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本能寺の変を実地検証し、阿弥陀寺の信長忌へ

山村純也京都の魅力を発信する「らくたび」代表
6月2日に信長忌が行われた阿弥陀寺

まずはなんといっても本能寺跡へ。実は織田信長の定宿は妙覚寺であったことから、本能寺で宿泊したのは稀なケースだったと言える。この時、嫡男信忠も上洛しており、信忠が妙覚寺へ宿泊していたのだ。本能寺跡へは、堀川高校を目印に歩くと、その東側に石碑が立っている。当時の本能寺の実際の大きさは南は蛸薬師通、北は六角通、東は西洞院通、西は油小路通に囲まれたとされ、濠も巡らされていたことがわかっている。ここに天正10年(1582年)6月2日の午前4時に明智光秀率いる13000の兵が押し寄せた。この謀反が光秀の仕業と知った信長のセリフは有名な「是非に及ばず」。信長はその瞬間に無念の死を受け入れつつも、ひとしきり戦った後に炎の中自刃。光秀必死の捜索も信長の首は見つけることはできなかった。

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続いて光秀軍は信忠が泊っていた妙覚寺へ。信忠は本能寺での異変に気づいて父を助けようと向かったが、途中で光秀軍にさえぎられて結局は妙覚寺の隣の二条新御所へと移動した。こちらは織田信長が造営した堅固な宿所で、正親町天皇の皇子であった誠仁親王が住んでいた。この火急にもかかわらず、信忠は光秀に休戦を申し出て親王らを内裏へと逃がし、その後、防戦一方ながら奮戦の末これまた自刃した。同じように首は見つからなかったという。この信忠の死は歴史を大きく動かすこととなる。これによって織田家の後継者争いが勃発し、それに乗じて光秀を討った羽柴秀吉が天下人へと成り上がることとなったのだ。この時信忠が迷わず逃げることを選択していれば。。。同じく妙覚寺にいた織田有楽斎(信長弟)や前田玄以などは脱出していることからも信忠の潔すぎる判断が悔やまれる。妙覚寺はその後秀吉の命によって上京区へ移転し、現在は、上妙覚寺町と下妙覚寺町という地名に残っているのみで、信忠が籠った二条新御所は現在マンガミュージアムとなっている。

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二条新御所の跡地には本能寺の変の後、正親町天皇の勅願によって織田信忠を祀る大雲院が創建された(円山公園南に現存)。実際に本能寺から妙覚寺へと歩いてみると1キロほどしかないため15分程で到着する。このほぼ同じ位置にあったともいえる本能寺と妙覚寺を光秀軍は同時に攻めていないことからも、いかに光秀が信長を討つことしか頭になかったことがわかる。信長を亡き者にした後の光秀の動きも非常に計画性に欠けるものであった。その後手を「中国大返し」を敢行した秀吉に突かれることとなる。

信長、信忠父子の首は見つからなかったといわれているが、織田家と親交のあった阿弥陀寺の清玉上人は弟子を従えて、燃え盛る本能寺へ入り、信長の遺骨を引き取ったとも伝えられ、阿弥陀寺には信長、信忠の墓のみならず、この本能寺の変で命を落とした森蘭丸ら家臣の墓も残されている。6月2日は信長の命日にもあたるため阿弥陀寺では「信長忌」が行われ、通常非公開の本堂が公開され、本尊の阿弥陀如来坐像のほか、信長、信忠、信広(信長の兄)、清玉上人の木像や、光秀、秀吉の書状、信長の手槍などの寺宝も公開されている。有料1000円。墓は通常も参拝できるが、6月2日は法要があったことから多くの卒塔婆が墓には建てられていた。(写真はすべて筆者撮影)

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京都の魅力を発信する「らくたび」代表

1973年、京都生まれ。立命館大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。卒業後は大手旅行会社に勤務。2006年4月、京都観光を総合的にプロデュースする「(株)らくたび」を創立。以後、ツアープロデューサー、ツアー講師として活躍。2007年3月に「らくたび文庫」を創刊。現在、NHK文化センター、大阪シティーアカデミー、ウェーブ産経、サンケイリビング新聞社の講師、京都商工会議所の京都検定講師も務める。著書・執筆に『幕末 龍馬の京都案内』、『京都・国宝の美』、『見る 歩く 学ぶ 京都御所』(コトコト)など。京都検定1級取得。

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