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鈴鹿8耐・40回目の夏。オートバイ耐久の祭典が守り通した伝統と歴史を振り返る

辻野ヒロシモータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト
ヤマハFZR750に乗るケニー・ロバーツ【写真:MOBILITYLAND】

7月27日(木)〜30日(日)に三重県の鈴鹿サーキットで開催されるオートバイレース「鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)」は今年で40回目の記念大会を迎える。80年代から90年代にかけて「若者のお伊勢参り」と表現された全盛期には及ばないものの、近年は歴史ある耐久レースとして再び脚光を浴び、特に海外から「SUZUKA 8 HOURS」は大きな関心と注目を集めている。このイベントがなぜ40回の長きに渡り開催され続けたのか、改めてその歴史を振り返ってみよう。

8耐本番に向けテスト走行する中須賀克行のヤマハYZF-R1
8耐本番に向けテスト走行する中須賀克行のヤマハYZF-R1

オートバイレースブームの火付け役

「鈴鹿8耐」がスタートしたのは39年前の1978年(昭和53年)のこと。舞台である鈴鹿サーキットはホンダの創始者、本田宗一郎の発案によって1962年にオープン。当時、オートバイの「ロードレース世界選手権(グランプリ)」に参戦していたホンダが国際レースの開催を目指して作った1周約6kmのレーシングコースである。

1963年から65年までの3年間、鈴鹿サーキットは「グランプリ」を開催して話題になったものの、本田宗一郎の情熱や願いとは裏腹にオートバイレースの競技人口は思うようには増えなかった。1970年代には2輪、4輪ともに排ガス規制への対策など環境問題に取り組むために自動車・オートバイメーカーはモータースポーツ活動から相次いで撤退。日本のモータースポーツに厳しい逆風が吹き付けた70年代、オートバイレースはまだ興行としての成功には至っていない時代だった。

1978年、「インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース」として1回目の大会を鈴鹿サーキットが開催。「グランプリ」が長く日本から遠ざかっていた時代だが、当時のオートバイファンから注目を浴びていた「耐久レース」に目を付けた。ヨーロッパの耐久レースにはホンダが「RCB1000」を参戦させ、あまりの強さから「不沈艦」の異名で知られることになる。世界を席巻していたホンダワークスのRCB1000の参戦を目玉に新しいレースイベントが作られたのだ。

「不沈艦」と呼ばれたホンダRCB1000(1978年)
「不沈艦」と呼ばれたホンダRCB1000(1978年)

ただ、第1回、第2回(1979年)の大会はまだ世界選手権の1戦ではなく、国内のローカルチームが集って開催された鈴鹿独自のレースである。第1回大会に参加したマシンの大半がスプリントレース用の「ヤマハTZ」や「ホンダRS」などの小排気量レース専用マシンだったことからも、初期の8耐がいかにごった煮的なレースであったかが分かる。ヨーロッパで無敵の実力を誇ったホンダワークスが優勝の最有力と目された第1回大会、ホンダワークスを打ち破って優勝したのは国内最強のエンジンチューナーだった「ヨシムラ」が走らせた「スズキGS1000」だった。

1978年優勝のヨシムラ。スズキGS1000 【写真:MOBILITYLAND】
1978年優勝のヨシムラ。スズキGS1000 【写真:MOBILITYLAND】

日本で久しぶりに開催されるインターナショナル感あふれるレース。7月末という夏真っ盛りの中の耐久レース。お祭り感溢れる花火の演出などが若者の心を捉え、「鈴鹿8耐」はやがて到来するバイクブームの波に乗り、日本国内を代表するレースイベントへと成長していった。

8耐の意味合いを変えたヤマハの挑戦状

鈴鹿8耐が始まってすぐに起こった空前の「バイクブーム」。国内のオートバイ販売台数が230万台を超え(1980年)、生活の足として、若者たちにとってカッコイイ乗り物としてオートバイが飛ぶように売れた。そんな時代、日本国内の販売台数で覇権を争ったのが「ホンダ」と「ヤマハ」。両社の新車販売競争は「HY戦争」と呼ばれたほど壮絶だった。

1980年から「世界耐久選手権シリーズ」の1戦に加わり、本場ヨーロッパの耐久レーシングチームが鈴鹿8耐の主役となっていた80年代。その流れを一変させたのが「ヤマハ」の参戦である。

1984年から「世界耐久選手権」は排気量750ccの「TT-F1」と呼ばれる車両規定に移行。その初年度を制したのはホンダ(RS750R)だったが、翌1985年の第8回大会にヤマハがファクトリーチームを率いて参戦。ライダーには1978年〜80年に3年連続で「グランプリ」の最高峰500ccクラスで王者に輝いたケニー・ロバーツ、そして日本の500ccクラスの王者である平忠彦(たいら・ただひこ)を起用し、真夏の祭典で打倒ホンダを掲げて参戦した。

