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中国と台湾の衝突はなぜ発生したのか。建国以来の経緯からニクソン訪中に至るアメリカの思惑を中心に

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
蒋介石と孫文(写真:ロイター/アフロ)

 またもや中台の「両岸関係」がきな臭くなってきました。そもそも正統政権であった「中華民国」(台湾)が未承認国家へ転落した経緯は何でしょうか。中華人民共和国の統一間近で起きた朝鮮戦争から中ソ対立・ベトナム戦争といった要因が複雑に絡み合って国連代表権問題で脱退してしまうまでを追います。

1945年~49年 本土も台湾も「中華民国」

 先の大戦で敗北した日本は1895年の下関条約で清(当時の中国にあった王朝)から「割与」されていた台湾を手放し、1912年に大陸で孫文によって成立した正統政権「中華民国」が実効支配します。「中華民国」は5大戦勝国の1つで45年10月に発足した国際連合安全保障理事会(安保理)の常任理事国にも選ばれているのです。47年には国会議員などに相当する代表者を選挙で選んでいます。当時のリーダーは国民党の蒋介石。

49年~50年 中華人民共和国成立と国民党の台湾脱出

 蒋介石最大のライバルである毛沢東主席率いる中国共産党とは終戦後から内戦状態に入っていて最終的に毛が勝利し、49年に中華人民共和国を大陸に創設。蒋ら国民党は敗走先の台湾に移転して台北市を臨時首都とする「中華民国」をかろうじて維持しました。

 時の勢いでは人民解放軍(共産党軍)が台湾をも攻略して統一を成し遂げるのも時間の問題と思われていたのです。ところが……

50年~53年 朝鮮戦争で台湾への軍事行動を一時的に停止

 日本の植民地支配を脱した朝鮮半島は戦後、北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、南部に大韓民国(韓国)が分離独立していました。50年、ソ連の支援を受けた北朝鮮が韓国へ戦争を仕掛けたのです。

 当初優勢であった北も韓国側を支えるべくアメリカを中心とした多国籍軍が参戦するや形勢逆転。中共国境付近まで追い詰められて存続の危機※へと陥りました。なかばソ連の使嗾に乗って始めた北の戦争に加担するのを毛は好まなかったものの放っておけば仮にも同じ共産主義を標榜する国家を見殺しにし、かつ西側勢力と国境を接するデメリットをはかりにかけた結果、北側に立っての事実上の参戦を決意したのです。

 53年の休戦までに費やした中国の被害も大きく消耗は隠せません。結局、この時期は結果的に台湾統一に割く時間も戦力もなくなってしまいました。

【米台】54年 米華相互防衛条約締結で軍事同盟化

 朝鮮戦争で東アジアでの共産主義勢力の脅威を痛感したアメリカは休戦後の54年、米華相互防衛条約を締結。台湾との軍事同盟です。毛は2度に渡って台湾海峡で軍事作戦を行うもアメリカの存在感を考慮して本格的な侵攻には至りません。

【中ソ】56年 中ソ対立が始まる

 他方、アメリカが最も恐れたアジアの2大共産主義陣営である中ソがソ連の最高指導者となったフルシチョフによるスターリン批判と彼が打ち出した平和共存路線に毛が強く反発して「中ソ対立」がスタート。

 最初は純粋な路線を巡る理論闘争であったのが次第に国境紛争や中国の核保有に関わる政治的な対立へとエスカレートしていきます。

58年~64年 中国「大躍進」失敗に伴う蒋の大陸反攻計画とアメリカの躊躇

 58年、対立状態に陥ったソ連のフルシチョフの計画経済に対抗すべく毛が打ち出した経済計画「大躍進」がもののみごとに失敗すると蒋は反転の絶好機と判断して大陸反攻計画を実現させようともくろむも単独で勝機が見出せるはずもなくアメリカに支援を懇請。

 ただアメリカの見立ては「我々が協力しても反攻は覚束ない」といったものだったのです。蒋は「大躍進」で不満をため込んだ大陸の人々が共産党政権から離反するとの構図を前提としていたのに対しアメリカは「そこまではいかない」と踏んでいました。

 62年のキューバ危機でアメリカはソ連陣営との第3次世界大戦が決して絵空事でないと思い知り、中ソ対立はむしろ都合のいい図式でもあったのです。仮に米台が大陸反攻などを仕掛ければ中ソを最接近させてしまう不都合が生じかねません。

 結局、反攻は小規模な戦闘に止まったまま放棄されます。64年の中華人民共和国による核実験成功もアメリカを躊躇させる大きな原因となったのです。

65年~69年 ベトナム戦争へのアメリカ本格参戦と泥沼化

 にっちもさっちもいかなくなったのが69年頃。アメリカの出費は天文学的に増大します。ところが同年、敵の北ベトナムを率いていたホーチミンが死去。彼のカリスマ性が対立を抱えつつ同じ共産圏という一点で支援をまとめていたをソ連派と中国派の対立も深まってソ連派が優位に。米軍からすれば敵の援軍であった中国が敵から阻害される事態です。

 中ソ対立自体も沸点に達してダマンスキー島事件などで交戦に至りました。ここに至ってベトナム戦争の収拾を含んでいたキッシンジャー米大統領補佐官が71年に極秘訪中。ソ連に対抗する「中国カード」を握って北ベトナムを窮地に追い込もうと謀ったのです。

 こうした動きは蒋の側からすれば米中接近という好ましくない動きに他なりません。

71年~72年 国連代表権を中華人民共和国に奪われた上に米大統領が訪中

 71年、国連総会で中国の代表権を中華民国から中華人民共和国へ移す(変更する)採択がなされました(アルバニア決議)。

 新たな国が国連に加盟したい場合は安保理の事項で「中華民国」は常任理事国ですから拒否権を発動すれば葬れるのに対して、すでに加盟している国に複数の政府が相対しているケースだと、どちらが代表資格を持つかの判断は最終的に総会の多数決で決定する決まりです。台湾は採択濃厚となった時点で、自ら脱退してしまいました。おそらく蒋介石が我慢できなかったのでしょう。

 確かに中華民国も中華人民共和国も「1つの中国」(中国とは私だけ)では一致するから代表権の争いとみなされても仕方ありません。とはいえ国連に脱退の規定はなく「中華民国」が残る(=脱退しない)選択肢もあったはずです。ここが後々痛恨事となっていくのです。

 翌72年2月、ニクソン米大統領が訪中して「上海コミュニケ」が発表されます。中国側の主張である「中国は1つ」かつ台湾は中国の一部と考えている、は「認識」し「この立場に異議を申立てない」としたのです。軍事同盟を結ぶ台湾から武力や軍事施設を撤去するのは「最終目標」で折り合い事実上の相互承認となります。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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