佐村河内さんと新垣さんの曲を却下した福島県本宮市は音楽への見識と愛情の浅さを露呈した
●今朝の100円ニュース:実の作曲者「共犯」と謝罪(朝日新聞)
映画『パッチギ!』で沢尻エリカを観たとき、可憐なのに芯のある容姿と演技に心惹かれた。その数年後、『クローズド・ノート』の舞台挨拶で不機嫌な対応をしてバッシングが始まる。僕も『パッチギ!』の感動を汚されたような気がした。
でも、良いものはやはり良い。役者本人が清純でなくても、演じた役柄が清純に見えればそれでいい。むしろ本人と役柄のギャップが大きいほど、役者としての力量を評価するべきだ。
今朝の朝日新聞によると、「全ろうの作曲家」「現代のベートーベン」などと呼ばれてきた佐村河内守さんが作曲家の新垣隆さんの作品を自作と偽っており、新垣さんは記者会見で「初めて会った時から、耳が聞こえないと感じたことは一度もない」と証言した。一方で、佐村河内さんの代理人は、新垣さんの協力を認めつつも「作曲者を彼とする明確な合意があった」「耳が聞こえないのは本当だと思う。聴覚障害2級の障碍者手帳を持っている」と主張している。
真実はわからないが、佐村河内さんは聴覚障害を持ちつつも全ろうではないのだろう。そして、新垣さんが言うように「彼は実質的にはプロデューサー。私が彼のアイデアを実現し、彼は自分のキャラクターをつくって世に出した」。
僕は佐村河内さんと新垣さんの「共作」をちゃんと聴いたことがない。でも、聴いて感動した人はこれからもファンであり続けると思う。今回の騒動で「だまされた。もうファンをやめる」と気持ちが離れる人は、楽曲の内容ではなくブランドイメージが好きだったのだ。
近年、商品に「物語性」を求める傾向が強まっている。誰がどんな思いでどのように作ったのかを美しく見せられることが購買に直結する。機能や値段では購買意欲がそそられないほどモノが余っているのだろう。僕も居酒屋に行くと、産地や調理法が上手に書いてある料理を注文してしまう。口に入れると、なんとなくおいしい気がする。
物語やイメージを構築してアピールすること。それを信じて消費することが悪いとは言わない。しかし、そこに注目しすぎると、商品そのものを見極める力が落ちていく。今回の騒動で佐村河内さんたちの曲を「市民の歌」にすることをやめた福島県本宮市は、音楽への見識と愛情の浅さを露呈したと思う。「それでも曲は素晴らしい」と言い放ってほしかった。
最も大事なのは作り手の実像やイメージではない。商品そのものだ。