Yahoo!ニュース

東京大空襲から76年。「何の故あってか無辜を殺戮するのか」

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
下町一帯は火の海と化した(写真:ロイター/アフロ)

 3月10日は東京大空襲が行われた日です。

 「白骨死体如火葬場生焼女人全裸腹裂胎児露出」。タイトルの「何の故あってか……」とともに書家の井上有一が遺した作品「噫(ああ)横川国民学校」の一節です。墨田区の国民学校(現横川小学校)教師であった彼はその夜、宿直で被災者の「悲惨極此」を目の当たりにしました。午前0時から約2時間半の爆撃で死者約10万人。

 その年の8月に終戦を迎え、一転して「生きる」という選択肢を与えられた都民は食糧不足との戦いに明け暮れました。そのさなかの朝鮮戦争特需で第2次産業が息を吹き返して後の高度成長へとつながります。「食う」という生存目的を果たすために日々を送った結果、いつしか空襲の爪痕が消えていき、あれほどの惨劇でありながら記憶から遠のいていった「3.10」。改めて振り返ってみます。

本来は精密爆撃の予定だった

 1944年7月、日本の委任統治領サイパン島が奪取された結果、米軍は日本のほぼ全土を直接空爆できるようになりました。陸軍航空軍の現地司令官に任命されたカーチス・ルメイ少将はボーイング社製造のB29大型長距離爆撃機を用いた帝都への爆撃計画を固めていきます。

 B29は本来、9000メートル高高度で長い距離(5200キロ)を航行できる戦略爆撃機。陸上からの高射砲や陸海軍の戦闘機で迎え撃とうにも遙か上空にあって防空は困難を極めました。いわば安全地帯から見通しのいい昼間に飛来して軍需拠点を精密爆撃するのが真骨頂。

 ただ東京上空は強い偏西風が吹き、精密さもルメイの工夫で飛躍的に上がったものの不十分なまま。しかも対象地区の今の墨田、江東、台東区など下町地区は町工場が点在していた上に1つ1つも小さいという難点を米側は抱えていたのです。

通常兵器を用いた単独の空襲での死者数10万人は世界最大

 そこでルメイは思い切って高度約2000メートルまで下げて日本家屋向けに開発されたM69焼夷弾などを夜間・短時間で道路などのインフラもまとめて破壊しつくすというエリア爆撃を採用しました。B29約300機を集中させて編隊も組まず単機で行動するようにし効果を高めたのです。落とされた焼夷弾は約1700トン。低空ゆえ目視しながら焼き尽くす効果も発揮しました。

 当夜は北西の強風が吹いていたために、燃えさかる炎同士が合流して大火災を生み出しました。亡くなった方の多くは焼死や窒息死です。難を逃れようと隅田川や荒川に飛び込んだまま溺死した人も大勢いました。被災家屋は約27万戸。通常兵器を用いた単独の空襲で記録された死者数では世界最大です。真夜中に突然、とんでもない量の火災のみを目的とした焼夷弾が低空から密集地帯にばらまかれたのですから阿鼻叫喚の地獄絵図と化しました。

 死者の7割が身元不明で、65%が男女の区別すらつかなかったとされているのを考えるだけでも、いかに凄惨な状況であったかわかります。焼失面積は東京ディズニーランドの約80倍です。

米軍の周到な事前準備と軍内の主導権争い

 後述するようにその後の空襲も含めてルメイが敵陣の総大将としばしばみなされます。確かに戦術的なオリジナリティーは彼に負うところが大きいのですが全て独創というわけではありません。

 例えばM69の開発は米軍が攻撃地域を関東大震災のケースも踏まえて事前に十分に研究した成果でした。攻撃地域の確定も同様です。

 陸軍航空軍トップでルメイを任命したヘンリー・アーノルド大将は以前から焼夷弾を用いた無差別爆撃を企図しており、ルメイの前任者も指示されていました。その意味でルメイは上官や軍の方針を戦果としてもたらす能吏の役割を果たしたともいえましょう。

 アーノルドはライト兄弟から飛行訓練を受けた草創期のパイロットで航空軍を独立した空軍に格上げするのを宿願としていました。その切り札がB29で、何としても大きな戦果を残したかったのです。

 日米の太平洋戦争は東京大空襲の時点で海軍がレイテ沖海戦で日本の連合艦隊をほぼ壊滅させていました。陸軍もマーシャル陸軍参謀総長のもと、アーノルドの先任であるダグラス・マッカーサー南西太平洋方面最高司令官がフィリピンを奪回。来たるべき日本本土進攻のイニシアチブをどこが、誰が採るのか注目されていました。

 米軍はこの頃「ダウンフォール」(=没落)と冠した日本本土上陸計画を策定。灰燼した連合艦隊の反撃を心配しなくていい海軍が海空を封鎖し、マッカーサー率いる陸軍が南九州などを占拠し、飛行場などの足だまりを得て東上する作戦内容です。アーノルドが航空軍のみで「ダウンフォール」以前に降伏へと導けば殊勲大で念願の空軍独立をかなえたいという野心も持っていました。

