善き立憲君主を目指した昭和天皇の蹉跌と明治憲法

史料の発掘は続く(写真:アフロ)

 今日は終戦の日。あの無謀な戦争はなぜ起きたのか。「聖断」による終戦はなぜ可能であったのか。そもそもどうして「聖断」を必要としたのかなどを改めて考察してみます。

議会と内閣の条件付き権力付与と統帥権

 大日本帝国憲法(明治憲法)13条は「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と記します。宣戦と講和は天皇の専権。とはいえお一人で「よし!戦争だ!」「止めた!」といきなり決めるわけもなく司る役割は当然存在しました。

 ただこれが現憲法と比較すると複雑なのです。現憲法は戦争放棄と戦力不保持をうたっているので開戦の定めがあるはずもないものの他の意思決定の仕組みは明快です。

 それに対して明治憲法はあいまい。その規定と終戦時の状況を以下にみてみます。

1)帝国議会(今の国会に相当。衆議院と非公選の貴族院の2院制)

 明治憲法5条に天皇への「協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と定められました。文字通りとらえれば陛下に賛成・協力するだけ。もっとも「立法権ヲ行フ」ので政府提出法案などへ同意して成立させる権能は所持していました。言い換えると不同意の意思も示せるので一時期は政党政治が発展するも終戦時には陸海軍の方針を追認するだけと無力化していたのです。

2)内閣

 明治憲法は55条で単に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とだけ示しています。補弼を字義通りとすれば「天皇をお助けする」とあいまい。長らく美濃部達吉の天皇機関説が通説とされてきましたが1935年に問題視され非常に狭く解釈されるようになっていきました。

 内閣の規定は勅令(天皇の命令)である内閣官制に規定されています。まず「内閣ハ国務各大臣ヲ以テ組織ス」で「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班」とされました。「首班」の意味するところは「同輩中の首席」にすぎなかった(首相官邸ホームページより)のです。

 首相(内閣総理大臣)自身も「国務各大臣」の一員で他大臣の任免権もなし。「同輩中の首席」はざっくりいえばアニキ分。終戦時の鈴木貫太郎首相(海軍出身)が後述する天皇の「聖断」を仰ぐしかなかったのもここに由来します。

3)帝国陸海軍

 便宜上、軍令と軍政(人事や予算など)にわけて考察します。軍令は明治憲法11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明記。統帥とは主に軍の作戦立案や指揮権です。それが天皇直属なので議会や内閣の同意は不要。1882年公布の軍人勅諭にも「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と述べられています。指揮権は大元帥たる天皇ただ一人が持ち、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長が一応「最高指揮官」に該当するのです。階級はたいてい大将。

 「一応」と留保したのは総長は参謀本部または軍令部を代表して計画を天皇に報告して裁可された命令を伝達する役割しか持たず、総司令官や○○軍司令官、山本五十六で有名な連合艦隊司令長官などと同格だからです。

 軍政トップは陸海軍大臣。ともに国務大臣で内閣を構成するも終戦時は「軍部大臣現役武官制」で陸海軍の現役大将・中将だけ(OBもダメ)が天皇から任命されました。軍政と軍令と便宜的にわけてみたものの実際には法務省官僚と検察官のようなもので同根。よって軍にとって不愉快な内閣であれば大臣を辞めさせ(天皇も「どうしても辞めたい」まで押しとどめられない)後任を送らないという手法で「毒殺」できました。そこまでしなくとも軍部大臣が現役限定だと内閣より「わが社」の意向が大事となるわけで都合がよかったようです。

「聖断」へ至った経緯

 要するに大戦末期に議会は機能不全。鈴木内閣は繊細かつ密やかな終戦工作に乗り出すものの全く支配が及ばない軍令の豊田副武軍令部総長と梅津美治郎陸軍参謀総長がそろってポツダム宣言受諾反対、何とかアニキ面くらいできる軍政も阿南惟幾陸相が反対、米内光政海相だけが受諾を主張します。

 かろうじて内閣は「補弼」権とでもいうべき能力を持するも軍部大臣の意向を首相が任免権で左右できません。まして統帥は天皇直属。さらにいえば総長を納得させても元来メッセンジャーにすぎないので諸方で戦う方面軍を納得させる能力はないのです。

 そこで鈴木首相が選んだのが「聖断」(聖上=天皇の決断)を仰ぐという方式でした。内閣も統帥部トップも一堂に会する御前会議で東郷茂徳外相(外交官出身)の訴える受諾案に昭和天皇が同意(8月10日)して一挙に終戦へと向かわせます。

