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元首相死去後もメディアはなぜ「旧安倍派」と呼ばないのか。角栄氏との類似点や父・晋太郎氏の場合

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
死してなお(写真:西村尚己/アフロ)

 おそらく昨年最大の国内ニュースは安倍晋三元首相が銃撃されて殺害された事件でしょう。安倍氏は自民党最大派閥の領袖(ボス)でもあって「安倍派」と称されてきました。この○○派との呼称はマスコミや一部政界の通称です。安倍氏死去(22年7月8日)以降、領袖不在となりました。

 死去や脱退・退会などで領袖が欠けて跡目が決まっていない場合、マスコミは通常「旧○○派」を用いてきました。しかし現在に至るも「安倍派」のまま。なぜなのでしょうか。

本来は亡くなられた方の名を冠し続けるのは変

 表向きの理由は元首相死後の安倍派総会で「会長空席・名称は安倍派のまま」と決めていてメディアもそれにしたがっているからです。ただ先述のように「○○派」は基本的にマスコミ用語。ちなみに同派の正式名称は清和政策研究会。自民党国会議員のなかには「正式名称で呼べ」とメディアに申し分を述べる方もいます。

 つまり「○○派」とは正式名称より実態に沿うから報道機関が使っているわけです。ならば亡くなられた方の名を冠し続けるのは変で「旧安倍派」とすべきでしょう。

 最近の似たケースだと21年9月に亡くなった竹下亘氏。死後直ちに、後任会長に茂木敏充氏が充てられるまでメディアは「旧竹下派」と変更しています。

倒れて以降も「田中派」が用いられた角栄氏の権勢

 会長職になくても派閥の名称に使われてきた人物がいないわけではありません。その典型が田中角栄元首相の「田中派」。1972年7月に佐藤栄作派を簒奪する形で旗揚げして以来、実は角栄氏は一度も派閥会長に就いていません。76年にはロッキード事件の影響で派そのものも去っています。それでもなおマスコミは「田中派」でした。

 この呼称は派内の役職や所属がどうであれ誰がみても角栄氏がボスであるのが明らかで実態に合わせていたのです。85年に脳梗塞で倒れて政治活動ができなくなっても後述する竹下登氏の分離独立まで田中派のままだったのは角栄氏の絶大な権勢をしのばせるエピソードといえましょう。

 今に至るも「安倍派」は病に伏して以降の「田中派」の呼称をどこか思い出されます。もっとも角栄氏は93年まで存命していて86年総選挙では自身がまったく選挙運動しないままトップ当選。死去した安倍氏と大きく異なる点です。

「強烈な光」の残照が実態を正確に伝えるのか

 前述のように「○○派」は自民党議員からすれば他称に過ぎず、何と示されようが構わないという考え方もできます。とはいえ必ずしもそうとばかりはいえません。

 代表例が竹下登氏が87年に結成した「竹下派」です。当時の結成大会は壇上にデカデカと「竹下派結成大会」の横断幕が掲げられ、竹下氏がその場で正式名称として宣言した「経世会」が披露されたのです。

 このように「○○派」が政治家側からすれば正式名称でないからどうでもいいというわけではなく場合によっては正式よりインパクトがあります。ゆえにこそ安倍氏死去後の総会でわざわざ「安倍派のまま」と決めたのでしょう。

 死してなお「安倍」をいただくメディアも似た理由かも。最大派閥を「旧安倍派」と呼ぶのは躊躇があるし跡目も星雲状態。現在の清和政策研究会の実態を正確に伝えるならば「旧」でなく今なお「安倍派」なのでしょう。

 昨年10月に国会で行われた追悼演説で野田佳彦元首相は安倍氏の「あなたが放った強烈な光」に言及しました。そのまばゆさが清和政策研究会にもメディア側にも、いまだ残照となっているようです。

すべての派閥に「旧」が冠された時期の理由

 自民党の歴史で正式に派閥解消が決まって「○○派」のすべてに「旧」がついた時期がありました。

 1993年の総選挙で敗北して細川護熙非自民連立内閣が発足。自民は結党以来初めて野党に転落しました。法改正で次回が党が全面に出る小選挙区制へ改められるのが確実になり、複数の自民候補同士が同一選挙区でしのぎを削る中選挙区制がなくなるのも相まって党改革本部が「派閥の弊害を改める」とし94年末、派閥は解消されました。「解消したぞ」というのでマスコミも「旧」で示します。というのも文字通り何の役割も果たさなくなる=解消とまで誰も思わなかったので便宜上の措置でした。

 案の定、派閥は人事などで一定の影響力を持ち続けます。「旧」で統一するのを止めたのが98年。同年は旧宮沢派が加藤派へ衣替え、旧三塚派が森派と亀井(静香)グループ(1年後に村上・亀井派)に分裂、旧渡辺派から山崎派が独立したのです。この時点で「本当の旧」であったのは95年に渡辺美智雄氏が死去していた旧渡辺派と96年に河本敏夫氏が引退した旧河本派の2つ。92年からの旧小渕派は相変わらず小渕恵三氏が率いていました。

 要するに98年は加藤派、森派、山崎派が誕生したわけです。新しくできていきなり「旧三塚派から旧森派が誕生」という表現は日本語として成立しない。そこで小渕派も含めて「旧」を付けるのをやめてしまったのです。

安倍晋太郎氏の死去後は直ちに「旧安倍派」へ

 以降、何らかの理由で領袖を欠いた派閥で「旧」が一時的に用いられたのが先の亀井グループ分裂、竹下亘氏以外に、小渕氏死去による「旧小渕派」など。他のケースも含めて短期間に跡目が決まって新派閥名に移行しました。

 少々複雑なのが加藤派。2000年に領袖の加藤紘一氏が当時の森喜朗内閣へ造反したのをきっかけに新たにできた堀内派と加藤氏が引き続き会長を務める派閥へ分裂。この際、メディアは分裂前の派閥を「旧加藤派」と名づけて区別したのです。

 現在の安倍派と同じく跡目がなかなか決まらなかったのが橋本派。04年に領袖の橋本龍太郎氏が「政治とカネ」問題で派からも抜けてから1年以上「旧橋本派」でした。

 最後に晋三元首相の父、晋太郎氏について。彼もまた1986年7月に領袖となって「安倍派」と代わりました。しかし91年5月に死去。派の世話人会と総会で後継会長は空席とし当面集団指導体制で維持すると確認。これを受けて呼称も直ちに「旧安倍派」と変わります。この時は比較的早く後継者が決まって「旧安倍派」使用も短期間でした。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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