「牛乳配達のよう」な列島総爆撃と「プレス・コード」

 しかし日本は大空襲後も本土決戦を呼号し、硫黄島陥落(3月26日)、ドイツ降伏(5月)、沖縄戦敗北(6月)と悲報が相次いでもファイティングポーズを崩しません。ゆえに航空軍を主とする空襲は敗戦まで「ほぼ毎日」といっていいほど続いたのです。通算すると100回以上あったとされています。(海軍の艦砲射撃や機銃掃射を含む)

 大空襲以後、大都市は東京が5回、大阪が8回、名古屋4回、神戸4回、横浜・川崎3回の爆撃にさらされ一度に2000人から3000人の死者を数えたのもしばしば。さらに地方都市も容赦なく焼き払われます。終戦まで空襲の被害を受けなかったのは47都道府県のうち石川県のみ。まさに爆弾は「牛乳配達のように」届けられたのです。1000人以上がみまかっただけで30回を超えます。

 被害の大きさで比較すれば、原爆を投下された8月6日(広島)、8月9日(長崎)に匹敵する惨事であった東京大空襲の「3月10日」の知名度は低い。その大きな理由としてあまりに多くの空襲が全国で記憶されていて「新型爆弾」1発での「ヒロシマ・ナガサキ」に比べて印象が拡散しやすい傾向がありましょう。作家の早乙女勝元さんらの努力で大空襲の記憶を残そうという運動はありますが、残念ながら風化は確実に進んでいます。

 連合国軍(中心は米軍)による占領下で総司令部が発した「プレス・コード」(新聞遵則)や「ラジオ・コード」(放送遵則)で連合国への批判が禁じられていて占領終了まで続いたのも空白期間を作ってしまった原因といえそうです。

深刻な食糧難と物価高で戦災の記録どころではなかった

 都民側にも記録を残すどころではない怒濤の日々が待っていました。戦中は民間人の撮影すら禁じられ、報道機関も人手、紙ともに不足し、軍部の検閲もあって被害を広く伝えませんでした。戦後は凶作と農家のコメ供出意欲の喪失で国民1日に800キロカロリーを配給するのがせいぜい。深刻な食糧不足が襲いかかります。

 焼け野原でかろうじて戦災をまぬかれた学校などの建物には家を失った者が一部屋に何世帯も住み着き、なかにはドラム缶やバス、果ては金庫を住居とした人もいたのです。ここに敗戦で失った海外領土や占領地から復員・引き揚げた日本人が帰ってきたからさあ大変。皆生きるので精一杯で故人を悼むどころではないありさまでした。

 他方、軍が保有していた物資が無秩序にばらまかれて公定価格をはるかに上回る闇市が誕生。卸売物価指数は敗戦時を100とすれば年末に2倍、翌46年6月は約5倍と跳ね上がったのです。

 被災地も焼け残った材木やトタンなど半焼材を活用したバラックがポツポツと点在するようになります。奇しくも戦災の片付けがなされたのです。

 このように右往左往しながら「食う」に明け暮れた日々が続き、50年に勃発した朝鮮戦争の特需以降は工業を中心に東京は一転して復興を遂げていきました。いったん焼け野原になった後での復興なので結果として大空襲のつめ跡を残すというより消し去っていく方向に進んでいき、正確な記録を残すといった作業が後回しになったのは否めないでしょう。

戦争犯罪ではないのか

 東京大空襲は民間人が多く命を落としました。ルメイは「もし、われわれが負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」と後に語っています。

 アメリカは国家として東京大空襲を「戦争を少しでも早く終わらせるため」と原爆投下と同じ論理で正当化しています。しかし大空襲に軍事的意義があったとする研究者はアメリカでも少ないのが現状です。あったとすれば心理的影響でしょう。

 だとしても日本の継戦意欲を決定的に欠いた行為かというと疑問符をつけざるを得ません。沙汰の限りと申して過言ではない列島焼け野原戦術も前記のように国民は慣れつつありました。

 エリア爆撃しか当時有効な策はなかったという意見もあります。残忍とされる大量の爆撃機による超低空攻撃そのものに米兵が慣れておらず、危険を冒してまで結果を出すにはこの方法しかなかったと。

 米軍を主導とする戦争が「敵の市民」の死を明らかに気にかけるようになったのは91年の湾岸戦争ぐらいから。ピンポイントで空爆できるようになり、もはや東京大空襲のような作戦を採らなくて済むようになったとの解釈もあるのです。

 でも、たった2時間半の夜間空襲で10万人の命を奪った悲惨さは今も昔も変わりません。イデオロギーを超えて「あの空襲は何だったのか」を考えるのは日本だけでなく世界中で意味のある行為です。忘れたくありません。

 

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

坂東太郎の最近の記事