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「レッドブル」回収で、数字について考える

矢萩邦彦アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

「レッドブル」のペットボトル版が販売中止になり回収されたそうで。僕はたまたま発売後すぐに飲んだのですが、冷えた缶の感触も込みで目が覚める感じがするので、エナジードリンク系は特に缶の方が好きですね。さて、それはさておき回収騒ぎの原因について、ちょっと考えることがあったので書いてみたいと思います。

今回の回収の原因は、オーストラリア工場で作ったため、賞味期限の表記が欧風になっていたことでした。つまり、年月日ではなく、日月年になっていたということですね。もちろん輸入業者が日本表記に合わせるのがルールなのですが、実際中身に問題がなく、それを証明できるのならば何も全て回収せずに、条件付きで特別対応をしても良いようにも思います。少なくとも消費者サイドは無自覚にその対処を受け入れずにちょっと考えて欲しい気がします。

◆無自覚に受け入れている数値化

賞味期限というのは、とても不思議なもので、例えば何万年も昔の岩塩が切り出されて、砕かれて、パッケージされた商品になると賞味期限がついてしまうわけです。日本の場合は食品衛生法などで、それが食品であれば必ず表示しなければいけないことになっています。中国に訪れた際、お茶請けに「陳皮」という柑橘類の皮を干したものを出されたことがあるのですが、その時にされた説明は驚きで、賞味期限など無く古ければ古いほど高級だ、とのことでした。まるでウィスキーですね。

東日本大震災で復興支援活動をしていた際、被災直後のある避難所にお菓子が大量に届いたのだが、賞味期限が一日だか二日だか切れていたといって、行政の職員が全て廃棄してしまったという話を聞きました。どこまで本当の話なのかは分かりませんが、そういうことはあるだろうな、とちょっと怖くなりました。

◆そもそも「賞味期限」って?

農林水産省・厚生労働省によれば、そもそも賞味期限とは「美味しく食べられる期限」で、「賞味期限を表示した食品は傷みにくいので、期限を過ぎても、すぐに捨てる必要はありません」とのことです。賞味期限を気にする人の多くは、傷みやすい食品に記載されている「消費期限」と混同しているんですね。数字に対して神経質になるのに、言葉の概念に対してはかなり無頓着なんですね。

僕は講師業が多く学生と接することが多いのですが、夏にある生徒が腹痛を訴えた際、「さっき食べてたパン、古くないか?」と聞いたらコンビニ袋の食べかけのパンを出して「賞味期限切れてないから大丈夫」と言いました。もちろん大丈夫な蓋然性は高いのでしょうが、完全に数字で判断しているんですね。そういえば、この15年ほどで、クラスに一人はいた何でも匂いをかぐタイプの生徒がいなくなってきたような気がするのは、勘ぐりすぎでしょうか。だとしたら安全を数字に委ねた我々人間は退化の道を歩んではいないでしょうか?

◆「数字」の魔力と水平思考

数字に弱い人ほど、数字に対して信頼感があるような気がします。専門家がキッチリ調査して、厳しい審査や法律の下表記されている、という暗黙の前提が、完全に思考停止を促している気がします。それこそ現代の魔術です。先程の岩塩の例のように、いくら専門家が厳しい基準で設定した数字だとしても、そもそもそうすることがナンセンスな場合もあると思います。前提を疑う水平思考を教育に盛り込むべきだ、と常々感じていますが、現場ではそういう思考をする生徒は「面倒な生徒」だと捉えられることが多いように感じます。

ルールに乗っかる前に、そのルールについて考えてみる。そういう癖を付けることも、教育の大事なミッションなのではないかと思うのですが、さて如何でしょうか。(矢萩邦彦/studio AFTERMODE)

アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

1995年より教育・アート・ジャーナリズムの現場でパラレルキャリア×プレイングマネージャとしてのキャリアを積み、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を探究するアルスコンビネーター。2万人を超える直接指導経験を活かし「受験×探究」をコンセプトにした学習塾『知窓学舎』を運営。主宰する『教養の未来研究所』では企業や学校と連携し、これからの時代を豊かに生きるための「リベラルアーツ」と「日常と非日常の再編集」をテーマに、住まい・学校職場環境・サードプレイス・旅のトータルデザインに取り組んでいる。近著『正解のない教室』(朝日新聞出版)◆ご依頼はこちらまで:yahagi@aftermode.com

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