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「井上尚弥に喧嘩なら勝てる」発言からかぎ取る「ボクサー=粗暴」という袴田事件に通じる持続低音

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
極めて洗練された技量の持ち主(写真:松尾/アフロスポーツ)

 今年7月、プロボクシングWBC・WBO世界スーパーバンタム級統一王者に挑戦した井上尚弥が勝利し、4階級制覇という偉業を成し遂げました。直後に格闘技大会「ブレイキングダウン」出場選手が「喧嘩なら私の方が強い」「喧嘩なら余裕で勝てる」とSNSに投稿して大ひんしゅくを買ったのです。

 いささか旧聞に属する話題を今回持ち出したのはプロボクシングから喧嘩を連想する心理が投稿者の思惑を超えて深刻な問題を抱えてはいないかと筆者自身が逡巡していたため。具体的には袴田事件を現出させたプロボクサーへの偏見です。以下にご説明します。

強い制限下で洗練された技量の持ち主だけが挑める世界戦

 イギリス発祥とされる現代プロボクシングの系譜を手繰るとはそもそも喧嘩をルーツとしていません。興行目的が主です。素手時代でもダウンしたら攻撃中止やローブロー、サミング、バッティング、レスリング行為などの反則が定められ、20世紀に入る頃にはグローブ制やラウンド制および階級別などが整備されたのです。1980年代には頂点の世界戦が15回から12回へと短縮。いずれも選手の身を守る措置といえます。

 他にも後頭部、腎臓周辺、背後などの攻撃は禁止。グローブをつけた拳による突きだけで身体の極めて狭い部分のみを対象に戦うルールです。

 世界戦に挑める者はごくわずか。戦績に応じてラウンド数を増やしつつ権利を得るべく競います。強い制限下で限られた、極めて洗練された技量の持ち主だけが挑めるのが世界戦です。

「単なる乱暴狼藉」か「ガキの喧嘩」の延長か

 対して「喧嘩」とは何でしょうか。おおよそ3つほどあります。1つは幼少から遅くとも未成年期にみられる実力行使による自己主張の実現。次に復讐など司法に頼らないで自力によって権利を擁護する自救行為、最後が単なる乱暴狼藉。1つ目はいわゆる「ガキの喧嘩」で後2者は違法です。

 SNS投稿者が20代と成人しているのを勘案すると「単なる乱暴狼藉」を指すか、「ガキの喧嘩」の延長をイメージしたのか。

 ただ「単なる乱暴狼藉」でも本人も格闘家で主語が「私」だから1対1の戦闘であるのは確実です。不良行為少年用語における「タイマン」あたりか。つまり暴力団抗争のような類型ではなさそうです。

法益侵害の故意を抱いて凶器使用を含むあらゆる部分を標的とする闘争か

 警察が出動してメディアも取り上げる喧嘩は故意に身体の安全を侵害する暴行を加えてケガを負わせるなどの結果を招いた場面。短い記事程度ならば毎日発生しています。重大な結果(死に至るなど)を招くのは殴り合いや蹴り合いのはずみで転倒して頭部を何かにぶつけて頸椎を損傷したり、怒りが高進して刃物や灰皿、金づちなどを持ち出して攻勢を強めたりするケースが非常に多い。

 ここを踏まえて考察すると凶器となり得る何らかの使用も含めて、双方(井上選手と投稿者)が互いに保護法益を侵害する故意を抱き、四肢を駆使して相手の身体のあらゆる部分を標的とする闘争を「喧嘩」とするのでしょうか。

「何でもあり」ならば「私の方が強い」「余裕で勝てる」?

 としたら井上選手にそうした動機を抱く可能性がゼロだから起こり得ないバカげた妄想と一刀両断するのは簡単です。気になったのは投稿者がなぜそのような妄想を抱くに至ったか。

 まず考えられるのは強い制限下にある競技だから井上選手が勝てるのであって、そうでなければ、いってみれば「何でもあり」ならば「私の方が強い」「余裕で勝てる」と思いついたと。発言を耳にして真っ先に思いついたのは投稿者が身長・体重ともにデカいのでは? でした。大相撲の関取級が冗談でプロボクサーやレスラーを「あんなの張り手一発で吹き飛ぶよ」と軽口を叩く、みたいな。でも両者に大きな差はなかったので成立しません。

 としたら世界戦を制するボクサーの凄さを全然感じ取れないほど格闘に無知か、トラッシュ・トークの亜型か。もっと平たく単純な炎上狙いか。ならばいいのです。むろん井上選手の偉業に対する侮蔑という非難は避けられませんが。

「ボクシングも喧嘩の一種」の正当性

 筆者が懸念したのは反対方向です。投稿者は「ボクシングも喧嘩の一種」とみなしていたのではと。言い換えると乱暴狼藉の一種だと。

 いくらルールを洗練してもボクシングという競技で勝利する最も有効な手段が頭部への加撃であるのは変わらない。脳内出血や脳しんとうをもたらす可能性を否定できません。というか予防不可能といった方が正しい。そして前述の通り乱暴狼藉での勝利もまた頭部へのダメージが最も効果的なのです。この意味で正当性を与えかねない。

