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こども食堂に「来てほしい子」は来ているのか?

湯浅誠社会活動家・東京大学特任教授
全国各地のこども食堂で、今日はじめて「子どもの日」がどういう日かを知った子がいる(ペイレスイメージズ/アフロ)

子どもの日を祝うこども食堂

今日、子どもの日。

全国のこども食堂で、子どもの日にちなんだちょっとしたお祝いがなされている。

ふと思う。

いま、家庭以外で、地域の子どもたちに「子どもの日」の特別感を提供している場所は、どれだけあるだろう。

児童館や企業イベントはあるだろう。自治会の「子ども会」も、地域によってはあるかもしれない。

同時に、こども食堂も、そうした社会資源の一つになっているのかもしれない。

地域のすべての子を対象に、体験と思い出を提供し、子どもたちの健全な発達を願い、できることをする

こども食堂が、このような体験と思い出を提供する社会資源の一つとなりつつあることの意味を、改めて考える。

「来てほしい家庭の子供や親に来てもらうことが難しい」

先日、こども食堂に関する農水省調査が発表された。

これまでも埼玉県のこども食堂調査などあったが、全国規模でサンプル数274というのは、実質的に初めてのものだろう。

『こども食堂白書』とまではいかないが、白書Ver0.5という感じだ。

私が関わっている「広がれ、こども食堂の輪!全国ツアー」実行委も調査に協力した。

調査結果でいくつか気になる点があったが(注1)、ここで触れたいのは1つだけ。

「子供食堂の課題」で「(1)運営にあたり感じている課題」として、

42.3%のこども食堂が「来てほしい家庭の子供や親に来てもらうことが難しい」を挙げていたこと、だ。

なぜそう思うのか――運営者の抱く”もやもや”

こども食堂の運営者がこの点を気にすることは、理解できる。

低所得や養育困難な家庭の親や子が、自分のこども食堂にどれくらい来ているか、不安なのだ。

ほとんどのこども食堂は、地域に開かれた形、対象となる子どもや大人を限定しない形で運営されている。

現場に行けば「親子が楽しく食事する風景」に、よく出会う。

子どもをあやしながら食事したり、親同士で話し込んだり、子ども同士で走り回ったり……。

その風景は、町内会の「子ども会」や、児童館のちょっとしたイベント時と、何も変わらない

今日の子どもの日も、そんな感じだろう。

他方、こども食堂の運営者は、子どもの貧困問題に関心を寄せている人が多い。

「子ども会」と変わらない様子を見て、「これはこれでいいんだけど、本当に必要としている子に届いているんだろうか?」という”もやもや”があるのだ。

私は、その”もやもや”を抱くこと自体がとても貴重で尊敬に値するものだと共感するが、その上で、以下のことにも触れておきたい。

1)前提として――初歩的だけど基本的なこと

1-1)こども食堂の「限界」

こども食堂は、お金を配る場でもなければ、子どもに行政的な「措置」を行う場でもない。

来ることは義務ではないし、一般の認知度もまだまだ低い

知っていても「自分よりもっと大変な家庭のための場所」と誤解して来ない親子や、「施されるのなんて、まっぴらごめん」と反発して来ない親子や、人と関わること自体に抵抗感があって来ない人たちは、当然いるだろう。

