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ハンセン病家族訴訟判決と「救らいの父」光田健輔

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
本日判決(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

対象外とされた家族の訴え

 本日、ハンセン病隔離政策で差別を受けたとする元患者の家族が損害賠償と謝罪を求めた集団訴訟の判決が熊本地裁で言い渡されました。

 かつて「らい病」と称され恐れられてきたハンセン病はらい菌による伝染病で1931年成立の「癩(らい)予防法」成立で強制隔離政策が採られて全国に設けられた国立療養所に入所させられるようになりました。戦後も一部を作り直した「らい予防法」が成立(1953年)。隔離政策が続きます。

 他方、48年成立の優生保護法(現在の母体保護法)によって入所者の避妊ないしは人工妊娠中絶を認める「断種」がなされてきたのです。

 96年にようやく「らい予防法」を廃止。98年提訴された患者・元患者を原告とする「らい予防法」違憲国家賠償請求裁判で熊本地裁が2001年「違憲」と断じて賠償を命じる判決を下しました。政府(行政府)は「患者・元患者が高齢であり早期の解決が必要」との理由で控訴ぜず確定。国会(立法府)も補償する法律を可決成立させるなど謝罪と救済の措置を講じたものの家族が対象外で本日判決の訴訟が起こされたのです。

光田はなぜ強制隔離や断種を主導したのか

 強制隔離や断種といった非人道的な営みがなぜかくも長く国家の手でなされてきたか。さまざまな理由があるなか、今回は光田健輔(1876~1964)という医師の存在からアプローチしてみます。

 光田は「救らいの父」とまで呼ばれたハンセン病の専門家で、一生をかけて取り組んだ学究です。原因不明の奇病で死の病とされ、ゆえに研究者さえ怖がって近づかなかった疾患を「らい菌による伝染病」と規定します。最先端の学説を取り入れ、細かい検討を加えた結果、ハンセン病は強い伝染病で強制隔離すべしという立場を明確化。1909年、現在の国立療養所多磨全生園に赴任し、30年には国立療養所長島愛生園長に就任しました。

 47年、ハンセン病の特効薬「プロミン」が国内でも導入されるようになり55年代ごろまでには薬の「国内外での評価が確定的なものにな」った(熊本地裁判決文)。にもかかわらず光田は隔離政策を主張し続け「らい予防法」制定にも積極的に関与しました。すでに絶対的存在となっていた光田と彼を支持する光田派医師の結束は固く「不治の病ではない」からと強制隔離や断種に反対した小笠原登医師らの反論を戦前に退け、持論に固執したのです。

 小笠原説はハンセン病はらい菌そのものの毒作用で発病するのではなく、それに感受性をもつ人が発病し、「治った」という状態も、身体から菌がいっさいなくなったという状態を意味するわけではないというもの。現代の感覚だと至極真っ当で感染症の多くが同じようだとわかるのですが、当時は伝染病(ないしは疫病)といえばペストやコレラなど死病を連想させ、小笠原説をもってしてもハンセン病の恐ろしさを払拭できなかったようです。

 全国国立らい療養所患者協議会(全患協)らによる反対運動も黙殺されました。光田派の理念は患者は社会で偏見などに苦しむよりも隔離施設という「楽園」で過ごした方が幸せで、そのなかで入所者同士が使命感に満ちた(光田のような)医師らと暮らして婚姻も許すというものです。

 ただし子をなすのは元々が病人である患者の母体に危機が及び、子にも感染する可能性があるので断種するという発想でした。本質にハンセン病患者を最終的に抹殺するという意図があったのは明白で優生思想そのものながら当時は思想そのものが一定の合理性を認められており、故に優生保護法も制定されています。患者団体の「反乱」は「楽園」秩序を乱すけしからぬ行為というのが光田派の発想で社会もまた許したのです。

あまりに長かった不作為の期間

 とはいえ光田は64年に死去しています。「らい予防法」が廃止される96年まで何故放置されていたのでしょうか。

 厚生省(現在の厚生労働省)は64年発表の「らいの現状に対する考え方」でらい菌の伝染力はきわめて微弱と認めました。すでに特効薬も存在しているから、この頃に何らかの動きがあってよさそうなものでした。熊本地裁判決でも「隔離規定の違憲性は、遅くとも1960年には、明白になっていた」と指弾している通りに。

 しかし政府の動きは療養所の待遇改善という微温的なものに止まり「きわめて弱い伝染力」と「治る」の両見解は国民の恐怖感や偏見を和らげた半面で無関心を呼び起こしたようです。「滅多にかからず、治る病気」ならば自分には関係がないと。しかも患者・元患者は生活圏から外れた施設に収容されていて回りにいないため存在すら忘れていきました。

 元厚生官僚で国立ハンセン病療養所課長などを歴任した大谷藤郎元国際医療福祉大学総長(1924~2010)が在官中に恩師であった小笠原医師の主張を実現させられなかった悔恨から「らい予防法」廃止運動や国家賠償訴訟で積極的な役割を果たすなどの努力が報われてようやく非人道的行為を少なくとも法的には改善しました。地裁判決は「国会議員の立法上の不作為」を問題としています。議員を選んでいるのは有権者であり、今日の判決でも真に裁かれているのは国民1人1人なのです。

 筆者もまたその1人。医学を収めたわけでも何でもない物書きが偉そうに何を解説しているのかというためらいはございます。しかし「専門家に任せておけばいい」という姿勢こそ悲劇を助長した無関心を招いた原因だという点に鑑みてあえて字にした次第です。

我々は何をしなかったのか

 光田イズムとは何であったのでしょうか。「ハンセン病資料館」の紹介に「らいに明け、らいに暮れた光田健輔の足跡は是とするも非とするも、日本のらいの歴史の中で一つの時代を画した生涯であり、その時代的背景を見ずして語ることはできない」と指摘していました。今でも同資料館は「あらましとお願い」のなかで「『光田が悪い』『国も悪い』『ハンセン病患者は気の毒だった』というように、ご自身は第三者の立場であるかのように考えてはいませんか」と問いかけます。

※「らい」という言葉が患者・元患者および家族の方に不快な思いを抱かせ、使用を慎むべきと筆者は承知しています。その上で固有名詞や当時の記載など、そう表記せざるを得ないところに限って用いたのをご理解いただければ幸いです。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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