 15日のラジオ放送で宣言受諾が国民に告知されると外地で継戦中の各軍にも伝えられました。大元帥の命令に抗するなど皇軍の根本否定なので武装解除や復員へと進んでいったのです。

昭和天皇が悩んだ立憲君主のありよう

 ここで2つほど疑問が浮かびます。1つは大元帥の意向次第で戦が止められたのだから昭和天皇は「聖断」以前は徹底抗戦派だったのか。そもそも開戦もまた天皇の専権なので太平洋戦争を是としたのも陛下ご自身ではないかという点です。

 憲法上の立ち位置や天皇の気持ちを藤田尚徳侍従長の回想録などから推測するとおおよそ以下のようなことがいえそうです。

 明治憲法は確かに4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」と天皇主権を明確化していますが続いて「憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」ともされています。また3条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とも。3条を「天皇は神さまで絶対だ」と解釈する人も多いし、間違ってもいないですけど実態としては君主無答責原則(天皇は法的な責任を負わない)で欧州の立憲君主国の憲法や基本法に広くみられる表現です。

 天皇に責任がなければ誰が負うかとなると一義的には補弼する「国務各大臣」でしょう。憲法はまた「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とも。一種の連帯保証です。

 昭和天皇は大命降下の際「憲法の条規を遵守」せよとしばしば命じています。自分は立憲君主であるとの揺るぎない信念を持っていたようです。あくまで自らの地位の根拠は憲法にあると。

 日米開戦直前は3度の御前会議が開かれています。うち2度は大本営政府連絡会議が決定した「帝国国策遂行要領」について。対米開戦準備と交渉を平行させる和戦両様の案だったのです。大本営は陸海軍の統帥部を指すため会議の決定は内閣も承知。しかも御前会議にも主要人物が改めて集まっており明確な異議・干渉は立憲君主として申し立てようもないと考えたもようです。それでもなお昭和天皇は開戦に傾きがちな「帝国国策遂行要領」での議論に対話の重要性を示唆してきました。

 11月末、いわゆる「ハル・ノート」が米側から提案されます。コーデル・ハル国務長官名に由来する覚書を日本は当時事実上支配していた満州(中国東北部)を含む中国からの全面撤退要求と読み「到底飲めない」と対米交渉の最後通告とみなしました。満州は「十万人の生霊と20億円の国幣を犠牲にして勝ち得た」地で喪失は非戦派すら認められない条件(ただし覚書の「中国」に満州が含まれるかは議論がある)。12月1日の御前会議で「対米交渉ハ遂ニ成立スルニ至ラス」と決定。開戦となったのです。

 では終戦の「聖断」はなぜ可能だったのでしょうか。藤田侍従長の回想録によると開戦は憲法が定めた責任者(国務大臣や統帥部など)が一致して訴えたのに対して、終戦はするかしないか(宣言受諾か戦争継続か)意見が対立し続けた果てに鈴木首相がどちらにすべきか尋ねてきたからと書かれています。「誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私はかねて考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」と。

明治憲法システムを作動させた人々

 もう1つの謎は天皇ただ1人が放射状に要職にある者を選ぶ仕組みがなぜ作られたかです。誰もがリーダーでありながら誰もリーダーシップを取る権限がない摩訶不思議な体制が敷かれた理由は何でしょうか。おそらく明治憲法制定当時の実力者にとって使い勝手がよかったからでしょう。

 例えば王政復古の大号令に記されている「諸事 神武創業之始ニ原キ」を本気で実現しようとした新政府の要人がどれだけいたか。現実には長州・薩摩出身者を中心とした藩閥が牛耳っていきます。明治憲法の立役者であった伊藤博文やライバルの山縣有朋あたりは時にいがみ合いながら大きな戦争が起きれば助け合いもしました。

 日清戦争は終始2人のペースで進み「統帥権ガー」などと反抗する者皆無。日露戦争時になると2人は一線を退くも「元老」として伊藤が立憲政友会の西園寺公望や原敬の、陸軍を支配する山縣が桂太郎の、それぞれ背後霊と化して隠然たる力を保持し続けます。