やっている人たちが百も承知しているように、こども食堂に「限界」はある。

同時にそれは、家庭に限界があり、学校・施設・制度に限界があるのと変わらない。

しかし、限界のあることに意気消沈する必要はない

すべてに限界はあり、限界があるからそれぞれの役割があり、だから他との連携が生まれる。

限界があるものたちの、一つひとつの積み重ねで、世の中は動いていく(注2)。

きわめて初歩的なことだが、まずは前提として、その点は確認しておきたい。

1-2)「限界」があるから「連携する」

とはいえ「来ない人が(世の中には)いる」ことと「来てほしい人が(全然)来ない」ことの間には、大きな開きがある。

運営者の人たちは「どこどこの誰さん」と顔と名前が一致している「気になる親子」が実際にいて、その親子がこども食堂に現れないことを気にしているのかもしれない。

「どこどこの誰さん」という形で、地域に知られているような困難家庭は、いわば赤信号が灯っている

赤信号の家庭は目立つので、多くの場合、地域の人たちはもちろん、学校や児童相談所も把握している。しかし、どこも十全に対応できていない――そのような場合がある。

行政も含めて十分にリーチできていない人たちに、何らかのサポートをしたい――そのように願いながらこども食堂を開いている運営者の人たちは少なくない。

しかしこの領域は、役所の相談窓口であっても、学校やこども食堂であっても、「待つ」対応では難しい

誰かが出向いて、話して、連れてこないかぎり、本人たちが来ることは、あまりないだろう。

「アウトリーチ(手を伸ばす、出向く)」が重要なゆえんだ。

たとえば、学校のスクールソーシャルワーカーなどが家庭訪問し、家族支援を行いながら、友だち関係や地域の居場所づくりのためにこども食堂を利用する(スクールソーシャルワーカーがそのように促す、または連れてくる)などの、相互の役割分担を踏まえた連携が必要だ。

だからこそこども食堂は、地域や学校の理解を得て、連携できる相手になる必要がある

そのために私たちは「広がれ、こども食堂の輪!全国ツアー」を実施し、いま「こども食堂安心・安全プロジェクト」を実施している。

2)ところで「来てほしい子」とは誰なんだろう?

2-1)「来ている子」が「来てほしい子」でいいのでは?

こども食堂が「来てほしい家庭の子供や親に来てもらうことが難しい」という課題を乗り越えるためには、上記の実践をコツコツと積み上げるしかないのだが、実はこの回答に対してもう一つ気になっていることがある。

もしかして行政目線になってはいないか、ということ。

「来てほしい子」「必要としている子」という言い方には、どこか制度や基準を想定しているかのような印象を、私は持ってしまう(思い過ごしであればいいのだが)。

たとえば生活保護家庭とか、就学援助受給家庭とか、あるいはネグレクトの家庭とか。

たとえば、ある自治体で、小中学校の学用品費等を補助する就学援助制度の利用基準が年収300万円以下の世帯だとする。

そしてここに、年収350万円の家庭で暮らすシュウくんという子どもがいるとする。

行政は、シュウくんに就学援助を渡すことはできないし、渡してはならない。

シュウくんの家庭は基準を超えており、就学援助を「本当に必要とする子ではない」からだ。

基準そのものを見直すことはもちろんあっていいが、シュウくんだけをえこひいきし始めれば、行政はゆがみ、信頼を失い、果ては崩壊する

では、シュウくんの両親が共働きでいつも帰りが遅く、毎晩一人で夕ごはんを食べているシュウくんが友だちに誘われて、楽しそうだとこども食堂に来た場合はどうか。

シュウくんは「本当にこども食堂を必要としている子ではない」のだろうか。

そんなことはないだろう。

こども食堂が提供するのは食事だけではなく、対象となるのも「食べられない子」だけではない。

だんらんを求める子、体験を求める子、時間をかけてもらいたい子、すべてが対象だろう。

そしてこども食堂は学校と違って義務で行くところではない

つまり、来るからには何か来たい理由があるはずだ。

そう考えてくると、私は基本的には「必要としている子が来ているかどうか」ではなく、「来ている子が必要としている子」という考えでいいと思う。

ある客観的な基準で必要かどうかを振り分けるのは、すべての人のお金(税金)を使って運営されている行政の原則ではある。

しかし、民間の自発的活動であるこども食堂は、もっと柔軟に発想していい。

シュウくんを喜んで迎え入れられる点に、こども食堂のメリットがある。

「本当に必要としている子かどうか」にこだわりすぎると、民間ゆえのメリットが失われてしまう心配がある。

2-2)貧困対策と無関係?

