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「東京五輪に出るなら辞表を出せ」 夢の霧散に負けなかったサッカー日本代表監督

杉山孝フリーランス・ライター/編集者/翻訳家
1978年のアジア大会で、日本代表の指揮を執る二宮さん(写真:山田真市/アフロ)

「東京2020オリンピック」が、「2021年」に行われる。

 アスリートにとって、「1年間」が持つ意味は重い。昨年のコロナ禍によるオリンピックの延期を受けて、競技者としてのキャリア、あるいは人生そのものを熟考した末、1年後を待たずして、大会を終えた選手たちがいる。

 だが、他人の一言で出場辞退に追い込まれた選手などいないだろう。ましてや、競技と関係ない人間の命令で、キャリアの大事なステージを手放す選手などいるはずがない。

「そんな時代だったんですよ」。そう話すのは、元サッカー日本代表の二宮寛さんだ。84歳になった現在は、神奈川県の葉山町で営むカフェ「葉山パッパニーニョ」で、自ら淹れるこだわりのコーヒーを提供している。

 温和な表情が店の雰囲気をさらに柔らかくいているようだが、話題がサッカーに移ると、一気に眼に宿る光が力を増す。

 それも当然だろう。天皇杯を制した慶応大学在学中に、日本代表デビューを飾った。大学卒業後は三菱重工(浦和レッズの前身)に入社し、選手・監督として、チームの強化に貢献した。

 日本サッカーの冬の時代に代表監督を引き受け、自ら築いたドイツとの人脈を活かして奥寺康彦さんのブンデスリーガ移籍のきっかけをつくるなど、代表チームの強化と環境改善に力を注いだ。いわば、今や国内最大級のビッグクラブとなった浦和レッズと、ワールドカップ出場が当たり前になった日本代表の、現在に続く道を拓いたと言っていい。サッカーとともに人生を歩んできた人だ。

 そんな二宮さんに、唯一欠けているものがある。「オリンピアン」の称号だ。

「皇居ランナー」のさきがけ?

 1959年に三菱重工に入社した二宮さんは、年末に翌1960年開催のローマ五輪の予選敗退を味わう。ワールドカップが別次元の存在である当時、次の目標は自国開催となる東京五輪に切り替わった。

 三菱重工での配属先は、電力会社向けの変電設備を扱う原動機部。造船とともに三菱重工の主軸を担う部署だった。「サッカーをやっていたので体力があるから、24時間働かせても平気だと思われていたんだと思います(笑)。それくらいに皆、一生懸命働いていました」と二宮さんは振り返る。

 その激務の合間を縫って、トレーニングに励んだ。「皇居の周りのランニングを最初に始めたのは、おそらく僕だと思います」と笑う。朝7時には丸の内の本社へ出社し、皇居の周りを2周。着替えた後に食事を済ませて、9時から仕事を開始した。

 サッカーを社技にしようという動きがあった社内で、周囲のサポートにも助けられた。夕方になると、部長が自分用の車を用意して、東京大学構内にあるグラウンドでの練習の送迎に使わせてくれた。「2代続けて、素晴らしい部長に仕えましてね。その方たちには、本当にかわいがっていただいて」。練習後は再び会社に戻って仕事に励み、また翌朝7時からトレーニング。すべてはオリンピックのためだった。

 ローマ五輪出場を逃した後、日本代表の遠征や強化試合が一気に増えた。それだけ、東京五輪に向けて力を入れていたのだろう。現在とは違い恵まれた環境ではなかったが、「遠征に行ってきますと部長に挨拶に行くと、部長室の外へ出て『二宮がまた行くぞ』なんて声をかけてくださる。すると皆が拍手してくれて『行ってきます』と出かけていきました」。皆が、オリンピックを楽しみにしていた。

運命を変えた上司の一言

 突然、舞台は暗転した。

 東京五輪を前にした海外遠征の帰り際、二宮さんは東京五輪参加メンバー入りを告げられた。帰国してすぐ、部長室へ報告に向かった。いつものように、部長の音頭で部内から喝采が上がった。そこにやって来たのが、原動機部担当の副社長だった。副社長が放った一言で、突然、風向きが変わった。

「オリンピックに出るのなら、辞表を出してから行きなさい」。仕事一徹だった副社長が放った一言で、部長との修羅場が始まった。

「部長は、真っ赤な顔で『何を言っているんですか、こんな若造が1人いなくたって、原動機部はつぶれません!』なんて言ってね。『入りたての若い社員の指導は、副社長が口を出すような問題じゃありませんよ』と、一歩も引かない。2人とも頑固で譲らなくて」

