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東芝の成功体験が心配

津田建二国際技術ジャーナリスト・News & Chips編集長

東芝が半導体メモリ事業の売却を巡り、Western Digitalと今月決着に向けて協議に入った、と8月23日の日本経済新聞が報じた。WDに加え、産業革新機構や日本政策投資銀行、ファンドのKKRとも連合を組むようだ。このような組み合わせなら最初から予想できた。なぜここまで時間がかかったのだろうか。東芝の頼りない経営陣がずっと運営してきたからではないか。

東芝メモリにいる社員は、年初に思うように投資できずにトップのSamsungとは差を広げられ、3位のWestern Digitalには並ばれ、4位のMicronからは猛烈に追い上げられている(図1)ことにさぞかし地団駄踏んでいるに違いない。NANDフラッシュやDRAMビジネスは、1000億円単位の設備投資をしなければ世界と競争できないという、きわめて特殊なハイリスクハイリターンのビジネスだ。東芝があえてこのビジネスを選択し、生き残りを果たそうとする以上、その規模の投資は避けられない。これが大量生産で利益を生む半導体メモリビジネスの宿命だからである。

 図1 NANDフラッシュのトップランキング 出典:TrendForce
図1 NANDフラッシュのトップランキング 出典:TrendForce

半導体メモリ以外のビジネスは少量多品種の世界。スマートフォン向けのチップも大量生産だが、メモリ以外は量産規模ならTSMCなどファウンドリ(製造専門の請負サービス業者)が担ってくれる。このため、QualcommやMediaTekなどのアプリケーションプロセッサメーカーはファブレスでビジネスをやってきている。メモリ以外で、最先端の微細化工場も持って1000億円規模の投資を行えるのはIntelだけ。なぜか。Intelチップの単価がメモリより平均1桁、つまり10倍高いからだ。

半導体メモリビジネスは極めて特殊なビジネスである。このことを理解せずにメモリビジネスに参入すれば大けがをするだろうし、またメモリではないビジネスでメモリ並みの設備投資を行うことはもちろん無謀な経営だ。実はかつての日本の半導体は、システムLSIと称して、人やソフトウエアに投資せず、設備に投資して大失敗してきた歴史がある。ここでメモリビジネスを考えてみる。

かつて1970年代のIC勃興期からIC、特に日本の得意な品種はDRAMメモリだった。16Kビットまでは欧米の半導体メーカーは、混とんとしていたが、64Kビット(8KB)からは日本ががぜん強くなった。1980年代後半から1990年代前半にかけてのことだ。当然大規模な投資を日本のメーカー(NEC、日立製作所、東芝、三菱電機、富士通、沖電気工業など)は行ってきた。誰が見てもわかるようにメモリ容量はわずか8Kバイトしかない。ということは、メモリ容量はひたすら増やせばよいことになる。DRAMメーカーは技術的な可能性を配慮して3年ごとに4倍の容量を増やしてきた。64K、256K、1M、4M、16M、64M、256Mとずっと増やしてきた。ただし、32ビットプロセッサシステムでメモリをアドレッシングできるのは4Gバイトまで。そろそろその限界に近づくと、512M、1G、2Gという程度で少しずつ集積度向上のペースは鈍ってきた。

このようにメモリを作ってくると、顧客の望む仕様をこと細かく聞いて、ICに落とし込むという作業とは無縁の世界が続いてきた。このため、ICを設計製造するという考えが作り手主体になってしまっているのである。多くの日本の半導体メーカーは、韓国にDRAMで負けた原因を追究・分析することなく、システムLSIへと舵を切ったが、東芝だけがDRAMをやめた後にフラッシュメモリを持っていることに気が付き、システムLSIに加えフラッシュも生産することにした。この「たまたま」(東芝のある元技師長)フラッシュの製品化を進め、携帯電話やデジタルカメラ、スマートフォンへと需要が膨らんでいったという「幸運」に恵まれ、システムLSIが失敗してもフラッシュで世界と勝負できた。

フラッシュメモリは、DRAM全盛期にコツコツと開発を進めていた東芝のエンジニアであった舛岡富士夫氏(その後東北大学教授に)が1984年、85年と続けて国際学会IEDM(International Electron Devices Meeting)で発表し、Intelを始めとする世界の半導体技術者を驚かせた。当時、IEDMには私も出席・取材しており、雑誌Electronics誌(米McGraw-Hill社発行)に舛岡氏のフラッシュメモリ開発の記事がIntelの反応と共に掲載されたことを昨日のように覚えている。舛岡氏は東芝にフラッシュメモリの事業化を何度も進言したのにもかかわらず、東芝はそのころフラッシュメモリを事業化するという決断をせず、舛岡氏は東芝を退社した。

フラッシュメモリは、バイト単位でデータを書き換えることはできず、ある程度の大きさのメモリアレイを一括で(フラッシュのように)しか消去できなかった。しかしメモリの面積を紫外線消去型のEPROMと同程度に小さくできたため、安いコストで製造できる可能性を秘めていた。当時は電気的に不揮発性メモリを書き換えられるのは、EEPROMしか商用化できていなかったが、チップ面積が大規模になるという欠点があるため、コストを下げることができず普及しなかった。メモリはコストを安く作れるかどうかで成否が決まるため、フラッシュメモリは成功する大きな可能性を持っていた。

東芝はDRAMを捨てたためフラッシュメモリを生産するという決断をしたが、開発力の中心はシステムLSIだった。ソニーのマルチコアプロセッサ「CELL」の生産も東芝が行っていたが、システムLSIで東芝を大きな利益を生むことはできなかった。しかし、たまたまとはいえフラッシュを持っていたため、フラッシュに力を注ぐことができ、今日の隆盛を迎えることができた。

ところが、東芝で働くエンジニアは、DRAMで成功、その後フラッシュでも成功したため、ルネサスのような挫折を知らない。今回経営陣の原子力ビジネスでの大失敗により、倒産の危機を迎えているが、半導体メモリの陣営は経営陣の失敗であり、エンジニアの失敗ではないという意識が強い。だから、非常に危険なのである。本当の挫折をこれから迎えたとき、それを克服できるかどうかが問われる。東芝メモリが東芝から本当に独立できたとしても、必要な時に1000億円規模の設備投資をできる経営陣がいるかどうかも今後の成否を握る。東芝の成功体験が仇にならなければよいが。心配の種は尽きない。

                                                      (2017/08/24)

国際技術ジャーナリスト・News & Chips編集長

国内半導体メーカーを経て、日経マグロウヒル(現日経BP)、リードビジネスインフォメーションと技術ジャーナリストを30数年経験。その間、Nikkei Electronics Asia、Microprocessor Reportなど英文誌にも執筆。リードでSemiconductor International日本版、Design News Japanなどを創刊。海外の視点で日本を見る仕事を主体に活動。

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