 この課題はフルコンタクト競技すべてに当てはまります。全力かつ直接的な接触を許容するラグビーやアメリカンフットボール、レスリング、相撲、柔道など。特にラグビーや柔道は取材しただけでも大丈夫かと心配になるほどで、自由度が高い分だけボクシングより怖さがあります。選手時代は元気でも後々に慢性外傷性脳症などに見舞われるという報告もあって不安が募るのです。

 果たして「スポーツには危険が伴う宿命である」「プロである以上は覚悟している」で済ませていいでしょうか。プロボクシングに限ると統轄団体の日本ボクシングコミッション(JBC)が法令順守やガバナンスに大きな不安を抱えていて昨年は解散寸前に追い詰められる体たらく。選手の健康管理の主体だけに刷新を含めた改革が求められます。

不良の成功譚は多分にメディアがステレオタイプに寄って引き出した

 「ボクシングも喧嘩の一種」は投稿者のみならず、それなりに共有されてはいないかとの疑問も。たとえステレオタイプとわかっていても。

 大きな理由は「元不良が更生して富と名誉を手に入れる成功譚」の代表格とみなされやすい点。言い換えると喧嘩に明け暮れた元不良が得意の殴り合いの能力を最大限生かせる競技という見方です。「ガキの喧嘩」の延長にあるスポーツとも。

 確かに以前はそうした少年時代を送った名選手も多くいました。でもこのストーリーは多分に本人が面白おかしく語ったり、メディア側がステレオタイプに寄って引き出している部分も多いようです。

地上波放送で試合が観戦できれば

 学生スポーツを当事者ないしは取材者として接するとボクシングに限らず、メジャー競技のトップ級にも実は素行に問題があった、あるいは現にあるという選手は少なくありません。ただ報じないのです。プロになっても同じ。ボクシングだけ何故か対応が異なる。

 しかもそうした傾向はもう20年ほど前あたりから徐々に消失しています。井上選手がそうであるように中学生ぐらいからハイレベルのトレーニングを受けていて喧嘩ファイトが通用する余地がどんどん狭まっているのです。

 そうした変化を人口に膾炙させるためには地上波放送で試合が観戦できればなと思わなくもない。動画配信サービスが劣るといいたいのではありません。テレビ離れが進んでいるといっても視聴率1%で推計約120万人を獲得する威力はまだまだ強力だから。

「ボクサーくずれ」などの予断が死刑確定にまで至る

 「ボクシングも喧嘩の一種」との偏見が生んだ冤罪との側面が如実に表れたのが袴田事件です。1966年、強盗殺人および現住建造物放火事件が静岡県で起き、元プロボクサーの袴田巌さんが逮捕・起訴されて死刑が確定した出来事です。当初から冤罪の疑いが濃く、今年3月、再審(裁判のやり直し)開始が決まりました。

 選手としての袴田さんの最高位は日本フェザー級6位。世界戦の認定団体が1つしかなく(現在は4つ)階級数も現在の6割程度と少なかった時代ゆえ相当に強かった。年間19試合出場は今なお最多記録です。

 当時の県警捜査報告書に「ボクサーくずれ」と記されていたり、フィリピン遠征も本当なのに捜査員の「マニラに遠征したなどと嘘をつく大ぼら吹き」といった情報を(実際はマニラで試合をしていた)マスコミが垂れ流すなどプロボクサー=粗暴という予断が犯人視された背景に横たわるのは確実といえましょう。

 52年に白井義男選手が、62年にはファイティング原田選手が世界王座に輝き、テレビ視聴率も黎明期であったにせよ6割以上を記録。国民的英雄を生み出しながら偏見もまた根強かったのです。

 原田氏が日本プロボクシング協会(JBCとは別団体)会長時の90年代から袴田さんの冤罪と再審請求への賛同を訴え続けたのも偏見との戦いといえます。

「名誉チャンピオンベルト」とファイティングポーズの裏に

 2014年5月、裁判所の判断で釈放された袴田さんが東京・後楽園ホールのリングに上がって世界ボクシング評議会(WBC)より贈呈された「名誉チャンピオンベルト」を腰に巻きます。1カ月前に初の世界王者となったばかりの井上選手も駆けつけて他の王者とともに袴田さんに合わせてファイティングポーズを決めるフォトセッションに参加。その後も積極的な支援活動に加わっているのです。

 スポーツ選手が司法判断に公然と異議を唱えるケースは異例。裏返すと、それほどにボクシングへの偏見が根強い証し。無実の者を死刑囚に仕立てるほどに。偏見がボクサー=粗暴で、喧嘩という行為が粗暴以外の何ものでもない以上、「喧嘩なら」などという仮定自体が危うさをはらみます。投稿者を批判する気はありません。こうした偏見が今日も持続低音のように響いていて形を変えながら時に表出したとみなしたら、危険信号だと指摘したいまでです。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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