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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第23回 一五○人の署名員

藤井誠二ノンフィクションライター

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嘆願署名の中心人物

一九九五年十一月十三日の第三回公判で、被告側証人として出廷した井上は、宮本側弁護人桑原に「嘆願書を作成、集計はどういう経緯で始められたのでしょうか」と質問され、こう陳述している。以下はその要約である。

「七月一八日に事件が起き、その直後に卒業生たちと何かできることはないか、役に立てることはないだろうかということで嘆願書のスタートになりました。ただし、スタートになったのが五つか六つだと思いますか、それぞれのかたちで嘆願書を作成しながら、署名活動に入ったようでございます。これはあとで署名集計のときに出てまいります。私たちは七月二一日、土曜日だと思いますが(筆者注・実際は金曜日)、桑原先生(宮本の弁護人)のところに嘆願書について指導を受けにまいりました。嘆願書に署名のお願いということになりますが、二四日に文章の作成、二五日に印刷が終わりまして、卓球部関係の同好会のグループに署名のお願い、配付を終わりました。これが二七日だと思います。その後で卒業生、OG関係が三○日に集合しまして、嘆願書をよろしく頼むとお話をしました。あとになりまして、たとえば六○年卒のグループ、あるいは第九回卒業生のグループ、在校生、卒業生の方で東京の方、そういう方から集計が私の方に届きまして、五つか六つのグループになりますが、スタートが七月末でした」

弁護人 集計などは、どういうふうなことでおこなわれましたか。

「卓球部のOGの一○○人弱のグループ、三○日に集まったのは六十数名だと思っておりますが、署名が終了したものについて、私のところと、卒業生の店と、もう一カ所学校の近所の店、その三カ所に署名の終わった分を出すということで、それを一週間に一回ぐらい集まって集計しました。そのときに、他のグループもやっているという情報も入ってきました。で、そういう方にも連絡をしました。先に申し上げた六○年あるいは九回卒業のグループ、その他現役の生徒さんでございます。で、現役の生徒さんの場合には、桑原先生の事務所へ直接持っていったと思います。で、事務所のほうから電話を受けまして、私か受け取りにまいりました。盆前、八月一二日だと思います。土曜日です。OG六、七人が来て、約五万人分を製本しました。その後、九月にはいってから、二度目の製本をしました」

弁護人 嘆願書のできたものを集計して分類なさっているわけですが、嘉飯山地区(飯塚市・嘉穂郡・山田市)、嘉飯山地区以外の筑豊地区、筑豊以外の福岡県内、県外とこういうふうに分かれるわけですね。この県外の分はどういうふうに集めたのですか。

「県外のグループで、九州地区内と東京グループと三つぐらいに分かれると思います。たとえば九州の佐賀県、大分県辺りが多いと思っておりますが、九州地区では、宮本先生の福岡大学時代の卓球関係者、先輩後輩になると思いますが、そういう方々の署名が多いと思います。東京については、卒業生の方々が中心になられまして、そういう署名を集めてそれを同窓会長に送ってきて、その方から私のところに届きました。三番目には、卒業した方が県外にいて、何とか自分にできることがあればというようなことで、地元の母親ないしは兄弟の方ですか、それを通じて署名していただいたと。大雑把に三つに分かれると思います」

弁護人 いわゆる嘆願書の署名をしてもらうために、人が当然動かなきゃなりませんよね。何人ぐらいの人たちが実際に動かれましたか。

「正確にはつかめないのですが、卓球部のOGについては八○名ぐらいじゃないかと思います。もう少し多いかもしれません。それから、筑豊地区の卓球の同好会グループ三、四十名、福岡大学卓球部のOBグループ十二、三人だと思います。トータルすると一五○は超えているんじゃないかと思います」