では、「来ている子が必要としている子」という発想で運営して、結果的に「特に深刻な課題のない子どもたち」ばかりが来るのなら、結局こども食堂は子どもの貧困対策とは無関係、となるだろうか。

これも違うと思う。

これは結局「貧困とは何か」という問いに行きつく。

「特に深刻な課題を抱えた子」と聞いて、多くの人がイメージするのは赤信号の子だろう。

経済的に困窮しきって飢えているとか、身体的・精神的に虐待を受けているとか、家と部屋が悲惨な状態になっているとか。

しかし、日本政府および私たちが問題にしているのは、赤信号の子だけではない。

黄信号の子を含む

それが「相対的貧困」ということだ。

それは「餓死してしまう」という水準ではなく、「修学旅行に行けない」「進学できない」という水準を含む

黄信号の子は、赤信号の子ほど目立たない

自分からも訴えないかもしれないし、周囲からも「特に深刻な課題を抱えた子」とは認識されていないだろう。各種制度の対象にもなっていないかもしれない。

本人も親も、こども食堂のような場所に対して「もっと大変な人たちのための場所なんだろう」と誤解している可能性さえあるだろう。

しかし、本人たちには「課題感」があり、そして赤信号のように目立たないがゆえに「ちゃんと見てもらえていない」という意識もある。

そのような子でも参加できるところ、カバーできるところに、誰にでも開かれたこども食堂のメリットがある。

(参考)拙稿「『相対的貧困』の何が問題なのか? 実感なき数字を、それでも課題視するわけ」

2-3)「救済」と「予防」

赤信号がバンバン灯ってしまっている状態に対処することは、いわゆる「救済」だ。

児童相談所による「保護」などが典型だろう。

ときに保護者の親権を停止し、強制的に子どもを保護するようなことは、公権力の発動としてしかできないし、やってはいけない。

そこまでいかなくても、行政等のさまざまな専門職がよってたかって介入することが必要な場面は、少なくない。

他方、黄信号の子が赤信号まで至らないようにサポートすることは、いわゆる「予防」だ。

有害図書を子どもの目に留まるところに置かせないようにしたり、夜間に繁華街をパトロールしたりする「非行防止」の活動が盛んだった時期があるが、それは「予防」的な活動と言える。

そして、その担い手は地域住民だった。

「救済」は、その子に具体的な変化が表れて「成功」となるが、「予防」は、具体的な変化の表れないこと、ある意味では「何も起こらないこと」が「成功」となるので、一般的な意味ではよりわかりにくく、わかりやすい「手ごたえ」がなかったりする。

だが、どちらも等しく重要だ。

こども食堂は「子どもの貧困対策」と「地域交流拠点」の二本柱で運営されているが、前者がより「救済」的で、後者はより「予防」的だ。

「予防」とは、一言でいえば「子どもたちがこぼれにくい地域づくり」である。

たしかに今は何とかなっているかもしれない。

家庭が崩壊しているわけでもなく、ツギハギだかけの服を着ているわけでもない。

赤信号の子ほどには目立たないかもしれない。

しかし、何らかの欲求があって、こども食堂に来ている。

こども食堂に来て、友だちと遊んだり、多様な大人に関わってもらったりして、今は言葉にできなくても、新しい価値観を知ったり、それが人生の選択肢を広げていったりしているかもしれない。

それは、とてもとても大切なことだ、と私は思っている。

まとめ

赤信号の子に、行政が届かない支援を届けることは、立派な貧困対策(事後の「救済」)だ。

同時に、黄信号の子に、参加や体験の場を提供することも、同様に立派な貧困対策(事前の「予防」)と言える。

すでに大変な状況になってしまっている子に手を伸ばすには、専門家らとの連携やアウトリーチが重要で、それはこども食堂にとって「連携」の課題と認識されている。

同時に、黄信号の子も含めて「すべての子」に開かれているところに、民間の自発的活動であるこども食堂のメリットがある。

両者は「子どもがこぼれにくい地域づくり」という点でつながっている。

両者は矛盾していない。両方を追求することが可能で、望ましい

黙ってちまきや柏餅を食べながらも、「子どもの日にいろんな人たちと一緒にちまきや柏餅を食べた体験」によって、社交性や、文化や地域を大事に思う気持ちがはぐくまれる子がいるだろう。

