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天下分け目の「山崎合戦」の当日に天王山へ

山村純也京都の魅力を発信する「らくたび」代表
天王山の山頂(270m)は天守台だったとされる(※以下の写真もすべて著者が撮影)

 スタートはJR山崎駅から。駅前には千利休作の国宝待庵を持つ妙喜庵があり、すぐ南を通る西国街道沿いには、中世に油座で栄えた離宮八幡宮も鎮座する。天王山へは、JRの線路を渡って北側の山手に続く登山道へ。

 まずは急な登り坂を10分弱歩くと、通称「宝寺」で親しまれる宝積寺に到着する。神亀元(724)年に聖武天皇の勅命を受けた行基によって開かれた真言宗智山派の寺院で、山号は天王山、本尊は十一面観音。聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀り、大黒天宝寺とも呼ばれている。

本堂正面より。午前中に法要が行われていた
本堂正面より。午前中に法要が行われていた

 天正10(1582)年に起こった山崎合戦の舞台となり、その際に秀吉の本陣が置かれた。現存する三重塔は、秀吉が一夜で完成させたという伝説も残る。また元治元(1864)年には、禁門の変で尊皇攘夷派の真木和泉を始めとする十七烈士らの陣地にもなった。

 参拝は自由だが、有料拝観するなら全国的にも珍しい閻魔大王像が必見だ。こちらは寺院側の説明では、鎌倉時代の作で、司命尊、司録尊、倶生神、闇黒童子の四体も配置された貴重なもの。そして本尊の十一面観音も見逃せない。鎌倉前期の院派のリーダーであった院範の貴重な作であることがわかっており、重要文化財となっている。

 そこから山道へ入り、登り坂を10分ほどいくと、二箇所の展望台が見えてくる。最初は大阪方面を見下ろすことができ、次に山崎合戦の古戦場を見渡せる。山崎合戦は「天王山の戦い」とも呼ばれるが、史実としては天王山で戦闘が繰り広げられた記録はない。天王山の麓から西側に広がった地域、現在の小泉川を堺に両軍が横展開して激突し、数に勝る秀吉軍が2時間程で勝利したと伝わる。展望台付近には、秀吉軍が軍旗を掲げた「旗立て松」が今もなお守り伝えられている。

展望台からは合戦の舞台が手に取るようにわかる
展望台からは合戦の舞台が手に取るようにわかる

五代目の旗立て松。見落としそうなくらいまだ小さい
五代目の旗立て松。見落としそうなくらいまだ小さい

 この付近からは酒解神社の神域で、一の鳥居も見える。鳥居を過ぎると、すぐに見えてくるのが十七烈士の墓。元治元(1864)年の禁門の変で敗れた長州軍の一翼を担ったリーダー、真木和泉以下17名がこの地まで敗走し、ここで壮絶な自害を遂げた。

17人全員の墓碑があり、真木和泉の墓碑は裏側の列の真ん中に立っている
17人全員の墓碑があり、真木和泉の墓碑は裏側の列の真ん中に立っている

 そこから酒解神社までは徒歩すぐ。天王山の9合目付近に鎮座する神社で、創建は奈良時代、平安時代の延喜式神名帳にも名神大社であることが記されている。中世になって山下の離宮八幡宮の勢力が強大となったことから、現在地に移り、天王社と呼ばれるようになったことから山も天王山という名が定着した。

アジサイとともに、サツキもまだ咲いていた
アジサイとともに、サツキもまだ咲いていた

 こちらの神輿庫は一般的に多い校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されており、この形式では最古であり、また他の時代でも極めて数が少ないことから重要文化財に指定されている。

残念ながら柵があって近づくことはできない
残念ながら柵があって近づくことはできない

 ここから天王山山頂までは緩やかな傾斜が続く。古来、大山崎周辺は京都の出入口となっており、南北朝の争いや応仁・文明の乱では、しばしば戦場となり、その際、軍勢が天王山山頂に陣取って、城が築かれることもあったいう。

