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25歳タクシー運転手「いま幸せ」 “空白地“の福島・飯舘村、よみがえる亡き父との思い出

近藤剛映像ディレクター


福島県の中通りにある川俣町。かつては絹の町として栄えたが、現在は人口約1万3000人の4割を65歳以上の高齢者が占めている。地元の川俣タクシーは、病院通いや買い物など住民の日々の暮らしを支える足だ。そこで4年前からドライバーとして働いているのが武藤紳助さん(25)。乗客との会話を楽しみ、足の不自由な客の荷物を進んで運ぶ気さくな人柄で、高齢の利用客から孫のように可愛がられている。幸せに過ごしてきたと見える彼の人生は、小学4年のときに父親が亡くなり、暗転した。それからの苦難をへて、紳助さんはいま若い力で地元福島を盛り上げようと奮闘を続けている。2022年2月から勤務先のタクシー会社が営業エリアを広げた飯舘村は、偶然にも紳助さんにとって父との思い出がつまった場所だった。家庭を持ち、父親になったことで改めて気づいた父への想いとは。

「今日いい天気ですね」「あったかくなってきましたね」
都会のタクシーなら、嫌がられるかもしれない運転士からの車内トーク。しかし、この町のタクシーでは乗客には欠かせないサービスだ。客のほとんどは顔馴染みの常連。頻繁に顔を合わせるから、おしゃべりが弾む。運転士は客の身の回りの出来事や困りごと、体調の変化などを自然と耳にする。とりわけ高齢の利用者にとっては、ある意味大事な見守りにもなっている。

紳助さんは、昨年まで頻繁に利用してくれた92歳の男性のことが印象に残っている。タバコを買いに自宅からコンビニまで往復するのがお決まりのコースだった。ところが1ヶ月間、乗車がぱったりと途絶えたことがあった。久しぶりに電話で予約してきた男性に聞けば、病気で出かけることができなかったという。その日、男性はお気に入りのビールとタバコを買って帰ったが、それが最後の乗車になった。その1週間後に亡くなったのだ。「もう少し何かできたんじゃないか」「気づけることがあったんじゃないか」。紳助さんはいろいろな思いに駆られたという。それ以来、客への声かけを大切にしている。

25歳の紳助さんが、高齢者相手の接客を苦にする素振りは見せない。両親ともに接客業の美容師だったし、小さい頃からおじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子だった。高校では福祉コースを選択して、介護ヘルパーの資格を取得した。卒業後は、洋服好きが高じてアパレルの企業に就職。ただ、ノルマを達成できずに1年で辞めた。水道設備の会社に転職したが、今度は体調不良が続き、現場で倒れた。救急車で運ばれた病院で告げられた病名は、そううつ病だった。

美容師だった父は、紳助さんが小学校4年の時に自殺した。それ以来、紳助さんはずっと自分の気持ちが不安定になったと感じていた。父はしつけに厳しく、駄目なことは駄目だという「昭和のオヤジ」のようだった。だから、父が自ら命を絶ったのは、自分が言うことを聞かないから、嫌になってしまったからではないかと考えた。一方で、自分はまだ小学生で、姉も翌年中学生になる歳だ。なぜこのタイミングで自分たちのことを置いていくのか、ずるいんじゃないかとも思っていた。紳助さんのその思いは、自分の4歳の娘を育てていく上での不安にもつながっている。思春期の息子や娘に対し、父親としてどう振る舞えばいいのか。その時期にはすでに父を失っていた自分には、それがわからないのだ。

紳助さんがそううつ病だとわかったのは、結婚して間もなく子どもが生まれてくるという大事な時期だった。ちゃんとした仕事を見つけなければと焦っていた。妻の李菜さん(24)も「不安で仕方なかった。このままだと子どもを産んでも生活できないから、私も病んでいたと思う」と振り返る。

ピンチを迎えていた紳助さんに、「タクシーの仕事をやってみない?」と誘ったのは、自身もタクシーを運転する姉の橋本百夏さんだった。紳助さんと百夏さんは、父が亡くなってからも、とりわけ仲が良かったわけではない。学生時代はあまり口もきかなかった。でも、百夏さんがあしなが教育基金の集まりに参加すれば、紳助さんも行ってみるというように、姉の背中を見ながら歩いてきた。百夏さんは、地域に貢献できる仕事として良さそうだと思い運転士になった。運転が好きで、おしゃべり好きな紳助さんにも向いていると思ったという。紳助さんも、姉が生き生きと仕事する姿を見ていたから、「まずはやってみよう」という気持ちになれた。