 たまらないのは、当事者でありながら、バトルの蚊帳の外に置かれた二宮さんだった。

「当然スポーツマンとしては、初めて日本で行われるオリンピックというせっかくの機会に、死んでも出たいと思うわけです。部長があの方じゃなければ、もしかしたら『辞表を書いてでも行きます』と言ったかもしれない。でも、本当に一生懸命やってくださった部長が、一歩も引かないことが、本当にうれしかったし、ものすごくつらかった」

 激しい言い合いに、二宮さんは割り込んだ。「当時、目黒荘という単身赴任の役員用の寮のようなものがあったんです。そこに副社長が住んでおられたので、『今晩、目黒荘にうかがわせていただきます。今日はおふたりのご意見、ありがとうございました』と。僕の立場では、それしかなかったんですよね」。

 部長と目も合わさず、言葉も残さず副社長が出ていった部屋で、二宮さんは上司に告げた。

「頭が床につくくらいに頭を下げて、『本当にありがとうございました。せっかくああ言って応援してくださいましたが、副社長に言われたからではなく、会社の状況を考え、自分なりの決心として辞退させていただきます』と言いました。そうしたら、部長は『本当にそれでいいのかい』と、ひとこと言われました。『はい』と答えると、そうかと言って立たれて、僕の手を握ってね。あの時の感触は、今でも忘れません。握っている手が震えているんですよね」

 終業後に足を向けた目黒荘で、「いろいろお話をうかがって、私自身の考えで辞退させていただきます。明日、日本サッカー協会に行って、辞退届けを出しにいきます」と伝えた。「そうか、じゃあ乾杯しよう」と副社長が注いだのは、「平社員が飲めるようなものじゃなかった」(二宮さん)ロイヤルサルートという高級ウィスキー。酒など飲まないアスリートが、苦い思いと一緒に胃袋に流し込み、消化不良のふらつく足で帰宅した。

夢が突然絶たれても

 五輪出場辞退を告げると、日本サッカー協会の幹部や、日本代表の指導にあたっていた「日本サッカーの父」デットマール・クラマーさんらが会社にやって来た。人事担当者らに、ドイツ人のクラマーさんは五輪と社業の軽重を問うた。その場には、最大の応援者である原動機部の部長もいた。

「昔の人は、偉かったですね。副社長がどうこうなんて、一切言わない。スケールが違ったんですよね。『私の部下がこんなことになって、本当に申し訳ありません』とだけ言って、真っ先に深々と頭を下げていたのが部長だったんですから。私には何も言えませんよね」

 五輪の出場辞退は、「『頭の中が真っ白になる』と、よく言うけれど、真っ白どころじゃなかった」というほどのショックだった。サッカーと正面から向き合える心持ちになれないのも当然だったが、二宮さんは次の社命に従った。クラマー氏の提唱で五輪後に始まった、日本サッカーリーグでの優勝だ。

 監督として受けた新社長からのタスクを、目標より2年前倒しで達成した。その後、二宮さんは監督として日本代表に戻った。

 社業では、20年以上にわたりドイツとオランダで暮らし、ヨーロッパ三菱自動車の社長を務めあげた。退職後に始めたカフェの名は、欧州で働いていた際に友情を育んだドイツサッカー界の「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーがつけてくれた。店には今、「カイザー」という名のコーヒーがある。

「東京オリンピックと聞くと、懐かしいと言えば懐かしいけれど、ちょっとマイナスな気持ちになりますね。だけど、あそこで我慢していろいろやったことが、次につながったんだと思います」

 二宮さんの座右の銘は、「植えられた場所で精いっぱい咲く(Bloom where you are planted)」だという。

「会社でもサッカーでも、本当に人に支えられたなと思います。人間には、運というものがありますよね。東京五輪に出られなかったことは、本当に今でも一生の中での残念なことに入ります。でも、『植えられたところに咲く』じゃないけれど、あまり一喜一憂していてはいけませんね」

 アスリートとして、社会人として、応援される意味と喜びを理解している。だからこそ今、思う。

「もうちょっと心も豊かにして、もう少し素直な気持ちでアスリートを応援してくれるような社会になるといいですよね。コロナウイルスにしても、五輪にしても、日本人の心を変える良いチャンスだと思います」

 不寛容の時代に。

 二宮寛、84歳。人生2度目の東京五輪を見つめる。

カフェを営む現在も、サッカーへの熱い思いに変わりはない(筆者撮影)
カフェを営む現在も、サッカーへの熱い思いに変わりはない(筆者撮影)

フリーランス・ライター/編集者/翻訳家

1975年生まれ。新聞社で少年サッカーから高校ラグビー、決勝含む日韓W杯、中村俊輔の国外挑戦までと、サッカーをメインにみっちりスポーツを取材。サッカー専門誌編集部を経て09年に独立。同時にGoal.com日本版編集長を約3年務め、同サイトの日本での人気確立・発展に尽力。現在はライター・編集者・翻訳家としてサッカーとスポーツ、その周辺を追い続ける。

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