なぜ皇室典範は生前退位を認めていないのか

伊勢神宮(写真:アフロ)

新旧皇室典範の規定はどうなっているか

 前回は、天皇陛下の生前退位に関する憲法上の問題について語りました。

生前退位を認めることに関する憲法上の問題について

 生前退位そのものを可能とするためには、憲法改正は不要であり、皇室典範を改正すれば足ります。他方で、天皇陛下のご意思に基づいてそれを行うことは憲法上の疑義を生じるという内容でした。

 そこで、今回は、少し論点を変えて、そもそもなぜ皇室典範は、生前譲位を認めていないのかというお話をしたいと思います。

 まず、前の記事でもお伝えしたとおり、皇室典範第4条は、皇位継承の要件として、明確に先の天皇が崩御することを規定しています。

皇室典範 第4条

天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。

 これは、戦後の現行皇室典範の規定ですが、実はこの規定は、戦前の旧皇室典範を引き継いだものです。

旧皇室典範 第十條

天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク

 このように旧皇室典範でも、天皇の崩御を践祚の要件としているわけで、天皇が生前に退位することは予定していないかたちとなっています。

歴代天皇の約半数は生前に譲位していた

 さて、ご承知の通り、明治の御一新以前は天皇が生前に譲位することは珍しいことではありませんでした。歴史上初めて譲位を行った皇極天皇以降、歴代天皇のおよそ半数にあたる64名もの天皇が譲位を行っています。

  1. 皇極天皇
  2. 持統天皇
  3. 元明天皇
  4. 元正天皇
  5. 聖武天皇
  6. 孝謙天皇
  7. 淳仁天皇
  8. 光仁天皇
  9. 平城天皇
  10. 嵯峨天皇
  11. 淳和天皇
  12. 仁明天皇(譲位から2日後に崩御)
  13. 清和天皇
  14. 陽成天皇
  15. 宇多天皇
  16. 醍醐天皇(譲位から7日後に崩御)
  17. 朱雀天皇
  18. 冷泉天皇
  19. 円融天皇
  20. 花山天皇
  21. 一条天皇(譲位から9日後に崩御)
  22. 三条天皇
  23. 後朱雀天皇(譲位から2日後に崩御)
  24. 後三条天皇
  25. 白河天皇
  26. 鳥羽天皇
  27. 崇徳天皇
  28. 後白河天皇
  29. 二条天皇
  30. 六条天皇
  31. 高倉天皇
  32. 後鳥羽天皇
  33. 土御門天皇
  34. 順徳天皇
  35. 仲恭天皇
  36. 後堀河天皇
  37. 後嵯峨天皇
  38. 後深草天皇
  39. 亀山天皇
  40. 後宇多天皇
  41. 伏見天皇
  42. 後伏見天皇
  43. 後花園天皇
  44. 後醍醐天皇
  45. 光厳天皇
  46. 光明天皇
  47. 崇光天皇
  48. 後光厳天皇
  49. 後円融天皇
  50. 長慶天皇
  51. 後亀山天皇
  52. 後小松天皇
  53. 後花園天皇
  54. 後土御門天皇
  55. 正親町天皇
  56. 後陽成天皇
  57. 後水尾天皇
  58. 明正天皇
  59. 後西天皇
  60. 霊元天皇
  61. 東山天皇
  62. 中御門天皇
  63. 後桜町天皇
  64. 光格天皇

 仁明天皇や醍醐天皇、一条天皇、後朱雀天皇のようにすでに死の床についていて、崩御直前に譲位を行ったといえる天皇を除外しても、60名以上の天皇が生前譲位を行っています。歴代の半数にも上る天皇が生前に譲位を行っているのですから、これは慣習としても確立されているといっていいでしょう。

なぜ旧皇室典範は生前退位を禁じたのか

 それでは、なぜ明治政府は、いや明治の元勲たちは、旧皇室典範第10条で生前退位を禁じるかたちとしたのでしょう。

 さて、ここで歴史上の重要人物に登場してもらいましょう。幕末の志士にして明治の元勲、憲法を作り、国会を作り、史上最初の総理大臣となった伊藤博文です。明治日本はもちろん多くの人間が関わって作り上げられたものですが、彼がその中心人物の一人として、日本が近代国家へと歩む道のグランドデザインを描いたということを否定する人はいないでしょう。

