生活困窮者は誰のために「自立」するのか
生活困窮者は誰のために「自立」するのか
現在、生活保護制度と生活困窮者自立支援制度の見直しに向けた議論がおこなわれています。
今年の5月から「生活困窮者自立支援及び生活保護部会」という厚労省の社会保障審議会が開催されていて、そこで、研究者やNPO等の事業者などが委員となり、今後の生活保護制度や生活困窮者自立支援制度についてのあり方について話しています。
厚労省の発表資料によれば、ここでの議論をベースに来年の国会に生活保護法と生活困窮者自立支援法の改正案を提出する予定であるとのこと。
生活保護制度は現在、約215万人が利用しており(厚労省被保護者調査)、この改正は日本の貧困対策や社会保障政策においても大きな影響があるものです。
この審議会の議論について、僕も過去に下記の記事を書いています。
生活保護家庭の子どもの大学進学ダメ問題は解決に向かうのか 審議会の議論がダメなので整理します(大西連) - Y!ニュース
正直、論点が多いのですべてを書くことは困難で、かつ、まだ具体的な改正案等は公開されていないのですが、ここまでの議論で気になった点について書きたいと思います。
両制度の改正の方向性が明らかに
昨日(11月16日)、第10回目の審議会が開催され、両制度に対する「見直しの視点」「見直しの視点のための論点整理」が公表されました。
僕は残念ながら山形に出張に来ていて傍聴等はできなかったのですが、資料が以下に公開されています。
生活困窮者自立支援制度及び生活保護制度の見直しに関する論点整理
この2つのペーパーはあくまで現段階の案なのですが(一つ目が概要版、二つ目が詳細版といったところでしょうか)、改正のおおまかな方向性はここで記載されているものになると考えてもいいと思います。
※この審議会での委員の発言等により何らかの修正や変更が加えられる可能性はあります。
ここでの記載はあくまで理念的な内容にとどまっていて、まだ具体的な法案修正案や運用についての変更案がでているわけではありませんが、理念の部分はとても重要なので見ていきたいと思います。
どのような視点にたって見直すのか
概要版をみると、主な論点が、5点示されています。
・「地域共生社会の実現」という視点に立って制度を設計することが必要
・「早期の予防的な支援」を心がけることが必要
・「貧困の連鎖を防ぐ」という視点に立って支援を行うことが必要
・「高齢の生活困窮者に着目した支援」という視点も重要
・「信頼による支え合い」が実現するような制度を目指すことが必要
もちろん、この字面だけを見ているとまあ必要だよね、くらいの感想だと思うのですが、文言を見ていると違和感があります。
語感の良い言葉に見え隠れするパターナリズム
たとえば、「地域共生社会の実現」について言えば、
制度の見直しを進めるに当たっては、「支え手」「受け手」といった関係を超えて、生活困窮者、生活保護受給者等の誰もが役割を持ち、支え合いながら自分らしく活躍できる「地域共生社会の実現」という視点に立って制度を設計する
とあります。『「支え手」「受け手」といった関係を超えて』とは何でしょうか。
生活保護制度などは、法律的には権利性が認められていながら、水際作戦の事例のように、実際には、生活保護利用者と役所(福祉事務所)の担当者は対等ではありません。ある種の生殺与奪の権を役所側の担当者が持ってしまっている実態があります。
また、生活困窮者自立支援制度では、プラン作成と言って相談に来た人の支援計画を立てるのですが、そのプランは基本的に行政の担当者(もしくは委託業者の担当者)が作成します。
これは、介護・障害分野などでの「当事者主権」という考え方が反映されていないものです。要するに対等ではないということです。(介護や障害分野などでは「ケアプラン」をサービスを利用する自分自身で作成することも可能な仕組みになっています)
それを対等にしていく、「当事者主権」をベースにする、ということならわかるのですが、ここでは、そういう文脈ではありません。むしろ、非常にパターナリズムに陥りがちです。
※パターナリズムとは、支援者が当事者の利益のためにと当事者の意思や価値観を重視せずに支援する、介入すること。
そもそも、生活保護の文脈などでは、行政側の担当者は「指導」をする立場でもありますので、そこには明確な「差」があるわけです。そこを手放すことは制度の性質上、現状ではできないわけですから、支援者(支え手)の権威性を維持したまま都合よく当事者(受け手)と『「支え手」「受け手」といった関係を超えて』という言葉を使うのはナンセンスと思います。
もちろん、ホームレス支援の現場などでは、例えば、炊き出しに並んでいた人がカレーを作る側になったとか、夜回りで声をかけられている側だった人がかける側になったとか、そういうストーリーはたくさんあります。
しかし、それもいろいろ批判があってピアサポート(当事者同士の支えあい)という側面もありつつも、ちょっと意地悪な言い方をすると当事者と支援者という明確な「壁」があるなかで支援側に「移った(あがった)」だけである、という見方もできます。
「共同炊事」のように、最初から支援者や当事者と分かれずに一緒に作って一緒に食べる、という方法を大切にするグループや活動があることを忘れてはいけないでしょう。
そして、『「支え手」「受け手」といった関係を超えて』は、結果的にそのような状態になることはあっても、最初からそれを「見込んで(当てにして)」というものではない、ということは特記しておきたいです。
「地域共生社会」とは
「地域共生社会」の理念である、福祉サービスの縦割りをこえて現代社会のさまざまな困難さや問題に、市民と行政が協働しながら取り組んでいく、ということには僕はとても賛同しています。
一方で、国が市民に対して一定の役割を求め、市民同士の助け合いをあてにすることは、やはり違和感があります。
