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アメリカ中間選挙とは何か。大統領の反対党が勝ちやすい傾向や歴史、意外と強力な議会権限、上院の特殊性等

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
民主か、共和か(写真:ロイター/アフロ)

 8日のアメリカ中間選挙が迫ってきました。同じ4年に1度でも大いに盛り上がる大統領を選ぶ選挙と異なって地味な印象。しかし議会議員を選ぶという意味では「大統領選をともなわない」だけの違いでしかありません。そこで選出される連邦議会議員の権限は強力です。そのあたりに焦点を当ててみました。

中間テスト兼「大統領選をともなわない連邦議会選挙」

 アメリカの中間選挙とは大統領任期(4年)の「中間」に行われる連邦議会議員および任期満了にともなう州知事選挙を指します。議会のうち上院(定数100人)の3分の1、下院議員の全員が対象となります。

 とはいえ大統領選挙の年も「上院(定数100人)の3分の1、下院議員の全員」の改選は行われます。任期が上院議員6年、下院2年であるがゆえです。したがって中間選挙とは「大統領選をともなわない連邦議会選挙」ともみなせます。

 近年、この中間選挙は文字通り「現職大統領の中間テスト」的役割を果たしています。アメリカは民主党・共和党の2大政党が圧倒的に強くて南北戦争終了後はほぼ一貫して両激突の構図です。1990年代以降、中間選挙は大統領の出身政党(現在は民主党)への不満から反対党が善戦・勝利する傾向が鮮明になってきました。結果が大統領の進退に直結しないのが大きな要因です。

「大統領は共和党、議会は民主党」時代(~92年)

 90年代前半までは違いました。上下両院は民主党が強く特に下院はほぼ圧倒していました。他方、戦後の大統領はここまでは民主12年、共和28年。「大統領は共和党、議会は民主党」の傾向が強かったのです。

「議会は共和党」時代(94年~2002年)

 民主党のクリントン大統領が就任した後の94年中間選挙から様相が変わります。共和党を実質的に率いたギングリッチ下院議長の「アメリカ国民との契約」運動が功を奏して下院では1946年以来の共和党多数を達成、上院でも過半数を得たのです。

 以来下院の過半数と上院の過半数ないしは半数を共和党が同党選出のブッシュ大統領(2004年)当選まで維持します。

大統領の反対党が勝つ時代(06年~18年)

 再び構図が崩れたのがブッシュ政権下の06年中間選挙で民主党に下院過半数を許したのです。01年9月に発生した同時多発テロ以来の「テロとの戦争」のうちイラク戦争の結果として引き起こされた泥沼化に嫌気を示した結果とも推測されました。

 以後の中間選挙は以下の通りです。

・オバマ大統領(民主出身)時代

10年 上院は民主過半数を保つも下院で共和に大敗

14年 上下両院で共和が過半数を占める

・トランプ大統領(共和出身)時代

18年 上院は共和過半数を保つも下院は民主が過半数奪還

 1994年から概観すると中間選挙は「テロとの戦い」の高揚感が強かったブッシュ政権下の2002年(出身政党が上下両院の過半数を占めた)を例外として、常に接戦の上院はともかく下院は野党が勝つのが通例になっています。

 今年の中間選挙の予測の多くが「上院は接戦、下院は共和優勢か」が目立っているのもこの流れを踏襲しているかのようです。

立法権や予算の決定権、大統領人事の同意見など強力な議会の権限

 米大統領は元首であり、かつ三権分立のうち「行政」のトップで軍最高司令官、連邦最高裁判所判事の指名や各省の長官と幹部職員の任命権、条約の締結権などの権限を持つほか、議会の承認を得ずに行政機関に命令する「大統領令」を出せます。大統領令とは憲法などで明確に規定されていない非公式の権限。

 こう紹介すると強烈なパワーを得ているかに解せるものの、厳格な三権分立を採るアメリカにおける「立法府」たる連邦議会もまた大統領に匹敵する権限を持っています。だから中間選挙の結果は見逃せない。何といっても議会は法律案の立案や予算の決定権をほぼ独占します。大統領は議会が可決した法案に拒否権を発動できますが、上下両院がそれぞれ3分の2以上の賛成で再可決すれば成立してしまうのです。

 他にもさまざまな権限を持ちます。下院は大統領を辞めさせる「弾劾」を求める決議案が出せます。上院は大統領が選んだ判事や長官などの承認権や大統領が結んできた条約の批准(最終手続き)権も。

なぜ上院は人口が大きく隔たっても「各州2人」なのか

 上下両院の議席配分は上院が人口にかかわらず各州2人で下院は人口比例。上院に関しては最多人口のカリフォルニア(約3400万人)も最少のワイオミング(約50万人)も等しく2人です。

 こうなっている理由は建国時点にまでさかのぼります。アメリカ独立は現在の北東部にある13のイギリス植民地の独立革命によって成し遂げられました。1783年のパリ条約でイギリスが独立を承認した……という認識が一般的で、承認された国家は13植民地の同盟体である連合会議であり、連合規約で結ばれていました。独立によって植民地はState(ステーツ)となります。日本では「州」と訳されますけど本来の感覚ではステーツは1つ1つが「国家」。United Statesとは「マサチューセッツ国」「コネティカット国」など13国家の連合で現在の国連のミニチュア版のような感覚だったでしょう。

 連合規約はこれらのステーツが独立という一点において成立した部分が大きく、それを果たしてからは不都合が生じました。特に国際面で他国と外交関係を結ぼうにも13ステーツを代表する機関も役職も人物もいません。ステーツごとに税制も刑罰も皆違います。これでは具合が悪いと考える者もいた半面、ステーツこそ自分の所属する国家で、その上に何らかの権力を置くのは嫌だという勢力も強かったのです。

 したがって1788年に成立した合衆国憲法を審議した前年の憲法会議は、今でこそ「憲法会議」と呼ばれるも当時は「連合規約改定の話し合い」を名目に、いわばステーツ重視派を出し抜く秘密会として開かれました。

 当然議論になったのが連邦(United States)の代表をいかにして選ぶかです。最初に提出されたのが「人口に比例した議員を選出して二院制とするバージニア案」。しかし人口の少ないステーツがそれでは損だと、ステーツの人口の多少を問わず同数の議員を選出した一院制にすべしというニュージャージー案で対抗しました。前者では小さなステーツが納得しないし後者では多数を抱えるステーツが飲めません。

 そこで両方を混ぜ合わせるような案が出ました。すなわちステーツごとに同じ数の議員で構成する上院と人口比例にする下院の二院制とするコネティカット案で、新たな中央政権はステーツの代表でもあり国民の代表でもあるという、よくわからない提案でした。

 しかし、そこがアメリカという国の面白いところで、コネティカット案で行かないと結局はまとまらないからいいとしようと決着してしまったのです。「偉大な妥協」と呼ばれています。

 だから上院は「州=国の代表」を送るのだから同数。下院は国民の代表だから人口比例となったのです。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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