 伊藤博文は井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らの3人と一緒に憲法の起草に取り組み、1888年(明治20年)に憲法案と皇室典範案を完成させましたが、同時に、各条文に解説を加える説明書を作成しています。その後学者などの修正を経て、完成したのが『大日本帝国憲法義解』と『皇室典範義解』です。その後、1940年に憲法学の大家である宮沢俊義(芦部信喜の師匠)が『憲法義解』として岩波書店から発刊しました。

 起草者たちが自ら作成した、帝国憲法・皇室典範の注釈なのですから、立法の背景などを知るには最重要文献といってよいでしょう。

 さて、この『憲法義解』では、旧皇室典範第10条についてどのように記述しているでしょうか。

 

再ビ恭テ按スルニ神武天皇ヨリ舒明天皇ニ至ル迄三十四世甞テ讓位ノ事アラス讓位ノ例ノ皇極天皇ニ始マリシハ蓋女帝假攝ヨリ來ル者ナリ(繼體天皇ノ安閑天皇ニ讓位シタマヒシハ同日ニ崩御アリ未タ讓位ノ始トナスヘカラス)聖武天皇光仁天皇ニ至テ遂ニ定例ヲ爲セリ此ヲ世變ノ一トス其ノ後權臣ノ強迫ニ因リ兩統互立ヲ例トスル事アルニ至ル而シテ南北朝ノ亂亦此ニ源因セリ本條ニ践祚ヲ以テ先帝崩御ノ後ニ即チ行ハルゝ者ト定メタルハ上代ノ恒典ニ因リ中古以來讓位ノ慣例ヲ改ムル者ナリ

出典:伊藤博文『皇室典範義解』

 これはつまりどういうことかというと、初代の神武天皇から34代の舒明天皇まで譲位した例はなかったというから始まります。最初の譲位は皇極天皇ですが、その後しばらく譲位する天皇は女帝に限られます。これは女帝があくまで男性の皇族がいない場合の緊急避難的つなぎであったことによるもので、その後男の皇族が成人すれば譲位することが慣例だったということでしょう。皇極天皇の場合は中大兄皇子(天智天皇。ただし実際には孝徳天皇に譲位)、持統天皇の場合は草壁皇子(文武天皇)、元明天皇、元正天皇の場合は首皇子(聖武天皇)です。

 しかし、その後男の天皇であっても譲位を行うことが定例となります。ここにあるように聖武天皇や光仁天皇が譲位したことによるものです。聖武天皇は男性で初めて譲位を行った天皇ですが、これは聖武天皇が出家してしまったことによるものだという説があるようです。光仁天皇については、このときすでに70を超えた老齢であり病気を理由に桓武天皇に譲位しています。

 桓武天皇以降、都は平安京に移りますが、嵯峨・淳和・仁明の治世である「崇文の治」が終わると、承和の変(842年)を皮切りに藤原家(とりわけ不比等の次男房前系の藤原北家)の権勢が強くなり、9歳で文徳天皇が即位するなど、次第に皇室はお飾りとなっていって実権を失っていきます。この後はしばらく摂関家による政治支配が勢いを強め、天皇の地位も藤原一族の意向によって左右されていきます。

 また、11世紀にはいって院政が始まると、太上天皇(上皇)や太上法皇(法皇)の権力が強くなり、天皇以外に最高権力者である「治天の君」が登場するわけです。その後、鎌倉幕府体制や建武新体制を経て、ついには南北朝による両統迭立時代となるに至り、政治は混迷を極めて中世社会秩序の崩壊へとつながっていくわけです。

 このように天皇が、誰かの意思によって地位に祭り上げられたり、逆にその地位を逐われたり、または自らその地位を譲ることにより院制というかたちで権勢をふるったりするようになると、社会は混乱する。「天に二日無く地に二君無し」。そのように憲法の起草者である伊藤博文たちは考えたわけです。

 また、明治日本は、「神武創業の始めに立ち戻る」として王政復古を訴えているわけですから、譲位が慣例となる以前の、上古の天皇に戻るべきであるというように考えていたわけです。そのためには譲位を認めるわけにはいかなかったわけです。