紳助さんが川俣タクシーで働き始めると、若い運転士と珍しがられた。高齢の客からも受けが良く、孫のように可愛がられた。大変な仕事だろうと思っていたが、やってみれば意外に楽しく、自分に合っていた。

荷物を運んだり、話し相手を務めたりしながら高齢者を見守る仕事だと考えている紳助さんだが、実は紳助さんの方が救われている面もあるようだ。「これ、娘さんにあげて」と気遣ってくれる地元のおじいちゃん、おばあちゃんたちと関わるうちに、紳助さん自身の心がほぐれていく。かつて取得した介護の資格だけでなく、水道設備の経験がいきたこともあった。「水道管が破裂して、どうやって止めたらいいかわからない」という客の家で手際よく元栓を閉め、水抜きをしてあげたら、「何でそんなことができるの?」と目を丸くされた。

日中は買い物や病院通い、夜は居酒屋やスナックへ。川俣タクシーの利用客の行き先は、それがほとんどだった。しかし、新型コロナウィルスの流行が、地元のタクシーの営業に暗い影を落とす。高齢者は買い物や病院通いを控え、夜の街を出歩く飲み客は姿を消した。川俣タクシーの売り上げはそれまでの7割にまで落ち込んだ。

何とか売り上げを伸ばせないか。橋本博文社長(43)は、川俣町の東にある飯舘村に目をつけた。飯舘村はタクシー会社がない空白地域。村内には病院やスーパーも少なく、住民は川俣町まで出かけるケースが多い。

ただ、川俣タクシーが飯舘村の客を乗せるには、片道20分かけて現地まで迎えに行かなければならない。空車で15キロ走ることになり、タクシーの運賃に換算すると、5000円以上にもなる。飯舘村に出かけても客が1メーター(基本料金520円)しか利用しなければ、利益は出ない。本当に売り上げが見込めるのか、橋本社長は当初、二の足を踏んでいた。

飯舘村では5年前、福島第1原子力発電所の事故に伴う避難指示が、帰還困難区域を除いて解除されたものの、住民の帰還率は3割にも満たない。路線バスの本数も限られ、生活していくための移動手段に乏しいのが現状だ。何とか村に戻った人の役に立つ「生活の足」になれればと、橋本社長は2022年2月、飯舘村への営業エリア拡大に踏み切った。

紳助さんにとっても飯舘村は、なじみのある場所だ。幼い頃、ドライブが好きだった父親に連れられ、飯舘村の道を通った。夏、海に向かうには飯舘村を通り、山の緑や道路の脇に広がる稲穂がきれいだった。今はタクシーの運転士としてこの道を走るたびに、父との楽しかった思い出がふとよみがえる。

歩んできた人生にもきっと意味がある。少し遠回りはしたけれど、自分の天職と思えるこの仕事に巡り会えたのだから。紳助さんには夢がある。いつか地元で介護タクシーを運行する。自分のような若い世代がそこに加われば、地域がもっと盛り上がるのではないか。父が亡くなって16年。揺れ動く心に悩まされてきた青年は、未来のビジョンを描けるようになった。

タクシーの仕事を始めてから、亡くなった父のことを考える機会が増えた。父も、おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子だったこと。地域の高齢者の役に立ちたいという思いを抱き、訪問美容師になったこと。自分も父と似ている。「遺伝だな」と思うようになった。いま、自分の娘にはしの持ち方を教えるのに苦労しているが、「お父さんも教えるの大変だっただろうな、そりゃ怒りたくもなるよな」と、父親の苦労もわかるようになってきた。

紳助さんは、父ができなかったこと、きっとやりたかったはずのことを自分がやる立場になった。自分が子どもの頃、父にしてほしかったことを娘にやってあげたいと思っている。タクシーの仕事にやりがいを感じ、妻と娘の3人で楽しく生活している今、自分は幸せだと言い切れる。つらい過去を受け入れ、現在進行形の自分を大切にしながら、紳助さんは、これからを大切に生きていこうとしている。

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企画・撮影・編集 近藤 剛

映像ディレクター

児童虐待を未然に防ぐため親たちを救う施設や、在日コリアンが通う朝鮮学校などを密着取材し、弱者に寄り添う視点で番組を作る。東日本大震災の復興のために活動する人々に焦点を当てたドキュメンタリーを制作している。2015年から、発達障がいを抱えるアールブリュットの画家の古久保憲満さんを取材し、自立に挑む姿を追い続ける。

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