせた。炭鉱一帯には国軍捕虜とその家族が大勢住んでいた。3坪のほどの部屋に4〜5人が押し込められ、苦しい生活を強いられていた。
国軍捕虜とは、朝鮮戦争時に北朝鮮の捕虜となり、韓国に帰ることを許されず、北朝鮮に抑留され続けた人のことを指す。その数は8万2000人に達するものと推測されている。
徹底した身分制社会である北朝鮮で彼らとその家族は、最も成分が悪い(身分が低い)ものとされ、奥地の炭鉱などに追いやられ、強制労働に苦しめられ、劣悪な生活環境の中で死んでいく。
1970年代のある日、当局は公開処刑を行うとして、村人を集めた。その場に引き立てられてきたのは、国軍捕虜のコ・ジンマンさんだった。伸び放題の髪を地面に引きずりながら歩く彼の姿は、もはや人間とは思えないほどだったという。
(参考記事:北朝鮮の15歳少女「見せしめ強制体験」の生々しい場面)
コさんは韓国軍として朝鮮戦争に参戦し、中国との国境を流れる豆満江まで進撃したが、中国軍の反撃の際に捕虜となった。収容所から脱走して韓国に逃げ帰ろうとしたが失敗し、炭鉱のそばの月峰山(ウォルボンサン)に横穴を掘って20年もの間、身を潜めていたが、どんぐり拾いに山に入った住民に発見、通報されて逮捕された。
「絞首刑の前に、朝陽炭鉱の人々(9割が国軍捕虜)を全員集結させて、罪名が読み上げられた。未だに覚えているのは『戦争に動員され多くの人を殺したが、アメリカ野郎どもが後退し、ツツジの花が咲く頃には再びやってくるとの話を信じて、洞窟で暮らし、遏日嶺(アリルリョン)峠を通る(北朝鮮の)軍人を25人も殺害した』というものだ。」(Aさん)
韓国の大ヒット映画『シルミド』(カン・ウソク監督)でも知られているように、韓国と北朝鮮の間では朝鮮戦争後も、特殊部隊などによる潜入工作が行われていた。
一方、朝鮮戦争勃発前の1948年から1963年まで、朝鮮人民遊撃隊として、韓国の山奥で暮らし、韓国軍や民間人への攻撃を繰り返していた「パルチザン」は、後に映画化されたほど有名な存在だ。北朝鮮にも、逆の立場からパルチザン活動を行っていた人物がいたということだ。
絞首刑にされたコさんの遺体は、1日中さらしものにされ、夜になってようやく絞首台から降ろされたという。
この「コ・ジンマン」という人物は実在したのか。KBSが国防省関係者に問い合わせたところ、当該人物と推定される人はいたものの、同一人物であるかどうかは断定できないという。情報が名前しかないからだ。
国連人権理事会もこの情報に関心を持ち、昨年12月にAさんの調査を行った。
Aさんは、炭鉱にいたイ・グィセン、キム・チャンヒョン、ミン・ビョンソン、パク・サムニョン、イ・ヒョンジェ、ク・バングなど、他の国軍捕虜の名前も挙げた。
国軍捕虜で脱北に成功したのは1994年10月のチョ・チャンホさんが初めてだった。彼の証言で、国軍捕虜が置かれた状況が明らかになった。1950年10月に韓国軍に志願した彼は、1951年5月に中国軍の捕虜となった。1952年に脱走を試みるも失敗し、停戦協定締結後も送還対象とならず、各地の炭鉱で強制労働を強いられ続けた。
1998年のチョ・チャンホさんなど、20人が脱北に成功した。未だに500人ほどが生存していると言われるが、最年少であっても80代半ば。残された時間はもう数年しかない。