 伊藤は、帝国憲法と旧皇室典範の草案に先立ち、1887年(明治20年)10月15日、井上、伊東、金子ら東京高輪の伊藤邸で両草案について討議しています。この「高輪会議」にて、井上らは譲位を認めることを主張しますが、伊藤は、「又一たび践祚し玉いたる以上は、随意に其位を遜(のが)れ玉うの理なし。抑継承の義務は法律の定むる所に由る」として、これを否定しています。

 つまり、「古代より譲位は数多く行われてきたのだからむしろ日本の皇室の特徴であり伝統である」という考えに対しては、伊藤は、「いやいや、それはあくまで例外が根付いてしまった結果の悪しき慣例である。天皇というものはそもそも終身制であって、そう簡単にコロコロ変わっては問題である」という認識なわけです。

 明治日本は、天皇を中心とする中央集権体制です。その天皇の地位が不安定となれば、政情、ひいては国家の屋台骨が揺らぐ可能性がありますから、皇室典範は生前譲位を禁止しているわけです。これは卓見であったといえるでしょう。

「生前退位」に関する議論はどうあるべきか

 今回の報道を受けて、天皇陛下のお体を心配する声が多く、国民世論はこれを認める方向にあるようです。確かに、陛下は御年82歳である上に、過去には、心臓の冠動脈のバイパス手術や前立腺がんの手術も受けられています。国事行為を続けられることは、心身ともに大きな負担であることは間違いないでしょう。

 また、帝国憲法とは異なり、現行憲法下においては、天皇は日本国及び日本国民の統合の象徴であり、なんらの政治的権力を有していません。そのことからすれば、仮に生前退位を認めたとしても問題は少ないのかもしれません。

 他方で、象徴であるからこそ、自発的意思に基づく退位は、そぐわないという意見もあります。

 例えば、第91回帝国議会衆議院において、日本社会党の及川規議員から、新しい皇室典範の法案に天皇退位の規定がない理由についての質問がなされましたが、政府側の国務大臣・金森徳次郎は、天皇は国の象徴であり、国民は万世一系の天皇に絶対の心のつながりをもっていることを訴え、「天皇御一人のお考えによりまして、その御位をお動きになるということは、恐らくはこの国民の信念(精神的結合の中心)と結びつけまして、調和せざる点がある」と答弁して、生前退位を否定しています。

 医学が進歩した現代にあっても、未だ人の生死は人智の及ばぬところにあります。したがって、生死を基準とする地位の継承は、人為的介入を阻むことができます(もちろん可能性の話で言えば暗殺などもありますし、実際に過去には暗殺されたと疑われる天皇もいますが、現代においては非現実的であるといってよいでしょう)。これを仮に譲位というかたちを認めるとすれば、そこには政治的意図が入り込んでしまう余地があることは否定できません。実際に、戦前には軍部が昭和天皇の弟である秩父宮を担ごうとしたことがあります。仮に皇室典範を改正して生前退位を認めるとしても、完全に自由に認めることは難しいでしょうが、ではその要件をどのように定めるのかという議論が残ります。

 この要件としては、「天皇に病気などの不測の事態があった場合」というのが、事由の一つとして考えられますが、実際にこういった場合のために摂政という制度があります。

皇室典範 第16条

1 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。

2 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

 実際に、帝国憲法下ではあるものの、昭和天皇は、大正天皇が体調不良であった折、摂政として天皇の国事行為を代行されたことがあります。現行の日本国憲法と皇室典範においても、この摂政の制度がある以上、これを活用し、あくまで皇位継承と国事行為の遂行とを区別して対応するという方法もあるわけです。

 憲法が示す通り、天皇というものは、「日本国及び日本国民の統合の象徴」であり、また世界最古の王室として悠久の歴史を有するものであります。したがって、その在り方を議論するためには、単に今目の前にある事象のみで判断すべきものでもなく、歴史的経緯を踏まえた日本という国のかたちというものを捉えて行う必要があります。今回の報道を受けて、今後は皇室典範改正の是非やその内容について議論がなされると思いますが、そうした深い考察の下に展開されることにより、我々が国民として、歴史的経緯を踏まえた日本という国のかたちについて考えるよい契機となることを望みます。