「庭の日」にお届けする、京都の庭園の移り変わり
そもそも平安時代前期の庭園は自然を重視し、「自然のある場所」に建物を造って自然を愛するというスタイルであった。そのためおのずと場所は制限されていく。庭園用語でいうところの「池泉式」や「池泉回遊式」と呼ばれるグループだ。
代表的なものは大覚寺庭園。大沢の池を中心に造営され、嵯峨天皇は空海とここに船を浮かべて観月を楽しんだという。この庭園形式は「寝殿造庭園」とも呼ばれている 。
平安時代後期になると同じ形でもこれが「浄土式庭園」というように名前を変える。庭園に自然の美しさだけでなく、来世での憧れである極楽浄土をイメージし、そこにあたかも遊んでるかのような雰囲気を作り出した。
代表的なものに宇治市の平等院の鳳凰堂前の庭園や、木津川市の浄瑠璃寺の阿弥陀堂前の庭園が挙げられる。
時代が鎌倉時代に入ると武士の支配する時代となり、武士好んだ枯山水庭園が出現する。まずその入口となったのが、西方寺(苔寺)や天龍寺の庭園だろう。どちらも夢窓疎石によって作庭された。
景色(庭園含む)の評価のひとつに「名勝」がある。この中でもさらに素晴らしいものを「特別名勝」と呼び、全国に36箇所ほど指定されている。この中で、天龍寺の庭園はそこにさらに「史跡」という冠がつき、「史跡及び特別名勝」となった第一号である。嵐山という「借景」があり、枯山水が導入された歴史が評価されたものと考えられる。
その後は、鎌倉時代後期から室町時代にかけては枯山水庭園の全盛期となる。多くは臨済宗の庭園に見られ、代表的なものが龍安寺の石庭だ。また大徳寺や妙心寺の多くの塔頭寺院にも造られた。
これらは一般的に武士の修行のための要素も強く、禅宗(臨済宗)を信仰した武士たちは、この枯山水庭園と対峙することによって心の修行を積んだ。
そして安土桃山時代になるとまた再び池泉式の庭園が復活する。代表事例として醍醐寺の三宝院庭園を挙げたい。この時代は戦乱が終わり、平和な時代となったことで、修行よりも楽しむための庭園が求められたからであろう。もちろん枯山水庭園が無くなったわけではなく、混在の時代に入る。
近代に入ると京都では琵琶湖疏水を使った別荘庭園が多く造られ、これらは七代目小川治兵衛が手がけた。その先駆けとなったのが無鄰菴だ。持ち主で、依頼主でもあった山縣有朋の指導もあって小川治兵衛の評価が高まり、この周辺の別荘以外にも平安神宮神苑や円山公園なども手がけた。
その他、昭和の作庭家として知られる重森三玲や中根金作など、庭園研究家が作庭を手がける事例も発生し、より庭園の種類や解釈も多様化し、現在に至っている。