言葉は耳に心地よいのですが、相互扶助の領域と公的な枠組みは役割分担も含めてその責任の所在も含めてあいまいにするべきでないものも多いと思います。
誰のための「支援」か
上記の論点のうちの、「早期の予防的な支援」と「高齢の生活困窮者に着目した支援」については、穿った見方とのご批判を受けるかもしれませんが、本人のためというよりは社会のリスクを軽減するため、のニュアンスが強いと思います。
例えば、詳細版のほうにある「就労準備支援事業」の記載では、
現在でも就労準備支援事業を利用すべき人の多くが本人の意思によって利用していない状況にあり、かつ、自治体によってはマンパワーや委託事業者の不足といった実情もある。
などとあります。
もちろん、予防的観点は重要なのですが、「利用すべき人の多くが本人の意思によって利用していない」ということが課題という問いの立て方をしているということは、逆説的に言うと、本人の意思の如何にかかわらず利用するべき人は予防的観点からも利用した方がいい、となってもおかしくありません。
たとえば、介護や障がいを持つ人へのサービスの提供などは、そのサービスの有無がすぐさま命にかかわるようなものもあります。
一方で、生活困窮者へのサービス(サポート)は、生活保護制度はそのまま命に影響を及ぼす可能性がありますが、生活困窮者自立支援制度は生活の質の向上にはつながるかもしれませんが、あくまで「オプション」であるのも事実です。
生活保護に陥らせないため、というのは、生活保護が権利であるという前提から考えると、本人のためというよりは、社会的リスクの軽減、社会的コストの削減のためと言っても過言ではないでしょう。
生活保護を利用するほどの困窮状態の方が増えるのはもちろん望ましいことではないでしょうし、経済的に苦しい状況の人が減ることは大切ですが、生活保護を利用するのは悪いことではありません。(憲法上も法律上も)
経済合理性から考えた時に「予防」であるのは理解できるのですが、生活困窮者への権利としての支援ではなく、生活保護にならないようにというインセンティブが働いている制度なのであれば、当事者のための制度とは言えないでしょう。
そして、その制度の利用を「強いる」ようなバイアスがかかるのであれば、それは問題です。
「支援を受ける立場の人は、誠意をもって社会の一員として積極的に参加する」とは?
最後に、「信頼による支え合い」について見てみましょう。
生活困窮者に対する自立支援は、「支え手」「受け手」といった関係を超えた自立を目指す制度であり、支援を受ける立場と支援する立場の相互信頼が重要である。支援する立場は、支援を受ける立場の人の尊厳を尊重し、支援を受ける立場の人は、誠意をもって社会の一員として積極的に参加するという「信頼による支え合い」が実現するような制度を目指すことが必要ではないか。
支援する立場についての「支援を受ける立場の人の尊厳を尊重し」にはもちろん賛成です。
しかし、「支援を受ける立場の人は、誠意をもって社会の一員として積極的に参加する」というのには強烈な違和感があります。
生活困窮した人は、「誠意をもって社会の一員として積極的に参加」していないのでしょうか。または、この条件を満たしていないと支援を利用できないのでしょうか。
そして、「誠意をもって社会の一員として積極的に参加」とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。
極端な例かもしれませんが、生活困窮者は支援を利用するために地域の清掃をする、とか、町会の餅つきに参加する、とか、そういうことを求められるのでしょうか。もちろん、地域の人たちと関わるなかで結果的にそういったことをすることはあり得るでしょうし、その人にとってもその地域にとってもwinwinになる場合もあると思います。
しかし、それが称揚される感じは、ちょっとどうなの?と率直に思います。
もちろん、税金を使った制度による支援を利用するのだから、いろいろなことを求められるのは当然だろうと考える人もいると思います。
しかし、例えば、「支援を利用するには○○をしないといけない」というルールがあるとして、その「○○」の内容が明確ではない場合、制度運用者や支援者の都合で「○○」の内容の解釈が拡がったり縮まったりする可能性があります。
担当者や自治体の違いによって制度を利用できる・できないが変わったら公平ではないですし、利用する人は困ってしまうわけです。
生活困窮者は誰のために「自立」するのか
2004年の厚労省の社会保障審議会「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」では、「経済的自立」「日常生活自立」「社会生活自立」の3つの自立の概念が提案されました。また、「被保護世帯が安定した生活を再建し、地域社会への参加や労働市場への「再挑戦」を可能とするための「バネ」としての働きを持たせることが重要」と明記されています。
ここで強調したいのは、「再挑戦を可能とするためのバネとしての働き」という部分です。決して「再挑戦をすることが前提」ではない、ということです。些細な違いのように感じる方もいるかもしれませんが、この部分が、制度が当事者中心であるかどうかの大きな違いになることは踏み込んで書いておきたいと思います。
生活困窮者は誰のために「自立」するのか。当然ですが、その人のため、その人は自分のために「自立」するものです。しかし、いまの議論は、社会のため、社会のリスクを減らすため、という方向性に傾いています。
制度改正は来年と言われていますので、今日紹介した厚労省のペーパーや審議会資料はあくまで案の段階です。とはいえ、制度が誰のためのものなのか、為政者や支援者、事業者ではなくより当事者に近い制度にするためには何が必要なのか。注意してみていく必要があるでしょう。