ケニー・ロバーツ【写真:MOBILITYLAND】
ケニー・ロバーツ【写真:MOBILITYLAND】

キング・ケニーと呼ばれ、「グランプリ」に新時代の風を吹かせ、83年に引退したワールドチャンピオンの復帰参戦は鈴鹿8耐の価値を一変させた事件と言える。すでに観客数が鰻登りに上昇していた鈴鹿8耐。オートバイに乗って鈴鹿に行くことが夏休みのトレンドとなり、足の踏場もないほどの観客が訪れることになる。当時のヤマハファクトリーチームのスポンサーは資生堂の整髪料「TECH21(テック・ツー・ワン)」。甘いマスクでスター性抜群の全日本チャンピオン平忠彦がテレビCMにも出演し、まさにオートバイと若者の生活が密接に結びついていた時代だった。

思い出深い人が多いTECH21カラーのヤマハ【写真:MOBILITYLAND】
思い出深い人が多いTECH21カラーのヤマハ【写真:MOBILITYLAND】

ヤマハが参戦し、ロバーツが最速記録を塗り替えた1985年の鈴鹿8耐。首位を独走したヤマハファクトリーチームが残り30分で突然のスローダウン。平がホームストレートでマシンを止めるという悲劇的なシーンはテレビ中継や雑誌で広く伝えられ、「耐久レース、鈴鹿8耐」のドラマ性がオートバイファンに刷り込まれた。この鈴鹿8耐史上最大のドラマが呼び水となり、90年代にかけて観客がさらに増加することになる。

世界的名声を得るサーキットに

1985年の時点でも既に15万人の観客を動員した「鈴鹿8耐」。当時、人口が14万人だった鈴鹿市にこれだけ多くの観客がやってくるというメガイベントへと急成長を遂げていた。この観客受け入れの経験とノウハウは「鈴鹿サーキット」をさらなるステージへと押し上げる。1987年にコースや観客エリアを大改修し、鈴鹿サーキットは「グランプリ(現在のMotoGP)」や「F1世界選手権」など最高峰の世界選手権レースを開催。その特徴的なコースレイアウトが生み出す名勝負がテレビを通じて世界中の人々に伝えられ、SUZUKAは世界的名声を得るレーシングコースとなっていく。

また、80年代後半から90年代の鈴鹿8耐にはホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキのファクトリーチームやトップチームが参戦。ワイン・ガードナー、ミック・ドゥーハン、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツなどグランプリで活躍するトップライダーの参戦は当たり前となり、バブル景気もあいまって芸能人を監督に起用するチームも増加。テレビ番組で取り上げられることは日常茶飯事で、各チームが有名スポンサーを獲得して参戦する時代となった。1990年の観客動員数は16万人。その人気はピークを迎えた。

1990年の鈴鹿8耐 【写真:MOBILITYLAND】
1990年の鈴鹿8耐 【写真:MOBILITYLAND】

1990年代はF1、グランプリロードレースと並んで鈴鹿8耐の勝利に大きなプライオリティを置くホンダに対抗し、1992年に伊藤ハムレーシング・カワサキ(カワサキファクトリー)が優勝。1996年に当時の最年少コンビとなる芳賀紀行(はが・のりゆき)、コーリン・エドワーズを起用したヤマハレーシングチーム(ヤマハファクトリー)が優勝。各メーカーのファクトリーチームによるスリリングなレースが毎年展開され、鈴鹿8耐は華やかさを増していた。

しかしながら、90年代はバブル崩壊後の余波もあり、各オートバイメーカーがモータースポーツ活動を徐々に縮小。それに加え、鈴鹿8耐の全盛期を支えた若者が家族を持つ時代となり、オートバイ愛好者も販売台数も急速に低下。鈴鹿8耐に徐々に陰りが見え始めた。

そのテコ入れとして「TRF」などの人気ミュージシャンを呼び、前夜祭など夏祭り的イベントの充実化を図る。また、当時の人気テレビ番組「ガチンコ」では「ガチンコバリバリ伝説」と題した企画が実施されたり、様々なアプローチで人気回復に努力した。しかしながら、観客数は大幅に減少してしまったのである。

雌伏の2000年代。それでも歴史は続いた。

オートバイユーザーの減少、景気の低迷など様々な要素が鈴鹿8耐を苦しめた。各メーカーは4ストロークエンジン化し「MotoGP」と名称を変えたロードレース世界選手権(グランプリ)に注力することになり、2000年代前半にはホンダ以外のファクトリーチームは撤退。ホンダファクトリーの「セブンスターホンダ」vs「ヨシムラ」を代表とするプライベーター勢という戦いの構図になっていった。