 山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、翌月には、山頂に山崎城を築き、大山崎を城下町として保護している。この時、秀吉は織田信長の後継者を意識し、千利休らと大山崎で茶会を開いたと伝わる。この地で天下の趨勢を見定めたという意味では、短い間であったが、日本の中心であったとも言える。しかし、大坂城築城が本格化すると、天正12(1584)年4月に山崎城は破却された。この時、山崎城の「天守」も取り壊されたといい、高層建築物があったことがわかっている。現在も天守台、曲輪、土塁、空堀、井戸、食い違い虎口、石垣などが残存していた。

山頂は天守台となっており、本丸跡の解説文では戦いの後の歴史が語られていた
山頂は天守台となっており、本丸跡の解説文では戦いの後の歴史が語られていた

 当日山頂に上がったのが14時半頃、先客は二組のみで人気は少なかった。道中も一組が先に追い越していった程度。小雨が降るタイミングもあり、天候不良であったことも登山者の少なかった理由かもしれない。とにかく宝寺から休憩を挟んでも40分くらいで登ることができた。

 帰りは来た道を帰るが、旗立て松を過ぎると別のルートで下山する。滑りやすい足下に注意を払いながら降りること約15分、「山崎聖天」の名で親しまれる観音寺に到着した。

 昌泰2(899)年に宇多法皇によって創建されたが、その後は衰退し、江戸初期に摂津勝尾寺の僧であった木食以空によって再興された。歓喜天(聖天)を鎮守として祀り、特に住友家、鴻池家、三井家などの商人から厚い信仰を集めてきた。

 幕末には禁門の変に巻き込まれたことから、避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して建物は焼失し、明治23(1880)年以降に順次再建されて現在に至っている。

手前が本堂で十一面千手観音を祀り、奥が聖天堂で大聖歓喜天を祀る
手前が本堂で十一面千手観音を祀り、奥が聖天堂で大聖歓喜天を祀る

 ここからは急な下りの参道を一気に降り、JRと阪急の線路を越えると西国街道に出ることができ、程なくゴール地点の阪急電車の大山崎駅に到着する。

 天王山に登ってみて感じたのは、はやりこの山の戦いにおける重要性だ。山麓の大山崎の街と、淀川までの幅が今もなお非常に狭い。その狭い場所に、JR、阪急、新幹線、国道171号線、名神高速道路、西国街道がひしめき合っているのだ。

 秀吉の4万に対して1万6千の光秀軍は、どうしてもこの狭いエリアで勝負をしたかったに違いない。そして天王山を押さえることは、戦いを決定的に優位にする条件でもあっただろう。光秀軍はそれがどちらもできなかった。つまり戦う前から敗北は決定的だったということだ。この山から見下ろすと、光秀軍の戦いの厳しさをまさに肌で実感することができた。

 登山道はきちんと整備が行き届き、途中に設置された六箇所の大型の絵画と解説文が、戦いをよりイメージしやすくしてくれる。ぜひ一度登ってみることをお勧めしたい。

絵は岩井弘氏、文は堺屋太一氏によるもの
絵は岩井弘氏、文は堺屋太一氏によるもの

京都の魅力を発信する「らくたび」代表

1973年、京都生まれ。立命館大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。卒業後は大手旅行会社に勤務。2006年4月、京都観光を総合的にプロデュースする「(株)らくたび」を創立。以後、ツアープロデューサー、ツアー講師として活躍。2007年3月に「らくたび文庫」を創刊。現在、NHK文化センター、大阪シティーアカデミー、ウェーブ産経、サンケイリビング新聞社の講師、京都商工会議所の京都検定講師も務める。著書・執筆に『幕末 龍馬の京都案内』、『京都・国宝の美』、『見る 歩く 学ぶ 京都御所』(コトコト)など。京都検定1級取得。

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