弁護人 総数はおわかりですか。

「七万五二一八(一九九五年十一月八日現在)だと思います」

弁護人 これで嘆願書は最後ですね。追加はありませんね。

「ありません」

静かな口調で淡々と述べる井上。彼の背中の後ろでは、知美の遺族が遺影を抱きしめ、歯を食いしばり、鳴咽がもれるのを必死にこらえていた。

弁護人の「一五○人もの人が動いた原因は何か」という質問にはこう答えている。

「私たちが最初の努力目標ははるかに越えたと思っています。嘆願署名用紙にも若干書きましたけども、宮本先生は人間的なあたたかみや責任感があり、卒業生や卓球関係者と親密な交際を続けてきたことが、この数字を生んだのだと思います。近大附属の単球部では、卒業のたびに卒業を祝うパーティーを宮本先生は欠かさずひらいていますが、私も何回も出席をしたことがあります」

また、井上は近大附属に赴任したときのことをこう証言した。

「近大附属の専任講師になったのは、昭和六○年(一九八五)。それまでは嘉穂高校定時制に長く勤めていたので、講師として何年か勤めさせていただいたことがあります。近大附属を六六歳の定年をもって、昨年(一九九四)三月に退職しました。昭和六○年ごろと、平成六年ごろの生徒の管理については比較しにくいが、厳しくなっていったように思う。教育目標が、生活習慣をつけさせることや、厳しくしつけること、校則を守らせることになっていきました。特別進学コースのような、上級の大学に入れることは昭和六○年ごろは大きな目標ではありませんでした。山近校長、小山教頭体罰になってから、美化の点で向上したのは事実です。私はそれほど学校が荒廃しているとか、汚れているとかいう実態は感じませんでしたが。そして、教員に対して学校から要求されるものも厳しくなっていき、教員同士で競争を強いられるようになりました。私のクラスは掃除があまりよくできなかったことがあるんですが、ずいぶんとお叱りを受けました」

後半になると、今度は検察官が嘆願署名活動について反対尋問を始めた。検察官の質問は冒頭から嘆願署名運動の問題点に切り込んだ。

検察官 嘆願書を集める側の一五○人ぐらいの方たちは、被告人のことをよく知っているわけですか。

「よくご存じです」

検察官 被害者のことは知っていますか。

「……七月三○日に、さっき申し上げましたOGか集まりました。その時点ではいろいろなデマといいますか、中傷といいますか」

検察官 被害者と直接親しい人はいなかったわけですね。

「いないと思います」

検察官 署名用紙の書式は何ですか。

「三通りあります。表に署名のお願いの文章があり、B4で一枚が二○名、一五名のものもあります」

検察官 そういう形式ですと、事件のことをよく知らないで、単に署名だけ頼まれてした人もいるのではないですか。

この質問が検察官から出たとたん、それまで淡々と答えていた井上が「エッ?」と聞き返した。

「十分に署名の趣旨の説明をしなさいと。それから、署名の趣旨の内容についてもよく読んでもらってということは、よくよく署名をお願いするグループに対して申し上げました」

検察官 署名を集める人たちは実際、事件のことはどういうふうに話しているのですか。

「事件そのものは大変なことなんだと。ただ、さっき申し上げましたように、自分たちができることか少しでもあれば、宮本先生のより早い社会復帰のために減刑をお願いしたいというのが趣旨です」

検察官 署名を求める相手としては、どういう人のところに行って署名してもらったんですか。

「卒業生が第一だと思います。それから卓球関係者、愛好会のグループ、それからご父兄の方」

検察官 それだけで、七万五○○○人もいきますかね。

「嘉飯山で四万少しですか」

検察官 近所の人もいるわけですか。

「町内会の方もございます。町内の方も中心になりまして、宮本先生の住所の町内会、ご存じの方にお願いしたというのもございます」

検察官 そういう人たちの自宅を訪ねていって、署名を求めるということですか。

「それもあります」

検察官 中には、被告人や被害者、それから事件のことをよく知らない人のところへも(署名を求めに)訪ねて行ったわけですね。

「あのときは各新聞やテレビで報道されていたので、事件の内容についてはほとんどの方はご存じだったと思います」

検察官 被害者の遺族のところには行ったりはしなかったですか。

「そんなところは行っていないと思います」

そのとたん傍聴席の私の横で、「来ました!」と女性が大声を上げた。法廷は一瞬凍りついた。その女性は元春の妹、つまり知美の叔母だった。彼女は、鬼気せまる形相で井上の背中を脱みつけた。

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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