 日本海海戦大勝利という国民の目にはこれ以上ない朗報を停戦のタイミングと冷静に判断し、伊藤が派遣した金子堅太郎にセオドア・ルーズベルト米大統領と接触させ、ポーツマス講和会議で全権を務めた小村寿太郎外相の交渉をアシスト。ロシアからの賠償金が取れない内容の条約を結んで国内大ブーイングのなかでも収めてしまいました。

 海軍も頭領としてあがめられていた山本権兵衛が海軍大臣(軍政)ながら東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命。そんな権限はないとの批判も「ある」(ありません!)と一蹴して済んでしまったのです。

 革命第1世代が徐々にこの世を去り薩長藩閥も次第に消滅して政党政治が力を発揮していく過程でも統帥権の課題は内在していました。1922年2月締結のワシントン海軍軍縮条約で主力艦保有比率を米英5に比して日本3と決めたのにも軍部から相当な反発が出たのです。しかし条約会議の全権の1人であった加藤友三郎海軍大臣(大将)の強力なリーダーシップでことは成就。のみならず同年からは首相を務めて海軍のみならず陸軍の大軍縮を決行しました。彼の言葉「国防ハ軍人ノ専有物ニ非ズ」を証明した形でした。

 現役将校はさぞ不満であったでしょう。今も昔も官僚組織(エリート軍人もまた官僚)は予算獲得が成果で削減は敗北とみなすクセがあるから。それを抑え込めたのは日露戦争の連合艦隊参謀長という輝かしい軍歴だけではなさそうです。1930年のロンドン海軍軍縮条約で締結された補助艦制限比率の賛否で海軍が真っ二つに割れた時、制御できる人材はもういなくなっていました。

大元帥としての天皇が語った「朕の軍隊」

 1926年末、25歳の若さで即位した昭和天皇の回りには明治憲法システムの潤滑油的役割を果たしてきた人材がほぼ払底していました。ロンドン条約の時点で「元老」は西園寺公望のみ。統帥のすべてを抱え込む形となっていたのです。

 綱紀の乱れには自らあたって正す姿勢がみられます。36年、陸軍青年将校らが「君側の奸」を除いて天皇親政を実現させようと二・二六事件というクーデターを企てました。岡田啓介首相、斎藤実内大臣(前首相)、高橋是清蔵相らが殺害されたと聞いた(岡田は後に生存が確認される)天皇は激怒して厳しい措置を命じます。

 『西園寺公と政局 第五巻』の記載によると「反乱軍をなぜ早く討伐せんか」「速かに暴徒を鎮定せよ」「一時間の内に暴徒を鎮圧せよ」と命じ本庄繁侍従武官長などが「暴徒」という言葉だと軍が陛下に悪感情を持つのではと懸念し「差し控えて戴きたい」と申し上げても「朕の命令に出でざるに、勝手に朕の軍隊を動かしたといふことは、その名目がどうであらうとも、朕の軍隊でない」と突っぱねました。大元帥としての自負が感じられます。

期待される新たな史料の発掘

 善き立憲君主たらんとした昭和天皇ですが、自身の名の下に太平洋戦争を始めたのも事実です。45年8月29日、拝謁した木戸幸一内大臣に「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか」と問うています。

 戦後、連合国軍最高司令官として日本へ乗り込んできたマッカーサーを訪ねた天皇は「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない」と述べたと伝わっている(藤田回想録)のは有名な話。

 もっとも藤田回想録は会談に同行した奥村勝蔵通訳によるメモがもと。奥崎自身の記録は2002年に外務省と宮内庁から公開されるも内容が一部異なっています。

 翌年、日本国憲法が公布されて天皇は「日本国の象徴」と位置づけられ「国政に関する権能を有しない」存在と大きく変化しました。終戦から相当な期間、先の大戦に何らか関わった人物が多く政財界で影響力を振るっていて天皇のみ知り得る事実を実名で発表すれば十分に「国政に関する権能」を発揮してしまったでしょう。象徴天皇像を確立するという新たな責務も帯びて、昭和天皇から直接語られる機会は失われたのです。

 米ソ冷戦厳しき昭和の頃、報道記者には1つのジョークが知られていました。「最大のスクープは天皇かソ連共産党書記長との単独会見だ」と。「会えない」以前に絶対にぶっちゃけトークなどしないというのがオチです。

 崩御から30年以上経ち、新たな史料も発掘されて当時の状況も少しずつわかってきました。生き証人が没していく痛手がある半面で、だからこそ明かせる記録はまだまだ残っていましょう。二度と亡国の憂き目をみないよう更なる解明が期待されます。