ホンダファクトリーチームHRCが走らせたセブンスターホンダCBR1000RRW
ホンダファクトリーチームHRCが走らせたセブンスターホンダCBR1000RRW

「あの頃はよかった」という全盛期を懐かしむ声が嫌というほど聞かれるようになったのはこの2000年代だ。スペインのドルナによってしっかりとオーガナイズされた「MotoGP」(グランプリ)がシリーズとしての価値をさらに高めたことでレース数が増加し、ホンダファクトリーですらグランプリライダーを招聘することが難しくなった。また年々上昇する気温、路面温度の影響もあり、夏ではなく秋またはトップライダーが参戦しやすいグランプリシーズンの終了後開催に変更してはどうか、という意見が聞かれるようになったのもこの頃である。

2008年に起こったリーマンショックの影響はさらに大きく、2000年代後半にはホンダファクトリーも撤退。参加台数は70台の枠に対して出場50台にまで減少。いよいよ鈴鹿8耐は危機を迎えることになる。しかしながら、鈴鹿サーキットは真夏(7月最終週)に開催される8時間の耐久レースという伝統を守り通し、開催を続けてきた。

2007年の第30回大会優勝はヨシムラだった【写真:MOBILITYLAND】
2007年の第30回大会優勝はヨシムラだった【写真:MOBILITYLAND】

世界から再評価されたSUZUKA 8 HOURS

2010年代になると「鈴鹿8耐」に新たな風が吹くことになる。スーパーバイク世界選手権や各国のロードレース選手権に参戦するトップライダーたちが鈴鹿8耐に参戦し、SNSを通じて海外のファンに報告するようになった。当時、鈴鹿8耐のテレビ中継は国内のみだったため、海外のファンたちにとって「SUZUKA 8 HOURS」は興味深い存在になっていく。

2015年に電撃的な復帰参戦をした元世界王者のケーシー・ストーナー
2015年に電撃的な復帰参戦をした元世界王者のケーシー・ストーナー

2013年、2014年には元ワールドチャンピオンのケビン・シュワンツが参戦。さらに2015年には同じく元ワールドチャンピオンのケーシー・ストーナー、さらに現役MotoGPライダーのポル・エスパルガロ、ブラッドリー・スミスがヤマハファクトリーから参戦。2016年には残念ながら今年故人となってしまった元ワールドチャンピオンのニッキー・ヘイデンが参戦するなど「鈴鹿8耐」はグローバルな話題を提供するイベントに戻りつつある。

そして、ヨーロッパのスポーツテレビ局「ユーロスポーツ」がFIM世界耐久選手権シリーズ(EWC)のプロモーターに就任し、2015年から鈴鹿8耐の生中継を世界各国に放送。今年、2017年はフランスのル・マン24時間レースを含むシリーズのチャンピオンを決定する最終戦に鈴鹿8耐が設定され、さらにレースとしての重要度が増した。歴史と伝統を大切にするヨーロッパの人々から「祭典」の継続、重ねた歴史が再評価されたのだ。

FIM世界耐久選手権(EWC)ルマン24時間レース
FIM世界耐久選手権(EWC)ルマン24時間レース

こういう流れに乗って40回目の節目を迎えることになった「鈴鹿8耐」。レギュレーションの変遷、紆余曲折、栄枯盛衰の歴史こそあったものの、「午前11時30分スタート、午後19時30分ゴール」「フィニッシュ後に花火を打ち上げる」という第1回大会からの伝統を守り、鈴鹿8耐は「真夏の祭典」であり続けた。今年も現役MotoGPライダーのジャック・ミラー、スーパーバイク世界選手権のマイケル・ファン・デル・マーク、アレックス・ロウズをはじめ、世界のトップライダー達が他のレースでは絶対に登場しないスペシャルなマシンに乗って参戦する。この「特別感」こそが「鈴鹿8耐」最大の魅力なのだろう。

夕刻から夜間走行へ入る鈴鹿8耐の恒例の時間【写真:MOBILITYLAND】
夕刻から夜間走行へ入る鈴鹿8耐の恒例の時間【写真:MOBILITYLAND】
モータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト

鈴鹿市出身。エキゾーストノートを聞いて育つ。鈴鹿サーキットを中心に実況、ピットリポートを担当するアナウンサー。「J SPORTS」「BS日テレ」などレース中継でも実況を務める。2018年は2輪と4輪両方の「ル・マン24時間レース」に携わった。また、取材を通じ、F1から底辺レース、2輪、カートに至るまで幅広く精通する。またライター、ジャーナリストとしてF1バルセロナテスト、イギリスGP、マレーシアGPなどF1、インディカー、F3マカオGPなど海外取材歴も多数。

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