北朝鮮が噛みついた韓国の「核兵器開発」秘話
北朝鮮が、11月25日に発効した新たな「米韓原子力協定」に噛みついている。国営メディアである朝鮮中央通信が5日、協定が「北東アジア地域の情勢をより激化させる」として非難する論評を出したのだ。
このほど42年ぶりに改定された米韓原子力協定で、アメリカは韓国が使用済み核燃料の再処理やウラン濃縮を行うことを一部認めた。
この主張を聞いたほとんどの人は、「どの口が言っているのか」と思うに違いない。国際社会の制止を振り切って核開発に突き進み、北東アジアの安定を乱してきたのは北朝鮮の方だ。
しかし少し歴史をさかのぼってみると、この主張がまんざら故なきものでもないことがわかる。
韓国は現在の朴槿恵大統領の父・朴正熙(パク・チョンヒ)政権下の1970年代、核兵器開発を密かに進めた経緯があるのだ。アメリカがこれまで韓国に使用済み核燃料の再処理などを認めてこなかったのも、再び核兵器開発に突き進むのを阻むためだったのである。
当時、アメリカと韓国の軍事政権は、核兵器開発を巡り熾烈な諜報戦を展開しているのだが、そこで活躍した中央情報局(CIA)の若きスパイの中には、日本とも縁の深いリチャード・ローレス元国防副次官がいた。イラク戦争の開戦時、日本に対し「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上兵力を送れ)」と発言。陸上自衛隊の派兵を迫った人物である。
韓国の朴正熙政権が無謀とも思える核兵器開発に突き進んだのは、当時のカーター米国大統領が、「在韓米軍の撤退」を公約にしていたからだ。いまでこそ、韓国は北朝鮮を国力で圧倒している。しかし
1970年代、ソ連から全面的な支援を受けていた北朝鮮は、軍事力において韓国を凌駕していると考えられていた。
在韓米軍が撤退したら南北の軍事バランスが崩れる――そう危惧した朴正熙氏は1972年の初め、側近を執務室に呼び、「平和を守るために核兵器が必要だ。技術を確保しなさい」と密命を下したのである。
だが、1979年にはそんな朴正熙氏が暗殺されてしまう。また、その少し前に韓国出身の世界的な理論物理学者がアメリカで「悲運の死」を遂げていたことも重なり、「彼らは核兵器開発を阻止するためアメリカに殺されたのではないか」とのサスペンス・ストーリーが、韓国では根強く囁かれてきた。
結果的に、韓国は米国の圧力に屈して核兵器開発を放棄する。その際、アメリカがカードとして使ったのが、韓国への原発輸出だった。
当時、韓国は高度経済成長期への突入を控えており、電力はいくらあっても足りなかった。日本と同様、エネルギー需要のほとんどを輸入で賄っている韓国は、アメリカからの原発導入拡大を渇望していたのだ。
ちなみに、「核兵器開発は行いません」との誓約と引き換えに原発を輸出する取引は、現在も日・米・韓・中・露・仏の「原発先進国」と新興国の間で、盛んに行われている。しかし北朝鮮も含め、核武装の野心を実現させる上で「原子力の平和利用」をまず宣言しなかった国はない。
原発輸出という「商売」とセットになった核不拡散体制は、実に重大な矛盾をはらんできたのである。