黙ってちまきや柏餅を食べながらも、「子どもの日っていうのがあるんだ」「ちまきっていう食べ物があるんだ」「みんなで食事するって楽しいんだ」と衝撃を受けている子もいるだろう。

誰がどこでどんな影響を受けるか、すべてを予測することは難しく、だからこそ、すべての子に開かれていることの価値がある。

来ている子が必要としている子だ。

その子たちの社会資源として、こども食堂が持続していくことを望む。

――――

  • 注1:本稿は学術論文ではないので、調査についての留意事項をこまごまと述べるつもりはないが、回答数274のうち、東京66・埼玉18・千葉16・神奈川16で、この1都3県で116か所にのぼる。これに滋賀31・大阪18を加えると165か所と、回答数の6割を超える。逆に、こども食堂が100か所以上ある北海道と沖縄からの回答はそれぞれ3と1と少ない。また、滋賀とほぼ同数のこども食堂がある京都や兵庫という近隣県からの回答数はそれぞれ2と5しかない。そのため、実際のこども食堂の地域別分布と農水省調査の回答分布には開きがある。また、回答しているのは比較的力のあるこども食堂だという印象がある。したがって、こども食堂の「ありのまま」を映し出すには、さらなる調査が必要だろう。もちろん、不十分を承知でまずは足がかりを作ってくれた農水省調査の意義を損なうものではない。
  • 注2:私たちは「これさえやれば万事解決」という万能の処方箋があるかのように夢想するほど世間知らずではない。世の中は「隅のないオセロゲーム」のようなものだ。一つのコマ(石)を変えさえすればパタパタと他のコマもひっくり返るような隅があれば楽だが、そんな隅はない(あっても事後的にしかわからない)。重要なのは、一つひとつのコマを返すこと、1ミリを進めることだ。「こども食堂を一つ開設して、10人の子どもが来た。それでいったい世の中の何が変わるのか」と言う人はいるだろう。言わせておけばいい。その10人の子どもたちにとって、世界は「こども食堂がない世界」から「こども食堂がある世界」に変わった。そこに意味があり、価値がある。夢想では世の中は動かない。夢想と理想は違う。理想は、1ミリの方向性を指し示すとともに、その1ミリに意味と価値を与え、1ミリを肯定する。対して夢想は、その1ミリを批判し、軽視する。1ミリに対して「もっと大きなこと」「もっと重要なこと」を対置したがる。そして批判を通じて何か(自己かもしれない)を顕示しようとする。理想は1ミリを肯定し、夢想は1ミリを否定する。私は、実践家の態度は、理想の側にあると思う。だから「限界」のあることをおそれる必要はない。すべてに限界はあり、限界があるから次の1ミリが見え、そこに歩を進めることができる。理想は進み、夢想は進まない。1ミリを肯定し、次の1ミリへと踏み出そう。それが課題を解決していく。
社会活動家・東京大学特任教授

1969年東京都生まれ。日本の貧困問題に携わる。1990年代よりホームレス支援等に従事し、2009年から足掛け3年間内閣府参与に就任。政策決定の現場に携わったことで、官民協働とともに、日本社会を前に進めるために民主主義の成熟が重要と痛感する。現在、東京大学先端科学技術研究センター特任教授の他、認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長など。著書に『つながり続ける こども食堂』(中央公論新社)、『子どもが増えた! 人口増・税収増の自治体経営』(泉房穂氏との共著、光文社新書)、『反貧困』(岩波新書、第8回大佛次郎論壇賞、第14回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)など多数。

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